結局、カウンセラーの勧めを断り切れず、六十代トリオのうち、ほかの二人ともお見合いをした。六十三歳はおとなしい初老男性で、すべてがつつがなく終わったが、冨士子が言うより先に先方のほうから断りを入れられた。もう少し瘦せている人がいい、というのがその理由だった。六十七歳はずいぶんと横柄な態度のじいさんで、冨士子のことを「朝比奈君」と呼び、始終サラリーマン時代の武勇伝を語っていた。六十三歳の二の舞にはならないよう、お見合いが終わってすぐカウンセラーに断りの意思表示をした。

 その後もカウンセラーにすすめられるまま六十一歳、六十二歳、六十九歳、六十七歳と会った。全くうまくいかず、ついには七十三歳が出てきた。その七十三歳は見合い中、当たり前のように冨士子の太ももに手をおいた。その瞬間、冨士子は退会を決意した。

 関東地方の梅雨入りが宣言された六月終わり、手続きのために来社が必要だといわれ、しぶしぶ新宿のオフィスに出向くと、案の定、長々と慰留された。ようやくすべてを済ませてビルを出ると、バケツをひっくり返したようなどしゃぶりの雨が降っていた。

 ざあざあという音が、自分をあざける笑い声みたいに聞こえる。

「あ~やめやめ」

 声に出してつぶやく。

「やめやめ、やめやめ~」

 節をつけてうたいながら、ビニール傘をさして歩き出す。とたんにパンプスをはいた足元がびちゃびちゃになった。まったく、退会手続きをするだけなんだから、長靴でよかったのに。それにしてもなにさ、あのカウンセラー。五十代で再婚を望まれるなら、もう少し広い心を持っていただかないと、だってさ。最初のスケベジジイのことを言いつけたときだって、あの方はいつもそうなんです~許してあげてください~なんてへらへら笑ってたし。バカにしやがって。やめやめ、やめやめ~。

 雨のおかげで、独り言をまわりの人に聞かれずに済む。この数か月のいろいろなことが脳裏をよぎる。口から生ごみの匂いを発しているじいさんがいた。空になったコップを冨士子に突き出して「水!」と言ったじいさんがいた。企業戦士時代に東南アジアで買春していたことを嬉々として話していたじいさんもいたっけ。

 ……でも、きっと、そう。自分が間違っていたのだと、ようやく見えてきた地下への入り口を見ながら冨士子は思う。この年で再婚しようと考えるなんて。そういうのは、翼や友加里みたいな美人だからうまくいくのであって。わたしみたいな……。

 日出子は?

 日出子ができたのに、わたしは?

 傘をたたんで階段を下りながら、ぶんぶん首を振る。やめやめ、本当にやめるんだ。冨士子はそこで思い直して、ふたたび階段をのぼり、豪雨の中に舞い戻った。しばらくまた歩き、ずっと気になっていたとんかつ屋に飛び込んだ。相談所のオフィスにいくたびに、店の前に行列ができているのを見かけていたのだ。今日は昼のピークを過ぎている上にこの天気のおかげで、待たずにカウンター席に座ることができた。

 メニュー表を手にとる必要はなかった。水を運んできた店員に「カツ丼大盛でお願いします」とおごそかに注文した。

 そして、目を閉じ、瞑想をはじめた。

 余計なことを考えないために。相談所の入会を決意して以来、ずっと揚げ物を断っていたこと。お味噌汁にうす揚げを入れることすら避けていたこと。一カ月でなんとか二キロ落としたこと。そして本当は、もし誰かと恋人になれたら、最初のデートで大好物のカツ丼を一緒に食べにいく、そんな夢さえ、見ていたこと。でもそのすべてが、何の意味もなかったこと。

 わたしって、なんてバカなんだろう。

「おまたせしました」

 ようやく聞こえたその声。目の前に、そっとおかれる大きなどんぶりとみそ汁。どんぶりのふたのはじから、大きなカツがはみ出している。

 はやくも口の中からよだれがあふれてきた。冨士子はそっとふたを外した。そして思わず「わあ」と声を漏らした。

 汁をすって小麦色に光り輝く大きなロースカツに、つやつやの卵のベールがからみついている。天国ってここじゃない? みんな死んだらカツ丼の具になるんじゃない? そんなバカバカしいことこの上ないことを心の中でつぶやきながら、箸を割った。

 わたし、大丈夫。あまりにも理想的なビジュアルのカツ丼を目にして、ようやく心が落ち着いた。二人で食べたって百人で食べたって一人ぼっちで食べたって、常に等しくおいしい、それがカツ丼だ。

「いただきます」

 真ん中の大きなカツを箸でつまむ。そのときのさくっとした感触で、衣がほどよく形をのこしているのがよくわかる。そして、ずっしりと重い。はあっと息を吸いながら大きく口をあけ、まずは一口――。

「あれ、朝比奈さんじゃない?」

 口をあけたまま、手を止め、声のしたほうに顔を向けた。

「ああ、朝比奈さんだ、やっぱり」

 そのくったくのない笑顔を見ても、すぐには彼の名前が出てこなかった。かわりに出てきたのは……。

「チャララララーラーン!」

 『男女7人秋物語』の主題歌のイントロだった。友加里が例のバスで真田広之似の彼と出会ったときに、脳内で流れたと話していたせいだ。ほとんど無意識だったが、はっきり口に出して歌ってしまった。

「え? 何それ」

 彼は笑いながらこちらに近づいてくる。その真っ白な歯を見て、名前を思い出した。関根渉。冨士子が人生で唯一、ラブホテルに一緒にいった相手だった。

 

 七月の三週目の土曜日、恒例の集まりのために友加里宅を訪問した。本当は食事がはじまってから渉のことを報告するつもりだったが、冨士子はいてもたってもいられず、玄関で靴を脱ぐなり「ねえ! 聞いて聞いて!」と叫んでいた。

 それから洗面所で手を洗い、買ってきたものをリビングのテーブルに広げる間も、冨士子は途切れることなくしゃべり続けた。新宿のとんかつ屋で、昔の知り合いと数年ぶりに再会したこと。相手は仕入れ先の営業担当で、以前は近所に住んでいたこともあり、ときどき日出子も交えて飲みにいく仲だったこと。そのうち二人きりでたびたび会うようになり(とは言ったものの実際はたったの二回だけ)、一度はホテルにもいったが(とは言ったものの、そのとき互いに泥酔していたため、指一本触れず寝入り、早朝に解散)、あるとき彼の北海道転勤が突然決まり、そのまま音沙汰がなくなってしまったこと。

 そして、とんかつ屋での運命の再会を経て以降、二人ですでに三度も飲みにいったこと。明日も都内の温泉施設へいく約束をしていること。

 話しながら、冨士子は感じたことのない幸福感で涙が出そうになった。友達に自分の恋バナを話すなんて。自分には一生無縁のことだと思っていた。

「ねえ、その人って若いのよね? 何歳年下?」翼がそう言って、いつものおしゃれなパン屋で買ったらしい、おしゃれなサンドイッチにかじりつく。

「えーっと」本当は彼の年齢なんてすぐに言えるのに、冨士子は考えるふりをした。「ちょうど三十九だから……」

「ええ!」と友加里が声をあげた。「一回り下?」

「でもでもでも!」と冨士子は二人に両手を向けた。「若くても、イケメンとかそんな感じじゃ全然ないから。背なんかわたしより低いし、なんだったら髪も少し薄いし。本人は『同世代の女の人とは話が合わないんだよね』なんて言ってるけど、要はモテないだけ。だって、趣味が盆栽よ。若年寄ってやつ。転勤先で新しくはじめた趣味があるっていうから、何か聞いたら、ゲートボールだって言うのよ。近所の老人に誘われて、チームに入ってキャプテンやってたんだって。おかしいでしょ」

 不思議だった。言葉がどんどんあふれてくるのだ。おかげでせっかく買ってきたお弁当みうらのタレカツ弁当もちっとも進まない。自分の話をするのは、本当は得意じゃない。聞いてくれている人の時間を無駄にしてしまっているように感じて、いつもつい話を早く切り上げたくなる。でも、今日は、今日だけは。

「飲みにいくのも立ち飲み屋とかばかりで、あたりめかじりながらポン酒をちびちびやるのが好きな人なの。そうそう、この間も二人で赤羽いったんだけどさ……」

 結局、そのあとも喉がかれるぐらい一人でしゃべっていた。それでも話し足りなくて、このままお泊り会にならないかと思ったほどだったが、六時をすぎて翼が「そろそろお暇しましょうか」と言った。

「ねえ、この集まりだけど、これから毎月第三土曜日にやるってことにしない?」玄関先で友加里が言った。「先に決まっているほうが、予定が立てやすくって」

 確かに、毎回LINEでいちいち予定をすり合わせるのは少し面倒だった。友加里も翼も、週末は彼との約束があったり、ほかの用事があったりしていつも忙しそうだ。

 そして、これからは自分も……。

「それ、いいね」と冨士子は言った。「あらかじめ決めておいて、もし誰かダメになったら、その月は見送るってことにしようか」

「そうね。そのほうが、無理がなくていいかも」と翼も言った。

 それから友加里宅を辞し、マンション前で翼と別れた。自転車に乗り、夏のはじまりの夕暮れどきの、体にまとわりつくような湿気の中を走り出す。すでに首の裏にじんわり汗をかいている。

 さっきはあんなに楽しくおしゃべりしていたのに。本当はとても幸せなはずなのに。燃え上がるような空を見ながら、なぜか肩が重い。頭もずきずきする。なんだか胃もきりきりしてきた。

 更年期……のせいじゃない。それは自分でもよくわかっていた。

 渉が北海道へいく少し前のこと。そう、今日と同じような、じめじめと不快な空気に満たされた夏の夜だった。閉店間際のお弁当みうらに彼はふらっとやってきて、珍しく悲しげな顔で「話がある」と言った。

 実は彼と同じ会社の別の営業担当から、北海道転勤の話をすでに冨士子は聞いていた。だからこそ、胸が破裂しそうなほどドキドキした。ついてきてほしい、そんなことを言われるのではと思った。それって、もしかして、もしかして。

 しかし、店の角の人目につかない場所で彼が話し出したのは、転勤のことでも、ましてプロポーズでもなかった。借金の話だった。

 FXで失敗して、五百万ほど消費者金融から借りたが返済に困っているというのだ。冨士子はそれ以上の詳細は聞かなかった。次の日、彼の口座に五百万振り込んだ。その直後、渉は北海道へいき、そのまま音信不通になった。

 それから五年余り、冨士子の前に、まるで奇跡のように再び現れた彼は、五百万どころかビタ一文借りていないかのような顔で冨士子を飲みに誘った。いまだに、そのことについて一切口にしない。そして冨士子自身も今日、友加里と翼の前で同じようにふるまった。

 太陽が、完全に世界の向こうに落ちた。赤信号でブレーキをひく。

 本当にわたしは、彼にお金なんかビタ一文貸してないのかもしれない。そうだったらいい。そうだったら、すべてが丸く収まるのに。

 ふいに頭の中でズンドコズンドコとおなじみの音頭がはじまった。青信号に切り替わる。冨士子はぐっと歯を食いしばり、再び走り出す。

 

(つづく)