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31

「いやあ、風が吹いてきてますね」

 夕方、山口真帆が捜査本部の指令席にやってくるなり、そう言った。

「春一番ですか?」

 本田が訊くのに、彼女は「選挙の話ですよ」と返した。「日曜のみなとみらいの演説が大盛り上がりで、中間調査でも追い上げムードって出て、本当にワンチャンあるんじゃないかって感じになってきてますよ」

 選挙戦の中盤をすぎ、植草に追い風が吹き始めているという話だ。

 その雰囲気は熱心に選挙戦をウォッチしているわけでもない巻島にも感じ取れている。〔ネッテレ〕も手応えを得ているらしく、急遽、今週の巻島の出演番組は休止となり、市長選特集番組が組まれるという連絡が倉重プロデューサーから届いている。

「植草さんの勢いがどうかは知りませんが、今週に入って、ようやくまともな選挙戦になってきた感はありますわな」本田が言う。「先週あたりは街頭演説も荒れてて、犯行予告みたいなのもSNSで飛び交ってたっていうじゃないですか。私はまた、そんなことで本部長がうちらを動員させようとか思わなきゃいいがなって心配してたんですよ」

「そうですね」山口真帆もうなずいた。「警備部のほうでは、みなとみらいの演説は警戒してたみたいですけど、何もなかったですもんね。単に総裁選のテロの記憶を利用した、たちの悪いいたずらだったんでしょうね」

「まあでも、選挙戦が終わらないことには本当の意味では落ち着きませんよ」本田が渋い顔を作って言う。「うちの息子なんかも、門馬さんはコロコロ言うことが変わって結局何もやらないんだから、あれは駄目だなんて言って、植草さんに期待をかけてたようですけど、演説聞いて、あれも中身がない人間だなって一発で見破ってましたからね。どっちもどっちなら、とにかく早く終わってほしいですよ」

「まあまあ、どちらにしろ、あと一週間足らずで終わるわけですから」選挙戦をそれなりに楽しんでウォッチしている山口真帆はそう言い、それから話を変えた。「そうそう、総裁選と言えば、米村よねむらさんから報告もらってるんですけど」

 米村数正かずまさは防犯カメラの映像解析を担う捜査支援室の室長である。その彼と総裁選がどう結びつくか分からず、巻島は彼女の話の続きを待った。

「最近、新型インフルが流行ってて、マスク姿が珍しくなくなってるじゃないですか。それで、今までの解析ソフトだと、マスクで顔が隠れてる分、解析精度がやっぱり落ちてたみたいなんですよ。それで〔新日本電算〕のほうで改良されて、マスク姿でも精度が出るようになったらしいんで、支援室でもそのバージョンアップしたソフトにかけて解析し直してるんですって」

「ほう」本田が難しいことについては聞き流したような相槌を打ってから彼女に尋ねた。「それで、淡野が見つかったとか?」

「いえ、それはやっぱり見つからなかったらしいんですけど」山口真帆は少し眉を下げて言った。「でも、砂山知樹や菅山渉が運転手に使ってた兼松がこれに引っかかってきたそうです。それも、総裁選の演説会の日にあの横浜駅西口で」

 彼女は自分のパソコンを開き、保存してきた画像データをサムネイルから選び始めた。

「あの日の駅周辺の映像データを警備部がいっぱい収集してきてるんですよ」

 巻島もちらりとは聞いている。捜査本部では防犯カメラの映像データ収集班を今も稼働させているが、総裁選の街頭演説の日以降、収集班が横浜駅周辺を回ると、すでに警備部のほうで収集が行われていた。そしてその後、捜査支援室に解析依頼があったという。具体的な内容までは巻島の耳に届いていないが、おそらくは公安課でマークしているような左派の活動家があの演説会にもぐりこんでいたかどうか、あるいは茂沢が直近まで所属していた〔財慶会〕系構成員の姿があったかどうか調べることで、茂沢の犯行のバックに誰がいたのか突き止めたかったのだろう。

 捜査支援室では解析に協力する代わりに、データをこの捜査本部の解析にも使わせてほしいということで警備部と話が通っているようだ。街中の無数の映像データを任意で提供してもらうために回って歩くのはなかなか骨の折れることである。規模を縮小した捜査本部にとっても助かる話ではあった。

 その映像データから兼松と思しき人物が出てきたらしい。

「これです」

 山口真帆が見せてくれた画像にはマスク姿の男が写っていた。

「確かに兼松っぽいですな」

 本田が言う通り、目もとの感じは兼松と同一人物を思わせる。

「この人、いろいろ解析すると、改札から地下街歩いて、西口の地上に出てるんですけど、街頭演説は聞いてないようですね。北側の川沿いの道に向かってます」

「まあ、すごい人出ではありましたけど、西口に来てた全員が全員、街頭演説を聞きに来てたわけじゃないですからな」本田が言う。

「でも気になるのはその後の行動なんですよ」山口真帆は言いながら、別のデータを画面に出した。「川沿いの道に停めてあったバイクに乗るんです」

 彼女が液晶画面に出した映像には、男が道端を歩いていき、停めてあるバイクのほうに近づいていく様子が映し出されている。さらに違うカメラの映像に切り替わり、そこではヘルメットをかぶった男がバイクにまたがっている様子が捉えられていた。服装の色味などからして、兼松と見られる男と同一人物であるのは分かる。

「これがけっこう長くこの場にいるんですけど、三十分くらいして、ようやく連れの男が来て走り去るんです」

 山口真帆が映像を早送りする。やがて男が小走りで現れ、ヘルメットをかぶりながらバイクの後ろにまたがった。路上を映した映像であり、顔つきなどは分かりづらいが、年配風の男である。

 兼松が運転するそのバイクは、年配風の男を乗せたところですぐに走り出した。

「何かのシノギがあったか……?」巻島はそう呟いてみる。

 兼松は淡野のシノギにおいて運転手役を担った男である。この光景も、何かのシノギをこなしてきた年配の男をどこかに送る様子が映っているものと見るのが自然である。

「だと思うんですけど」山口真帆が言う。「さらに気になるのは、このすぐ後ろを例の茂沢が逃げてきてるんですよ」

「えっ」本田がそこまでは想像が及んでいなかったように驚いた声を上げた。

 確かに走り去ったバイクのさらに後方に人影が現れたのが確認できる。画面の端ではあるが、途中で立ち止まって追いかけてきた捜査員たちを威嚇し、最後には爆弾を暴発させて倒れこむ様子も捉えられている。

「いやあ、しかし」本田がうなりながら首をひねる。「関係ないんでは」

「まあ、状況的には連れの男を乗せて走り去ってるだけですからね」山口真帆が言う。「そうすると茂沢を待ってたとも違うようですし……ただ、二人とも後ろを気にしてはいるんですよね」

「そりゃ、警察がわあわあ言いながら茂沢を追っかけてるんですからね。この二人も何のシノギをやってきたのか知りませんけど、びっくりして早くずらかろうって思ったんでしょう」

 映像を見る限り、その本田の見解は特におかしいとも思われない。

 もちろん、これだけ茂沢とニアミスしているからには何か関係はなかったのかといぶかりたくはなる。ただ、その場合、兼松が茂沢を逃がす運転手だったのではと考えるのが妥当のように思うが、これは年配の男がバイクに乗ってしまっていることからして、無理筋のように感じられる。

 強いて考えるなら、この年輩の男がテロの見届け人のような役を担っていたという可能性はあるかもしれない。しかし、そのような役目であれば、急いでその場から離れようとする必要はないはずだ。茂沢が逃走しているときは、まだ演説会場も混乱の最中にあり、徳永の身に被害があったかどうかなど現場にとどまって見極めようとするのが自然である。

 そう考えると、やはり本田が言うように、ニアミスはただの偶然であり、茂沢のテロとこの二人は無関係だと考えたほうがいいように思える。

 念のため、村瀬を呼んで現場での心証を訊いてみることにした。

「茂沢が川沿いの道に逃げたとき、ちょうどその前方で二人乗りのバイクが発進してる。その運転手が兼松と見られるんだが、茂沢と関係があったのかどうか分からない。現場で彼の様子を見て、何か感じたことはあるか?」

 村瀬も驚いたようで、映像データを食い入るように見ていたが、巻島の問いには首を振ってみせた。

「何とも言えませんね。茂沢を追いかけるのに必死で、バイクの存在は気にも留めていませんでした。茂沢は何か叫びながら立ち止まって振り返ったんですが、単純にこれ以上は逃げ切れないと思って、威嚇で追手を牽制するしかないと考えたように見えてましたし」

 現場の感覚としても、バイクの二人と何か関係があるとするのは戸惑いを覚えるところらしい。

「戸部もあの場にいましたから、訊いてみましょうか?」

「いやいい」巻島は言った。「ここだけの話にしといてくれ」

 戸部は〔ポリスマン〕の疑いがかかっている一人である。このような話であっても、何かしらの情報として伝わる可能性があり、対応には慎重でなければならない。魚住に言わせれば村瀬も同様なのだが、巻島はまったく疑っていないので、彼に訊くことには躊躇はなかった。

「とりあえず、テロとの関連については考えなくていいだろう」村瀬を退がらせてから、巻島は本田に言った。「あの日、この付近で何かの被害届が出てなかったか、所轄に確認を取ってくれ」

「分かりました」

「支援室のほうには、兼松に加えてこのバイクの後ろの男もほかのデータにかけてもらうよう言っていただけますか」

 山口真帆にそう頼むと、彼女からも「分かりました」という返事があった。

 

 本田が横浜駅周辺を管轄する戸部署に問い合わせたところ、当日に発生した事件は傷害や窃盗などいくつかあったものの、すべて被疑者は捕まって捜査は終了しており、年配の男が関わっているような事案は見当たらないということだった。

 一方、捜査支援室のほうでテロ当日の駅前周辺映像をさらに解析した結果、年配の男は何かのシノギをやっていたわけではなく、総裁選の街頭演説を観ていた可能性が高くなった。ただそれも、聴衆の集まりには加わっておらず、少し離れた駅前ロータリーの片隅で演説を聞いていたようであり、テロの混乱を見てシノギを中止し、立ち去ったということも考えられた。

 それからさらに二日ほどして、捜査支援室から報告が上がってきた。年配の男の画像を過去に収集したデータに照合をかけたところ、元町・中華街や寿町界隈で濃いヒットが見られたという。

 また、兼松についても元町あたりが行動圏らしくちらほらとヒットがあり、磯子区や金沢区の広範囲でもヒットが見られた。磯子区や金沢区は最近では人員が足らずデータ収集が追いついていないが、もう一度強化しておく必要がありそうだった。

 いずれにしろ、この二人に関しては人物の特定に一歩近づいたと言え、巻島はそのための専従班を置くことにした。村瀬、津田、小川、小石を年配の男の担当に当て、長沼、関、松谷、青山を兼松の担当に当てることにした。

 担当には〔ポリスマン〕である可能性がゼロではないとはいえ限りなく薄い者たちを集めた。逆にこうした任務に久留須や戸部など疑惑の人間を当てて行動を見る手も考えられたが、彼らには先日から魚住配下の監視が付くようになっており、ひとまずはそちらの調べに任せることにしたかった。

「この調べについては帳場内でも極秘に進めたい。日々の報告は会議を通さず、村瀬と長沼が直接私に上げてくれ。周囲には防犯カメラのデータ収集に回っていると言っておけばいい」

 担当する者を集めて、巻島はそう伝えた。

 

 

32

「はい、それで、再来週からの東戸塚の工事は八人欲しいわけね。了解。じゃあ集まったら連絡するよ」

 越村侑平ゆうへいは仕事相手の工務店の社長との電話を終えると、携帯をテーブルに置いてお茶をすすった。

 今日の仕事はあと、夕方寿町に行って、日雇いの応募者がいれば面談するだけである。帰りは中華街に寄って豚まんでも買っていくかと思い立ち、そう言えば淡野も逃亡生活の最中、ここに顔を見せに来て、中華街で豚まんを買って帰ると言っていたなと思い出した。その後、あたり一帯にサイレンが鳴り響き、警察の緊急配備が敷かれた。あの帰りに何かあったのだ。

 神奈川県警の巻島の配信番組では〔リップマン〕のアバターが再び現れ、やり取りを交わしている。〔ワイズマン〕などはそれを観て、越村が淡野を匿っていると疑っている。

 しかし越村は淡野の行方など知らないし、巻島の番組に出ているのも本物の淡野かどうかは疑わしいと思っている。生きていれば、越村に連絡くらい寄越すはずなのだ。

 淡野はもうこの世にいないのである。

 どうしてかも想像するくらいはできる。〔ワイズマン〕がトカゲの尻尾切りのようにして葬ったのだ。

 あの日から一週間ほどして、〔槐屋〕が暗い顔をしてこの事務所を訪ねてきた。淡野とも付き合いがあった道具屋である。越村とも昔からの顔見知りであり、時々将棋を指す仲でもある。

 彼が言うには、淡野が隠れ家に使っていた黄金町の空き物件に〔ワイズマン〕の指示で内装工事を入れたらしい。普通、槐が請け負った仕事の話をすることはないのだが、さすがにこのときは思うことがあったようだ。

 床にうっすらと染みが残っていたと彼は言った。血を拭き取った跡なのだろう。のちに巻島の番組で、渡辺の車から血痕反応が出たという話も聞いた。逃走過程で負傷したのではという見方を示していたが、おそらくは隠れ家で〔ワイズマン〕配下の八手あたりの襲撃を受け、瀕死の状態に陥ったところを渡辺が車で救出したのだ。

 その後、渡辺があっさり捕まったのを見ると、淡野の生存には期待は持てない。もし生きていたら、やはり何らかの連絡があるはずなのだ。

 では、淡野の遺体はどうなってしまったかという疑問が最後に残るが、渡辺が車に乗せたとき、まだ淡野が口を利ける状態であったなら、彼は自分の扱いをどうすべきか渡辺に指示していただろう。淡野とはそういう男である。

 お茶をすすりながら淡野のことをしんみり思い出していると、不意に通知音が鳴って、液晶テレビに表のカメラが捉えた来客の姿が映し出された。〔槐屋〕の先代、槐はるだった。

「元気かと思ってな」

 事務所に入れると、槐は照れくさそうにそんなことを言い、向かいのソファに腰かけた。

「それはこっちの台詞よ」

 越村はそう返したが、隠居老人は割合顔色がよかった。

 槐春生は越村より一回りほど年上で、喜寿を迎えたはずである。まだ病気らしい病気もしていないようだが、用立ててほしいと依頼される品にデジタル用品が多くなったことで自分の時代は終わったと感じ、息子のえつに店を任せることにしたという。

「一局指すかい」

 越村は言って、将棋盤をローテーブルに置いた。槐老人は昔よく指していた頃のように、阿吽の呼吸でテーブルに千円札を出した。越村もにやりとしつつ、同じように札を出して対局を始めた。

 腕は越村のほうが上で、昔はよくカモにしていた。しかし代替わりした悦生は越村より強く、ここ数年で槐老人から奪った賭け金はどんどん取り返されている。

 久しぶりに対局してみても、槐老人は隠居して暇を持て余し、将棋の腕を上げたというわけでもなさそうで、越村は昔の感覚で優勢に駒組みを進めた。

「あんた、もしかして〔ワイズマン〕とこじれてるのか?」

 槐老人が不意に盤上に目を落としたまま、そんなことを訊いてきた。

「まあ、こじれてるっつうか、何つうか」越村は言い淀む。「何で?」

「せがれが、あるいはと心配しててな」

「あるいは?」越村は眉をひそめる。

 老人はちらりと越村を見てから、思わせぶりに目を伏せた。

「何よ?」

 久しぶりに来たからには何か言いたいことがあるのだろう。越村はそれを待った。

「ここだけの話だけどな」老人は膝に手を置き、再び顔を上げた。「せがれが〔ワイズマン〕に物騒なものを用立てられないか相談されてる」

「物騒なもの?」

「チャカだ」

「何だと?」

 越村の背中を冷たいものが走った。

 もともと〔槐屋〕がどことどんな取引をしているのかということを、この春生にしろ息子の悦生にしろ、越村に話すことなど今までになかった。お互い秘密保持が大事な稼業であり、越村もいちいち訊いたりはしない。

 ただ、淡野のシノギなどは越村も人材の調達に関わってたりすることがあり、計画の大枠も知らされるので車やスマホなどは〔槐屋〕が用意するのだろうということくらいは想像できる。逆に言えば、淡野が主導していた〔ワイズマン〕のシノギで使われる道具というのはその程度のものであり、その感覚で拳銃などと聞かされると、ぎょっとするのも当然だった。

 もちろん、それを用立てろと言われた〔槐屋〕も同様だろう。

「あんた、〔ワイズマン〕に淡野くんを匿ってると疑われてるんだろ。せがれのほうにも何か事情を知らないか問い合わせが来てる」

「言っても信じちゃくれないんだ」越村は言う。「それに、今まで尽くしてきた可愛い子分にずいぶんな仕打ちじゃねえか。それを思うと、俺も何だか嫌気が差しちまってな。その気分だけはどうやらちゃんと、向こうに伝わってるみたいなんだよ」

「裏切り者と認定されたか」

「いや、しかし」越村は戸惑いと焦りで首をひねるばかりだった。「ちょっといろいろ無理がある気もするんだが」

〔ワイズマン〕が越村を裏切り者と断罪して、制裁を加えようとするのは、ありうる話かもしれない。どこかにひっ捕らえていき、拷問じみたことをして淡野の居場所を吐かせようとしてもおかしくはない。

 だが、いきなり命を奪おうとするのは、制裁としても飛躍がありすぎる気がする。百歩譲って、〔ワイズマン〕がそうしたくなるほど越村に腹を立てているのだとしても、わざわざ拳銃を用意してというのは腑に落ちない。越村は何の組織にも属していないただの個人事業主であり、いくら用心深く振る舞ったところで限界はある。八手あたりを使えば、拳銃など不要だろうと思うのだ。

「やくざと何か事を構えるつもりなんじゃねえか?」

 そう考えるのが一番自然だった。やくざの、しかも幹部クラスである。彼らは常日頃から身の周りに注意を払っており、ボディガードも同行しているので、接触して刺したり締めたりという攻撃はなかなか通用しにくい。必然的に拳銃をぶっ放して、という手段が選ばれることになる。

「その可能性もある」槐老人もうなずいた。「ちょっと前に、〔ワイズマン〕が山下町の路上でチンピラ数人に鉄パイプで襲撃されたって話があっただろ」

「いや、知らねえ」越村は声を裏返した。「そんなことがあったのか?」

 山下町は中華街から山下公園あたりの一帯であり元町の隣町である。そんなところで起きた事件の情報も入ってこないほど、最近の越村は裏社会から距離を置いていたということでもあった。

「〔ワイズマン〕の身には何もなかったけどな」槐老人は言う。「それはともかく、この襲撃は誰の差し金だったかってことだ。選挙関係、カジノ関係いろいろ考えられるが、〔財慶会〕の仕業だという見方もある。局長の片平は〔ワイズマン〕の正体を知ってるしな」

「なら、それだろ」越村には明白に思えた。「拳銃なんて、片平クラスを狙うのでない限り、いるもんじゃねえよ」

 片平は片平で、総裁選でも大胆にテロを仕掛けるなど、IRをめぐって手段を選ばない姿勢を見せている。その上〔ワイズマン〕にも危害を加えるような脅しをかけてきたとなれば、〔ワイズマン〕自身も裏に片足を突っこんでいる人間だけに、どんな手を使ってでもこの邪魔者を片づけておこうと考えても不思議ではない。

「しかし、いくら〔ワイズマン〕でも片平クラスを消そうなんて無茶をするかなと思ってな」槐老人は言う。「腐っても〔財慶会〕だ。幹部のタマ取って、自分が糸引いてるのがばれたときに、無事に済むわけがないことくらいは分かるだろうに」

「いや、でも、俺じゃないのは確かだ」越村は冷静に考えて言った。「ついこの前、俺のほうにも〔ワイズマン〕から、バイクの運転手を用意してほしいって連絡があった。百万なんて言うから、普通のシノギじゃない。おそらくこれのことだ」

「そうか……バイクの調達はこっちも頼まれてるからな」

 答え合わせができてしまい、越村たちはしばらく無言になった。

「じいさん、それ、適当な理由つけて、用意できないって言ったほうがいいぞ」越村はようやく口を開いてそう言った。「俺も、運転手の件は適当にかわそうと思ってる。〔ワイズマン〕も昔はもっと慎重なとこがあったはずだが、表の世界でのし上がりすぎて、怖いもんなしになっちまってる。淡野くんがいたから、俺たちもそれに気づかなかっただけだ。気をつけたほうがいい」

「そうだな」槐老人も同意した。「〔財慶会〕だってチャカの調達は独自のルートを持ってるし、うちは扱ったことがないんだ。まあ、当てはなくもないが、無理だったと言っておいたほうがいいかもしれん」

「そうしろ、そうしろ」

 本当は彼もはなから越村の身を案じていたわけではなく、このきな臭い取引を持て余して、どうすべきか相談したかったのかもしれないという気がした。

「しかし、それを断ったところで、またほかの手段を考えてきそうだけどな」

 槐老人は悩ましげに言ったが、そこまで気を揉んでも仕方がないと越村は思った。

 

 次の日、馬車道のほうに用があり、散歩がてら本町通りを歩いていると、黒塗りのベンツが車道を行きすぎて停まり、越村が追いついたところで後部座席のスモークガラスを下げた。

「よう、元町の」

 声をかけてきたのは、昨日、槐老人と噂し合っていた相手である〔財慶会〕の片平だった。

「おう、兄さん……」

 噂をしていると相手を引き寄せるものだなと困惑気味に思いながら、越村は挨拶を返した。片平は越村より一回りは年下だが、越村は「兄さん」と呼んでいる。片平だけでなく、何人かいる顔見知りのやくざはみんな「兄さん」だ。

「どこに行くんだ?」片平は気を利かせるように言った。「寒いだろう。乗っていけ」

「いや、すぐそこよ。馬車道」

 越村は言ったが、片平が「いいから乗ってけ」と言うので仕方なく「じゃあ」と彼の隣に乗りこんだ。

 車が発進する。

「すっかりご無沙汰で、去年の件のフォローも何もなくて悪かったな」

 テロの一件を片平がどう捉えているか分からず、茂沢を置いて逃げたことを責められるかもしれないと構えていたが、彼は逆に詫びるようなことを言ってきた。

「いやあ、あれはたまげたよ」越村はそれに乗っかるようにして言った。「俺も様子見に行ってたんだ。引き受けた以上、仕事としてはこなすつもりで運転手も待ってたけど、あれは無理だ。とてもじゃないが拾える状況じゃなかった」

「まあ、それは仕方ない」片平はさばさばとして言った。「やる前は腕や足の一つくらいは取れるだろうと思ってたが、なかなかああいうのは簡単じゃないな」

「そりゃそうだ。あんなことして足が付かなかっただけでも僥倖だと思わなきゃいけねえよ」

「ガサは入ったが、連中もまさかこれを組織ぐるみでやるかっていう疑念があったみたいだな」片平は小さな笑みを浮かべて言う。「やつの住まいにいろいろ証拠になるものを入れておいたのも効いたようだ」

「こんな狂ったことをしでかすのは、逆に単独犯しかありえないって思われたわけか」越村は苦笑する。「まあ、何にしろ、よかったよ」

「しかし、招いた結果は散々だった」片平は苦々しげに言った。「あれで勝たせちまったようなもんだ」

 政治家がテロを仕掛けられた場合、その政治家に同情が集まって支持率が上がるのは自明の理だろう。もしかしたらテロは成功して、少なくとも徳永が政治活動を行えなくなるくらいの結果にはなると期待していたのかもしれないが、客観的に見て、あのテロがそれほど成功率の高い計画だったとは思えない。

 そう考えるとやはり、片平のようなやくざは、こと政治に関しては普段から首を突っこんでいるわけでもなく、勘が磨かれているわけでもないのだなと思う。

 それでは〔ワイズマン〕と事を構えたとして、一時的には脅しすかしで優位に立てるとしても、やがては出し抜かれてしまうだろう。

 片平とは別段、仕事以外で親しくしてきた関係ではないのだが、今の心情的に、越村は彼の身を心配する思いが湧いていた。

「そういや、山下町の噂を聞いたけど」越村はそう切り出した。「兄さん、〔ワイズマン〕と揉めてるのか?」

 片平は噂が流布していることを面白がってか、にやりと笑った。

「いろいろあったが、握って終わった」

「握った?」

「詳しいことはいいだろ」片平は言う。「あんたを信用しないわけじゃないが、山下町の噂と同じで、人の口に戸は立てられないからな」

「いや、本当に握ったんならいいが」

 越村がそこで思わせぶりに言葉を切ったので、片平は「何だ?」と眉をひそめてみせた。

「兄さんの身を案じて言うけど、ここだけの話だぜ」越村はそう断って続けた。「てのは、〔ワイズマン〕が何やら物騒なことをしでかそうとしてる節があってな。いや、別に兄さんが標的だと決まってる話じゃねえし、具体的に何をしようとしてるのかも分からねえ。ただ何も分からないだけに、兄さんが向こうと揉めてるんなら注意したほうがいいと思ったまでだ。握ったとしても、向こうがいろいろ呑んで譲ったような形なら、やっぱり念のためにも注意したほうがいいぜ」

 気づくと片平の表情は鬼のように険しくなっており、越村はにわかに居心地が悪くなった。

「このへんでいいよ」そう言って車を停めさせた。「まあ、車代なりの話だと思ってくれ」

 低いうなり声のような相槌しか打たなくなった片平を残し、越村はそそくさと車を降りた。

 

 

(つづく)