帰りのたまて箱は、窓に面したカウンター席を四つ、勝男がおさえてくれていた。すっかり寝不足だった友加里は、頰杖をついて海をながめているうちに居眠りしていた。
ふいに、つんつん、と隣の翼に肩を叩かれた。「友加里さん、起きて」
瞼を開き、あまりのまぶしさに思わず目を細める。左手前方に桜島の凛々しい姿が、くっきりと見えた。
「あら、もう着く?」
「そうじゃなくて、手紙が読まれるらしいよ」
女性乗務員が、マイクを通して何かアナウンスしている。車内にあるポストにメッセージを入れると代読してもらえる「言霊サービス」については、乗車時に説明されていた。それが今回、一通だけ投函されていて、これから読み上げられるらしい。
はっと友加里は思い出す。発車してすぐ冨士子がトイレに立ったのだ、なぜか紙とペンを持って。そのまま、ずいぶん長く戻ってこなかった。
「なんだか胸騒ぎがするわ」友加里は思わず言った。
「わたしも」と翼が答える。
「ディア、かっちゃん」
次の瞬間、女性乗務員の美しい声が、そう読み上げた。翼と再び顔を見合わせる。
「今回はこんな素敵な旅行につれてきてくれて、本当にありがとう。とってもとっても楽しくて、今、わたしはスーパーハッピーです。
あなたと出会ったばかりの頃のわたしは、おせじにもいい女じゃなかったね。態度も悪いし、約束をやぶったり、あなたにいっぱいひどいことをしました。
でもかっちゃん、あなたは、こんなわたしをずっと待っていてくれました。あなたの人柄や優しさに……」
読み上げられている間、勝男は顔を真っ赤にしながらデレデレとにやけ、その様子を富士子が四方八方からゴープロで動画撮影していた。車内の注目の的だったが、二人は全くお構いなしだった。当然だろう、彼らは互いのことしか見えていないのだから。
「あなたはまさにわたしの太陽です。ときどき、どうしようもなく落ち込んで、雨模様になってしまうわたしの人生を、ずっとずっと明るく照らしてください。末永く、よろしくね。ふーたんより……素敵なメッセージ、ありがとうございました」
手紙が膨大な長さで、駅についても終わらなかったらどうしようと友加里は途中からハラハラしていたが、案外すぐに終わってほっとした。ぱらぱらとまばらな拍手を受けながらも、相変わらず冨士子は勝男を撮影し続けていた。勝男は照れるあまり髪をかきむしりまくり、今や落ち武者みたいになっていた。
「世界で一番幸せなカップルを見たね」
そんな言葉がふいに聞こえて、友加里は背後を振り返った。反対側のボックス席にいる四十ぐらいの女性が、連れの母親に向かって言ったようだった。
「あの二人、結婚しとるんかな」と七十前後に見える母親が聞くと、娘は「どうだろう。指輪はつけとらんみたい」と興味なさそうに首をかしげた。
「ま、しとっても新婚だろうね。二十年以上つれそってあれはありえんわ。普通はお互いうんざりよ」
おっしゃる通り、と友加里は心の中で膝をうった。横で翼も苦笑している。
窓の向こうに視線を向ける。桜島はさっきよりさらに近づいていた。山頂火口の少し上に雲があり、行きよりずっとかっこよく見える。思わずスマホで写真を撮った。送る相手は、自分にはいないけれど。
昼前に鹿児島中央駅に着くと、これから市街を観光してさらに一泊するという冨士子たちとは別れ、翼と二人で空港へ向かうバスに乗った。
飛行機は定刻より少し遅れて、午後六時過ぎに羽田に到着した。預けた荷物を受け取ってロビーを出てすぐ、翼が「やだっ」と声をあげた。
「どうしたの」と発する前に、友加里は気づいた。寛人が迎えに来ていたのだ。
「つーちゃん! こっちこっち!」
寛人は大きく手を振りながら、周囲にいる出迎えの人々が振り返るほどの声で呼んだ。翼が「やめてよ!」と怒りながら慌てて駆け寄る。
「もう、来なくていいって言ったのに。どうやってきたの? 電車?」
「違う、レンタカー借りたよ」
「えー! わざわざ? そんなことしなくていいのに」
「だってだって、こっちは昨日からすごい大雨だよ? ほら、荷物貸して」
もう、と言いつつ、翼は肩にかけていたバッグとお土産の紙袋を彼に渡した。友加里が寛人に会うのは確か三度目か四度目だが、今日を含め毎回鼻毛が、しかも複数本出ている。誰よりも美意識の高い翼がなぜこれを黙認しているのか、到底理解できなかった。
もしかして、ここにも世界で一番幸せなカップルが、一組。
「あ、ねえ、友加里さんも乗っていく?」
ううん、と友加里は首を振った。「浜松町で、娘と待ち合わせしてるから」
「ああ、そうだった」
友加里は翼と、まるで彼女の秘書のように荷物を抱えて少し後ろに立っている寛人の姿を、しばらくじっと見つめた。来年中に同じマンションの隣同士の部屋に引っ越すという計画を立てていることを、昨日の晩のおしゃべりで翼は語っていた。きっと、とても二人らしい付き合い方なのだろう。
「どうしたの、友加里さん。ニヤニヤして」翼がいぶかしげに眉をナイキ形にして言う。
「なんでもない。じゃあ、わたしは駅にいくから」
二人と別れて、早足に羽田空港駅に向かう。運よく、東京モノレールがすぐにやってきた。車内は混雑していて、空いている座席はなかった。友加里は窓際に立って少し外の風景を眺めたあと、バッグからスマホを出し、剣介とのトーク画面を開いた。
ほかに好きな人ができた。申し訳ないけど、別れよう。
今朝、彼からそうメッセージが来ていた。昨晩のナンマイダもといアイシテルに無反応だったことが、よほど腹に据えかねたのだろうか。
この年で男性にときめくことがあるなんて、と昨夜思ったけれど、この年になって別れ話をLINEで済まされるとは、まったくもって想定外だった。「わかりました」と朝のうちに返事はしたが、いまだに既読がつかない。もしかするとブロックされているのかもしれない。まるで大学生同士の恋愛みたいだ。
二年前、ほんの軽い気持ちであの銀色のバスに乗った。なんだか、とんでもないところまで連れてこられた気分。
ふふっとひとり笑ったあと、そうだと思い出す。一人になったら中高年向けの将棋サークルのことを調べてみようと思っていたのだ。
でも、なんだか疲れているし、ちゃんと調べるためには老眼鏡が必要だが、バッグから出すのも面倒だった。明日でいいかとスマホをしまい、雨に濡れそぼる夜の東京に目を向けた。
――いつか、どんな小さなものでもいいから、将棋の大会に出て優勝したいな。
そのときふいに、そんな願いが心の中で花開いた。と同時に、チャララララーラーン! と男女7人秋物語のイントロが脳内で鳴り響いた。
もしかして、将棋こそがわたしの運命の相手なの? なんだかそれはさみしい……いや、そんなことはない、決して。友加里はいてもたってもいられず、再びバッグからスマホとついでに老眼鏡も出し、「よし、やるぞ」と気合を入れた。