午後八時をまわって、ようやく夕食がはじまった。巨大な一枚板のダイニングテーブルに、ローストビーフだのパエリアだの生ハム盛り合わせだの、絵にかいたようなごちそうが並んでいた。手がかかっているのは間違いなかったし、昼前から何も食べていなかった友加里は腹ペコだったはずなのに、なぜかちっともおいしそうには見えなかった。

 男たちは相変わらず経済の話をしていて、ルミ以外の女たちは無言だった。そして、一時間ほどしたときだった。ルミがなぜか突然、英語で話しだした。

 すると剣介を含めた男たちも、あわせて英語で会話しはじめた。さらにそれまでおとなしかった二人の幼児たちまで、流ちょうな英語でわいわいしゃべりだした。わけがわからない状況にどぎまぎしつつ、せめて母親たちは英語が話せませんようにと、友加里は祈った。しかし、母親三名の正確な英語力は不明ではあったものの、少なくとも全員がある程度は理解できるらしく、子供と大人のやりとりを聞きながら、さもおかしそうに笑っているのだった。

 まったく理解できないのは、自分だけ。

 本当に、誰の言葉も、子供たちのおしゃべりさえ、何もかもが意味不明だった。しかし、だからと言ってむっつりしているわけにはいかなかった。だから笑った。誰かが話し出せば興味深そうな顔を作って耳を傾け、みんなが笑ったら自分も心底おかしそうに笑う。この場の空気を乱さぬよう、不穏分子にならぬよう。

「YUKARI!」

 ルミが突然、大声で呼びかけてきた。

 そして、何か聞かれた。英語で。もちろん、全然わからなかった。それを聞き返す言葉さえわからない。パードゥン? だっけ? あってる? それであってる? わからない。全員がこちらを見ている。友加里の答えを待っている。母親の膝の上でお座りしている乳児まで。もしかして、あの子でさえ英語が話せるの?

「……ええ、えーっと、イエース、イエース」

 苦し紛れにそう言った。数秒の間が空く。するとルミがぷーっと噴きだし、「オーマイガー!」と手を叩いた。

 続けて「シーイズ……」と言ったが、その先はやっぱり聞き取れずわからなかった。ほかの人々は苦笑いか半笑いだった。もう恐ろしくて、剣介の顔は見られなかった。だから目の前にあった赤ワインを一気に飲み干し、さらに自分でグラスに継いで、それも一気に飲み干した。

 

 はっと目を覚ます。トイレだった。便器を抱え込むようにして寝転がっている。パーカーの袖口に、自分の吐しゃ物が付着していた。

 もう吐き気は治まっていたが、頭が痛くてたまらなかった。首も肩も膝も痛い。それでも何分もかけてなんとか体を起こすと、今にも再び気絶しそうになりながら、必死で散らかったトイレの中を可能な限り掃除した。それからよろよろと廊下に出て、あちこちいったりきたりしながらなんとかダイニングに戻ったが、誰もいなかった。

 うっすらと、記憶が蘇る。食事のあと、みんなで風呂に入りにいこうと誰かが話していたことを。

 一気にパニックに陥った。トイレで倒れているのに、ほったらかしにされたってこと? たった一人で置き去りにされたってこと? ほかの連中はどうだっていい。剣介はどうして? 彼だけは、そばにいてくれるべきじゃない? せめてベッドまで運んでくれるとか……。

 ふいに、脳裏に浮かぶ。剣介のがっしりとした太ももに置かれた、ルミの華奢な白い手。頭の中で、その手が勝手に動きはじめる。太ももをフェザータッチで撫でながら、そろそろと上へ……。

「もう無理! こんなの耐えられない!」

 友加里はそう一人で小さく叫んだ。そしてソファーの隅に置いておいた自分のショルダーバッグを持って、勢いのまま外に飛び出した。スマホはジーパンのポケットに入れていた。グーグルマップを開き、駅までの行き方を調べる。ここは別荘地の中でも端よりに位置し、数十分歩けば三笠通りに出られることはわかっていた。それを東へ下っていけば、旧軽銀座にいきあたり、さらに歩けば駅に着ける。毎日仕事で動き回っているし、体力には自信がある。この程度の距離、なんてことはない。

 あたりは真っ暗だったが、虫の鳴き声がうるさいぐらいだった。友加里に迷いはなかった。強い決意で森の中を歩き出した。冷静とパニックが頭の中でごちゃまぜになっている。ただ、許せなかった。歩く原動力は悔しさだった。あからさまに友加里を見下していた男たち、子供みたいな態度で友加里をのけ者にした女たち、それを見て見ぬふりをした剣介、そして、すべてのしぐさ、言動が忌々しいルミ。許せない。もう一緒にいられない。今まで一度だって酒を飲んでつぶれたことはない。二十代のときだって。かつてないほどの醜態をさらしてしまったことも屈辱だった。このあと、剣介がどんな態度に出るか見ものだわ、と真っ暗な道をずんずん歩きながら思う。どんなに謝ったって許してやらないんだから。

 やがて、なんとか三笠通りに出た。迷わずに出られただけで奇跡だった。今の時刻はよくわからなかった。スマホを見れば明らかだが、スマホを見れば時刻がわかるという事実が友加里の頭の中から抜けていた。

 歩いて歩いて、さらに歩く。何度も何度も、あの白い手が脳裏をちらつく。なんでよけないの? なんでルミから離れないの? 普通離れるべきよね? 一体どういうつもりなのかしら? いつしか脳内にいる翼と冨士子に語り掛けていた。

 ようやく、旧軽銀座にたどりついた。歩いている人をちらほらと見かけたが、そこを過ぎるとまた無人になった。そのあたりで、強気だった気持ちに徐々に後悔の念が侵食しはじめた。なんか……遠くない? いつまでたっても駅に着かないんだけど? マップマップ……え? あとまだ十分も歩くの? ていうかスマホの電池が4パーセントしかないじゃない!

 そもそも、駅までいってわたし、どうするわけ?

 始発まで、何時間あるの?

 どこで待つの?

 ていうかわたし、何をしているの?

 別荘を飛び出して四十分あまり、夜更けの軽井沢の路上で、ようやく友加里は、おのれの行動の無意味さに思い至ったのだった。

 その瞬間、スマホが震え出した。剣介からのLINE電話の着信だった。

「友加里さん、どこ?」

 出るなり、剣介は叫ぶように言った。

「わからない」と涙声で答える。「ごめんなさい、わたし……」

「周りに何がある?」

「えーっと、わからない。あの、剣介さん、ごめんなさい。わたし、なんだか酔っぱらっちゃって、起きたら一人ぼっちで、置いていかれたのかと思って、それで……」

「いいから、今いる場所を教えて」

「えーっと」

 通話が切れた。

 友加里はただ茫然と、スマホの画面に表示された、電池切れのマークを見つめた。古いスマホをはやく買い替えろ、と娘たちに言われていたのを無視し続けた罰が当たったと思った。

 まっすぐいけば駅。それはわかっていた。駅にいけば、きっといつか剣介が見つけてくれる。子供みたいに鼻をすすりながら、再び歩き出した。脚の裏がひりひりと痛み、頭痛もぶりかえしていた。おまけに食べたものをすべて吐いてしまったせいか、腹も減ってきた。

 数分後、駅の風景が見えてきた。JR改札口へ続く歩道橋の階段をのぼる気にはならず、そのわきに見つけた木を囲むベンチに腰かけた。

 情けなくて、たまらない。恋人に無下にされ、すねて森の中に飛び出すおばさん、五十四歳。自分が信じられない。ずっと真面目に生きてきた。人に迷惑をかけないよう、常に気をつかってきた。それなのに、男ができた途端、みっともない恥知らず女になってしまった。

 そこまで考えて、首を振る。やめやめ、悲劇のヒロインごっこはやめよう。彼が迎えにきてくれたら、ただ頭をさげて謝ろう。別荘に戻ったら、全員にまた頭をさげる。わたしは十代の思春期真っ只中の女の子じゃなく、更年期も終えた……。

「友加里さん!」

 剣介の声が、夜の駅前広場にとどろいた。友加里は立ち上がり、あたりを見回した。そして、彼が通りを走ってくる姿を見つけた。

 険しい顔をしながら、まるで箱根駅伝の選手みたいなフォームでこちらに向かって走ってくる。豊かな髪が風になびいて……。

 か、かっこいい。

「剣介さん!」

 友加里は駆け出し、彼に飛びついた。その体の厚みを感じて、さっきの決意などあっという間に霧散した。友加里は剣介にしがみつくようにしながら、その熱い胸板に顔を寄せて、子供みたいにわんわん泣いた。

「ごめ……わた……嫌われ……たのかと……」

 言葉にならない。剣介が友加里の頰に両手を添え、顔を持ち上げる。

「いいんだよ」

 そう優しくささやくと、友加里をじっと見つめ、それから唇に、唇を重ねた。

 もっと、長く、と友加里は思ったが、あっけなくそれは離れた。二人は見つめ合う。彼の目にも涙がにじんでいた。

 そのとき、ぼろぼろの自転車を引いた高齢男性がどこからともなく現れ、横を通りすぎていきながら「あんたたち、世界で一番幸せなカップルだよ」と言った。二人はまた目を見合わせて、それから同時に噴き出した。

 

 翼がむふーっと鼻息を噴き出しながら、サンドイッチの最後のひとかけらを口に入れた。

「……なんなの? 一体わたしたち、何を聞かされてるわけ?」

「ここまでなんのてらいもなくのろけられると、いっそすがすがしいわよね」

 そう言って、冨士子は食べ終わったタレカツ弁当の容器をビニール袋に入れた。

「のろけのつもりじゃないのよ」と友加里は言った。「ただ、ありのまま起こったことを話しただけなのよ」

「いやいやどうもごちそうさまです」と翼。「さ、デザートにしましょうよ」

 友加里はダイニングテーブルの脇に用意しておいたティーポッドに、お湯をそそいだ。あらかじめ、ローズヒップの茶葉をいれてある。それから常備してあるクッキー缶をあけた。翼はコンビニで買ってきたというシュークリームを、はやくもむしゃむしゃ食べている。冨士子はダイエット中でデザートは控えるという。

 少し蒸らしてから、ローズヒップティをそれぞれのカップに注ぐ。さわやかな香りがテーブルの上に広がる。

「ああ、脂っこいもの食べた後に、このすっぱみがちょうどいいわ」と冨士子が言った。

「で、結局さ、つぶれた友加里さんを置いて、みんなで温泉いってたわけ? 軽井沢だと、トンボの湯?」翼が聞いた。

「それが……そうじゃなかったの」と友加里は歯切れ悪く言う。「敷地内にジャグジーバスがあって、みんなで一緒に入ってただけみたい。わたしの早合点。で、彼が途中でわたしの不在に気づいて、でも酔ってて車は運転できないから、走って追いかけてきてくれたんだって」

「それにしてもさ、そのルミってやつ、むかつくわねえ」冨士子が言う。

「どこにでもいるよ、そういうマウント女」と翼。「うちの職場にもいるの。英語が得意で、飲み会のとき必ず英語で話しはじめるわけ。みんなが困るとわかってて、わざとやるんだよ。わたしは英語は苦手だけどタイ語が得意だからさ、そういうときはタイ語でまくしたててやるの。そしたら黙るから」

 ハハハと三人で笑う。それからひとしきりルミの悪口で盛り上がった。元来友加里は、他人の悪口を言うのも聞くのも苦痛で、いわゆる毒舌タイプの人は苦手だった。けれど、翼と冨士子が話す毒舌は、なぜか不思議と受け入れられた。こんな友達がこの年齢で持てて、改めて幸せだと思う。

 あのバスをきっかけに、世界が目まぐるしくかわっていく。

 けれど……。

 二人に、言えずにいることがある。

 二人だけでなく、剣介にも。

 なぜ、あの晩、自分をトイレに置き去りにしたのか。その疑問を、剣介にぶつけられずにいた。

 

(つづく)