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みなとみらいの一角にある〔AJIRO〕グループ本社の最上階、広い社長室の中で、網代実光は軽く苛立っていた。
応接ソファの向こうでは薮田が背筋を伸ばして座っている。刑事としていくつもの捜査現場を踏み、近頃では網代を前にしてもどこか図太さをうかがわせるような男になっていたが、今は網代の不機嫌さを敏感に感じ取ってか、その身に小さな緊張を走らせている。
「その菅山という男の周辺は洗ったのか?」網代は薮田を鋭く見つめたまま訊いた。
「そこは帳場のほうでもやってますが、あれを匿えるような人間というと」薮田は首をひねる。「仮に息があったとしても、あれだけの怪我ですから手術が必要です。どこかの病院に入れなければいけないはずですが、近隣県を含め、淡野が運ばれた形跡がある病院はどこにもないんです」
「かといって、死体も出てこない」
網代の呟きには、薮田もうなずくしかないようだった。
「それは確かに不思議でして、菅山が海に流したんじゃないかって見方があるにはあります。普通なら見つかるはずですが、潮の流れで沖に出てしまったんじゃないかと」
「都合のいい話だ」網代は吐き捨てるように言った。
長く網代の下でシノギの実行役を務め、近年は表のビジネスに専念する網代に代わり、裏の参謀としてシノギの差配を一手に担ってきた淡野が引退を申し出てきた。
これまでの貢献度を考え、その希望は呑んでやってもいいと思った。〔AJIRO〕がここまで大きくなった今、シノギで生まれる小遣いのような金などどうでもいいのだ。ただ、表のビジネスに付随する政治的な工作活動などの関係で、シノギのようなスキームはこれからも必要になってくる。その時々で淡野を引っ張り出してくることくらいはできるだろうし、そこでまた活躍してもらえばいいと思った。
そしてちょうど彼の力を借りたいと思っていた案件があったので、それを頼んだ。痛快な計画であり、淡野がそれを楽しんでやるだろうことは、長年の付き合いから分かっていた。彼が本来の力を発揮すればうまくやり遂げるだろうことも。
しかし淡野は結果的に下手を打った。捜査一課の裏金に関係する幹部たちの行動をコントロールし切れなかった。淡野は手配され、ついには潜伏中の尻尾もつかまれて、警察の網にかかるのも時間の問題となった。金そのものは奪えたとしても、自分は捕まるしかないとなれば、その計画は失敗以外の何物でもない。
以前の淡野からは考えられない失態だと言ってもいい。網代が思っていた以上に、彼はシノギに必要な感覚を鈍らせていた。要は焼きが回っていたのだ。
引退したら子会社の役員のポストを用意すると言ってやったときの彼の表情を思い出す。心から安堵したような穏やかな顔だった。人の腹をえぐろうとする角や人の肉を食らおうとする牙などはもうすでに捨て去ったかのようだった。
残念ながら淡野は、無理に逃亡を助けたところで将来的には使い道のない人間になってしまっていた。しかし、そのまま放っておくには彼という男は網代と近すぎたのだった。警察に捕まれば網代のことを吐く可能性が出てくる。淡野に限ってその心配はないとは思うものの、安心していていい話でもない。淡野の中で何らかの大きな心境の変化が起こらないとも限らない。
いろいろ考え──実際にはほとんど一瞬のうちに判断を下したのだが──網代は淡野を警察に捕まる前に始末することに決めた。その手の仕事を専門にこなす八手に任せ、警察の動きに先んずるよう薮田にサポートを任せた。
しかし……。
壁にかけられた液晶画面が、このフロアのセキュリティードアを通る首の太い男を映し出した。薮田に呼ばせた八手である。
少しして部屋のドアがノックされ、八手がのっそりと入ってきた。
滅多にこの男をこの部屋に呼ぶことはない。人を葬ってきた数は片手では足りないこのような男は、昼の世界においては異質さを感じさせるだけだ。せめてもという意味で、彼を呼ぶときには必ずスーツを着てくるよう命じているのだが、安いスーツの生地が鍛えられた僧帽筋や大胸筋で不格好に張ってしまっており、見苦しいことには変わりない。さらには首筋のタトゥーを隠すようにシャツの襟を立たせているのだが、それがまた気障を通り越して異様さを際立たせている。
八手自身は自分の身にまとわりついている血なまぐささには気づいている様子がない。今は暇にかこつけ、県内各所で発生している老人宅の緊縛強盗を自分で動かしているという。淡野がやっていたようなシノギの差配を自分でもやってみたいということらしいが、その手口は荒っぽいことこの上ない。そんなシノギはすぐに足がつくからやめろと薮田は止めているようだが、八手は意に介すことがないようだ。彼自身はすっかり慣れてしまっているらしいその粗雑さが、網代の神経にやけに障ることがある。
「お呼びですか?」
八手は新しい仕事でもあるのだろうかと言いたげな顔をして薮田の隣に座った。薮田のように網代の不機嫌さを敏感に感じ取る感性は持ち合わせていないのだ。
「淡野の話をしてた」網代は言う。
「見つかりましたか?」
八手はとぼけたように訊くが、網代は無言で応じることでその問いかけに答えた。
緊急のオペレーションをこなした二人は、それを成功させたものとして網代に報告してきた。しかし、よくよく話を聞いてみると、そこには不首尾としか言いようのないこともあった。
黄金町の淡野の潜伏先を襲撃した二人は、表に車が停まったことで逃走を急ぎ、その場をあとにした。駆けつけたのが菅山であることは、薮田が去り際に確認している。
薮田が捜査陣営に戻る一方で、八手だけがしばらくして現場に引き返したという。淡野が潜伏していた建物にはもう誰もいなかった。八手は建物内の床に残された血を拭き取り、入口付近の血痕も高圧洗浄で洗い流した。翌日には〔槐屋〕が件の建物に内装工事を入れた。現場の床はすでに張り替わってしまっている。
だから襲撃の痕跡はもはや残っていないのだが、想定外だったのは淡野の行方が分からなくなったことだった。数日後、菅山は警察に身柄を確保された。しかし淡野については何も見つからず、それどころか菅山自身が自分が〔リップマン〕だと言い張っているという。
最大の誤算は八手と薮田が淡野の死を確認していないことだ。
八手はナイフで刺した手応えから、淡野の死を確信したと言っている。
しかし、薮田がとどめを刺すよう促したのにもかかわらず、どうせもう死ぬからと言ってあえてとどめを刺さなかったと聞くと、もやっとした感覚が残る。
「お前、淡野は本当に死んだと思うか?」網代は低い声で八手に訊く。
「それはもちろん」
「なら、どうして死体が出てこない?」
「あの菅山ってのが海に流しちゃったんじゃないですか……なあ?」
八手は同意を求めるように薮田を見やったが、先ほど同じ見解で網代から冷たい反応をもらった薮田は微妙な表情で受け流した。
「海に流れてると思うなら、泳いで探しに行ってこいよ。年寄り相手にタタキしてる暇があるならよ」
「いや、海も広いですし」八手は少し困惑したように頬を引きつらせた。
「どうしてお前が殺した人間を、菅山がわざわざ海まで運んで処分しないといけないんだ?」
「さあ」八手は首をひねった。「あいつが殺した男を俺が処分してやったから、そのお返しですかね」
冗談で言っているならまだしも、八手なりに頭を働かせて導き出した推論らしく、網代は呆れるしかない。
「実際、淡野が生きてる可能性がどれくらいあると思ってる?」
「万に一つもないでしょう」
「俺はあると思ってる」網代は首を振って言った。「死体が出てきてない以上はな。菅山は渡辺という名前で淡野に紹介され、越村とも会ってる。越村は淡野を可愛がってたから直接訊いたところでごまかすだろうが、菅山が淡野を越村に託したとすれば、越村が闇医者に治療させて命を取りとめたという可能性は考えられる」
「だとしても、当分使い物にはならないでしょう」八手が言う。
「どういう意味だ?」網代は八手をにらんだ。
「いや、生きてたとしても、ベッドの上で息してるだけでしょうから」
「お前は死んだと確信してるんじゃないのか?」
そう言うと、八手は若干気まずそうな顔をした。
「そうですけど……ボスがそう言うなら」
「ありうると思うのか?」
「死んだのを確認したわけじゃないんで」
「お前、薮田に言われたのに、とどめを刺さなかったんだよな?」網代は詰め寄るように言う。
「それはもう、ほっといても死ぬと思ったからで」
「相手が淡野だから温情をかけたか? ワンチャン生き残れる道を与えてやったか?」
「そういうわけじゃ……」八手が網代から視線を外した。
「刺した感触が気持ち悪かったか? 淡野のナイフを奪って反撃するまでは反射的にできたが、改めてもうひと突きとなると気が乗らなかったか?」
「それはまあ、少しは……」八手がぼそぼそと言う。
「お前にも人並みの神経があるんだな」網代は立ち上がり、八手の胸ぐらをつかんだ。「くそほどの役にも立たねえ神経がよ!」
八手の頬を殴りつけ、ソファから引きずり下ろす。床に転がった彼の横っ面を力任せに踏みつけた。
「ぐっ、すいません……」
八手は痛みに喘ぎながら謝り、分厚い体躯を折り曲げている。網代は構わず、彼の顔と脇腹をコードバンのチャッカブーツで交互に踏み抜いた。彼が手で顔を守れば脇腹を踏み、脇腹を守れば顔を踏んだ。
「てめえの取り柄は何だ!? ためらわずに人を殺ることだろ! それしかねえだろっ!」
「はいっ! ぐっ、すいません!」
しばらく八手のくぐもったようなうめき声だけが部屋に響いた。少し疲れて動きを止めると、彼の鼻血でチャッカブーツのつま先が濡れていた。
「汚ねえ血で俺の靴を汚しやがって!」
苛立ちに任せて八手の腹を蹴り上げ、そのつま先を彼の安っぽいスーツにこすりつけた。
ソファに座り直すと、薮田がハンカチを差し出してきた。そのハンカチでチャッカブーツを拭いている間、八手は床に転がったまま小さくうなりながら荒い息を吐いていた。
「仮に生きてたとしても、一カ月はベッドから離れられないのは確かでしょう」薮田が慎重な口ぶりで言った。「帳場でも行方が分からない以上、追い続けるでしょうし、潜伏先が見つかったら、それに先んじて動けるようにしておきます」
「帳場はどう動く?」
「予想ですが、〔ネッテレ〕での呼びかけを復活させるのでは。とりあえず生存確認するには、それが一番手っ取り早いでしょうし」
網代は小さくうなずき、すっかり冷静さを取り戻した頭で、この先どう対応するかを考えた。
巻島からの〔ネッテレ〕の番組出演再開は、それから二週間ほどして持ちかけられた。
実際に話を受けたのは〔ネッテレ〕報道局のプロデューサーである倉重将典だが、報告を聞いた網代は捜査の現状を探りたい思いもあって、巻島と会ってみることにした。
倉重に案内されて社長室に上がってきた巻島は、一カ月近く前の〔ネッテレ〕において、「〔リップマン〕、今夜は震えて眠れ」と大見得を切ってみせたときの気迫はその顔に残っていなかった。緊急配備を敷いたにもかかわらず〔リップマン〕を取り逃がした徒労感と、捜査が後手に回ってしまったことの焦りが、持ち前の不敵さを失わせてしまっているように見えた。彼をこの部屋に招くのは初めてだったが、部屋の様子を眺め回す余裕もないようだった。
「曾根さんは裏金の件でだいぶマスコミ各社にいじめられたようですが、その後どうされてますか?」
倉重にコーヒーをいれさせ、巻島を応接ソファに促した。
「お気遣いありがとうございます」巻島はソファに腰かけて言う。「お恥ずかしい話ですが、曾根もその件ではずいぶん参ったことは確かなようで、その分、私には、〔リップマン〕を早く捕まえろという催促が厳しくなっています」
「現場も大変ですね」網代は微苦笑しながら言う。「しかし実際のところ、私はてっきり、〔リップマン〕は捕まるものだと思っていました。最後の配信でも巻島さんの自信は相当なものだとお見受けしましたしね」
「あるいはというところまでは追い詰めたはずだったんですが、結果的には捕まえることができませんでした」
「いつだったか、山手のほうからこのあたりまで、そこら中に検問が敷かれて、パトカーのサイレンが鳴り響いていた日がありましたよね。あれは何か〔リップマン〕と関係があったんですか?」
「ありました」巻島はあっさりと認めた。「確度の高い目撃情報が上がってきましたので、緊急配備を敷きました。ただ、検問を置くにも時間がかかりますし、街中ですから無数の裏道があるわけで、残念ながら我々の網にはかかりませんでした」
「そういうものですか」網代は巻島の無念さに共感を寄せるように嘆息した。「それで……いや、倉重から話は聞きましたが」
「ええ、再び〔ネッテレ〕の番組において、〔リップマン〕への呼びかけをさせていただけないかと」
網代は意識的にすっきりしない表情を作った。
「どうなんでしょう。あれだけお前を捕まえてやると大見得を切っておいて、また何もなかったように番組を再開するというのは、少々格好がつかない話なんじゃないかと思いますが」
「格好がつかないというのはその通りでして、視聴者からの批判は甘んじて受け入れます」巻島は殊勝に言った。「ただ、現状を考えますと、〔リップマン〕からの反応があったあの番組でもう一度呼びかけてみるというのが、〔リップマン〕の現在を知る一番の近道ではないかと思っています」
「呼びかけたところで、反応はありますかね?」網代は小さく首をひねって言う。「〔リップマン〕はおたくの裏金を狙って、それを奪ったんでしょう? 狙いを十分達したとすれば、表に出てくる意味はもうないと考えるんじゃないですかね」
「私はあると思っています」巻島は自信を覗かせて言った。「一時は追い詰められながら、我々の網をかいくぐって逃げた。彼はそのことを世間に向けて誇りたいはずです。私に対して、どうだ、見たかと言いたいはずなんです」
網代は巻島の表情を慎重に探った。この男は淡野が生きて逃げ延びていると本気で考えているのか、それともその可能性にすがりたいだけなのか……。
捜査本部内でも淡野はもう生きていないのではという見方が少なくないことは、薮田を通じて知っている。
しかし、巻島がどう考えているかということは分からない。捜査幹部レベルでしか共有されていない情報もあるかもしれない。
この部屋に入ってきたときの巻島は、配信で観てきたいつもの彼と比べても、どこか虚ろな雰囲気があった。自分の仕掛けた包囲網が空振りに終わったのだから無理もない。
それが、この話題に関しては彼の目に力がこもって感じられた。何か勝算を持っているかのようである。
ただ、もし淡野が生きていて巻島が〔ネッテレ〕で彼に呼びかけたとしても、もはやシノギに関係ない以上、淡野がそれに応えるとは思えない。それが淡野悟志という男だ。
しかし同時に、彼は網代に見切られ裏切られた身である。その立場からの行動というものがある。網代を牽制し、あるいは反撃に転じるために巻島の呼びかけに応える可能性もゼロではない。巻島の呼びかけに応えるとすれば、逃げおおせたことを誇るためではなく、そういった理由であるはずだ。
淡野が巻島の呼びかけに応じた場合、いったい何が起こるだろうか。それは網代にとってコントロール可能なものなのかどうか。
巻島が番組を再開しなかった場合、淡野はどこで何をするだろうか。彼の消息をつかむ方法はほかにあるだろうか……。
「なるほど」網代は束の間の思考を止め、おもむろに呟く。「しかし、再び番組に顔を出す以上は、〔リップマン〕に呼びかけるだけでは視聴者も許さないと思いますよ。巻島さんの都合だけで〔ネッテレ〕を使ってもらっても困ります。どうして追い詰めたはずの〔リップマン〕を取り逃がしたのか。捜査現場でいったい何があったのか。視聴者が納得いくような説明をしていただかないと」
「もちろん、視聴者を置いてけぼりにするつもりはありません」巻島は言った。「情報提供も相変わらず必要としています。例えば、〔リップマン〕は逃走の過程で何らかのアクシデントがあって重傷を負った形跡があります」
「ほう」
ソファの端に座って聞いていた倉重が未発表の情報に触れ、興奮気味にうなった。
「これなどは医療関係者から情報が寄せられるかもしれないという期待があります」
普通の捜査であれば安易にさらけ出さないような話だろうが、巻島のやり方は違う。網代からしても、ほかにどんな事実が明かされるか気を惹かれる。番組を追っていた視聴者も同様だろう。
「分かりました」網代は言う。「我々としても乗りかかった船です。神奈川県警の威信がかかった捜査に違いありませんし、その応援の意味もこめて、またしばらく番組を作らせていただきましょう」
「ご理解ありがとうございます」巻島が小さく頭を下げて言う。
いずれにしろ、このままの状況は網代としても据わりが悪い。淡野が生きているかどうかを確かめるためにも、巻島には動いてもらったほうがいいと思った。
ただ、巻島の呼びかけに淡野が応じた場合、淡野が網代の正体を暴露するような不規則発言に走ることは十分警戒しておかなければならない。
「では、倉重と少し打ち合わせしておきますので」
「分かりました。引き続きよろしくお願いします」
巻島を帰し、網代は倉重を打ち合わせに引き留めた。
「話の通りだ」網代はソファに座り直して言う。「まあ、気の済むようにやらせればいい」
「了解しました」倉重は二人きりだと逆に居心地が悪いのか、ソファのかたわらに立ったまま、網代の話を受けた。「警察も必死というか、威信回復のためには何としても〔リップマン〕を捕まえなければということなんでしょうね。でも、反響は大きいですから、番組が続くのは望むところです」
「一つ懸念がある」網代は言った。「裏金問題で県警をたたく者、巻島捜査官を熱烈に応援する者、いろんな立場の視聴者が入り乱れて、番組はますます過熱するかもしれない。単純にそうした反響が大きくなるだけならいいが、〔ネッテレ〕を敵視しているアンチ勢がいたずらに妨害してくる可能性もある」
「確かに、〔Y's〕の番組も時々荒れますしね」倉重は呑みこみよく応じた。
〔AJIRO〕のグループ会社では有名無名の論客が政治問題や社会問題を自由に語る動画を投稿できるサイト〔ヨコバナ〕を運営している。そこで多くの視聴数を獲得している論客は〔ネッテレ〕の政治討論番組に参加するようになる。〔ネッテレ〕でさらに熱狂的な視聴者を獲得して、インフルエンサーとも言える立場になっている〔ヨコバナ〕出身の若手論客も何人かいる。
彼らの思想は、高齢者に手厚く、若者の活躍を阻んでいる旧態依然とした日本社会を批判し、活力のある強い日本を作っていこうという姿勢で共通している。あげつらう相手は様々だが、耳触りのいいリベラル思想で日本の競争力を削いできたマスメディアや、中抜きとも揶揄される手数料収入で暴利を上げながら数々の国家的イベントを牛耳ってきた大手広告代理店などは格好の標的となっている。
彼らは今や〔ネッテレ〕の外にも活躍の場を広げている。そして信者とも呼ばれる彼らのフォロワーが育っている。夏に行われた横浜市長選においても論客の何人かを門馬敦也の応援演説に立たせてみたところ、数千人単位の信者が駆けつけ、横浜駅前は熱気に包まれた。
その頃から彼らを一つの思想集団として認識する人々がメディアにも現れるようになった。彼らは〔Y's〕との名で呼ばれ始めた。いや、自然発生的にそう呼ばれ出したように見えて、実は内部で名乗り出していた。
〔AJIRO〕の渉外部に高鍬弘斗という男がいる。この男は淡野にも負けないほど頭が切れる。
五、六年前、裏で振り込め詐欺の荒稼ぎをしていた頃、淡野が店長候補として連れてきたのがこの高鍬だった。闇サイトを通じて応募してきたようだったが、店長候補ともなれば淡野は慎重に人定めをする。面談してからそのままひそかに行動確認して、使える人物かどうか、バックに厄介な人間がいないか探るのだ。
淡野の目で合格となれば、網代は明かりを落としたホテルの一室で会い、一言激励することになる。
高鍬は振り込め詐欺の経験はないようだったが、不思議な落ち着きがあった。これまでは普通の大学生活を送っており、シノギでの稼ぎを奨学金の返済に充てたいという。奨学金の返済のために網代たちのシノギに加わってきた学生はほかにもちょくちょくいた。今後、どこかの会社に入ってカタギの生活を送るならシノギの秘密を洩らす心配もないだろうと、淡野は好んでそういう男たちを採っていた。
高鍬は店長を任せても、手際よく店をまとめ、売上的にも大きな結果を残した。淡野が感心とともにそんな報告を上げてくることは珍しかった。
網代は表のビジネスに高鍬を使いたくなった。シノギに関わった人間を会社で使うことなどしていなかったが、裏稼業に染まらないうちに足を洗わせ、表のビジネスの少し面倒な交渉事などができる人間に育ててみたかったのだ。
網代の意を受けて淡野が動いた。自分に伝手があるからと言って、高鍬に〔AJIRO〕を受けさせたのだ。社長面接までパスさせ、網代はお互いの顔がよく見える会議室の中で一対一で彼と会った。
法科大学院への進学を考えていたが、成長を遂げている御社で力を試してみたいと思うようになり新卒採用に応募したと、高鍬は淀みなく語った。
なら、こういう面談は初めての経験かと網代は尋ねた。
高鍬は一瞬沈黙して、網代をじっと見返した。そこで察したようだった。いえ、以前にもと彼は答えた。
以前とは? と網代は訊いた。
「振り込め詐欺の店舗を任せていただいています。採用のときにオーナーに引き合わせていただき、こんなふうにお会いしたことがあります」
高鍬は普通の企業面接では決して耳にすることがないような話を堂々と口にしてみせた。
「そういう話は、誰に対してであろうと口にすべきじゃないな」網代は苦笑しながら釘を刺した。「店長はクビだ。この会社で働きなさい」
網代は高鍬を採用し、法科大学院にも通わせた。高鍬は法曹資格を取り、今は〔AJIRO〕の渉外部に身を置いている。グレーゾーンの交渉事や工作などを任せており、例えば先の市長選で仕掛けた井筒孝典へのハニートラップなどでは高鍬が動いている。
その高鍬が〔Y's〕の面倒を見ている。いつからか彼が〔ヨコバナ〕系の論客とそのフォロワーの一群を〔Y's〕と名付け、ネット発信でそう呼ばれ出したかのように体裁を整えた。
〔Y's〕のYは〔ヨコバナ〕から来ており、〔ヨコバナ〕は「横町の酒場で交わすような話」という意味と〔AJIRO〕の拠点である横浜のダブルミーニングがかけられている。その裏で高鍬は、この勢力を網代が政財界で力を得ていく一翼に育てていこうとする思惑を持っており、闇の世界で鳴り響いている網代の別名〔ワイズマン〕と引っかけている。網代に天下を取らせたいという高鍬の孝行心が感じられ、網代としても悪い気はしない。
高鍬は〔Y's〕の論客たちと会食などを重ね、意見交換の名のもと、彼らの思想に方向性を持たせている。徳永一雄は今の民和党で唯一日本のことを真剣に考えている政治家だ。彼の盟友である門馬敦也も突破力こそないがバランスに優れた政治家である。横浜のIR誘致は是が非でも実現せねばならず、反対の声を上げているのは競争を嫌うホテル業界やパチンコ利権などにあずかっている典型的な既得権益層だ等々。
論客たちはごく自然に高鍬の影響を受け、配信においてもそういった主張をするようになる。網代が表に出ることはないが、〔Y's〕は網代の意図に沿った言論活動を進めていくのだ。
一方で、忽然と現れたこの言論勢力に対して、それを批判する人々も少なくなかった。マスメディアで活躍する知識人たちは、〔Y's〕を陰謀論を振りかざす胡散くさい集団と一蹴する。〔Y's〕は〔Y's〕でそういった既存のインテリ層を歯に衣着せずこき下ろすので、フォロワーを交えた論争はますますヒートアップしていく。
〔ネッテレ〕の配信番組では視聴者がアバターを使ってコメントを出せるのだが、アンチ〔Y's〕としか思えない視聴者が論客に論争を吹っかけてくることもよくある。それで番組が盛り上がるならまだいいが、中には人格攻撃やただの誹謗中傷でしかないコメントが並ぶこともある。論客たちはそうしたアンチ勢を好んで血祭りに上げようとするので、番組は簡単に荒れるのだ。運営側としても、NGワードでコメントを出せないようにしたり、問題ユーザーのコメント機能を停止したりして対応しているが、アカウントを変えてしつこく絡んでくる者もいて、根本的な解決には至っていない。
網代が懸念を示してみせたのは、そうした者たちの出方だった。
「連中が巻島捜査官の番組にも乗りこんでくるかもしれない」網代はその可能性を倉重に突きつける。「県警は攻撃されてもおかしくない弱みを抱えてしまっている」
「確かに」倉重はうなってみせた。「裏金問題は巻島さんの責任ではないでしょうが、神奈川県警の顔として、非難の的にはされるかもしれませんね」
「常識的な批判なら構わないが、エスカレートしていけば、連中は〔ネッテレ〕や〔AJIRO〕の姿勢にも攻撃を仕掛けてきかねない」
「なるほど……それは防がないといけませんね」
倉重の言葉に網代はうなずく。
「高鍬にも伝えておく。相談し合って、対応を考えておけ」
「了解しました」
倉重は一礼して、社長室を出ていった。
(つづく)