出迎えたのは友加里ではなく、冨士子だった。「翼ちゃん、いらっしゃい。大丈夫?」
「大丈夫大丈夫、遅くなっちゃって、ごめんね」
先週、電動自転車を同僚に譲ってもらい、今日はじめて乗ってみた。するとあっけなく道に迷い、遅刻してしまったのだ。
「もう、すっかりパニくっちゃって、ああ、汗だく。友加里さんは?」
「台所で自分のお昼の支度してる」
部屋の中に入ると、ケチャップの焼けるいい匂いがした。いつものサッポロ一番塩ラーメンではなく、ナポリタンスパゲティを自分で作ったらしい。
「最近さ、もう毎日のようにサッポロ一番食べてるの。さすがに飽きちゃった」三人テーブルにそろい、いただきますと声を合わせたあと、友加里は言った。「ストレスがたまると、どうしてもサッポロ一番を食べたくなるのよね。ひどいときは朝昼晩よ」
「あら、なんのストレス?」といつものタレカツにかじりつきながら冨士子が聞く。「お仕事、忙しいの?」
「いや、仕事は別にいつも通り。なんかね、け……」
「待って」冨士子は言ったあと、人差し指を額に当てた。「彼とケンカしたんでしょ。ケンカの内容当てさせて。えーっと……」
「あらやだ」と友加里。「急に古畑任子さんが出てきちゃったけど」
「わかった。剣介さんがデート中によその女の人をじろじろ見つめた!」
「そんなこと、彼はしません。ほかの人には興味ないっていつも言ってくれます」
「あらあら、相変わらず通りごちそうさまです」翼はさっき急いでコンビニで買ったおにぎりをもそもそ食べながら言った。「ねえ、コンビニのおにぎりもすごく高くなったよね。その割に質が落ちてる気がする」
「のろけじゃないんだってば」と言って、友加里はいつになく暗い顔でため息をついた。「一月に福岡いったときの話、まだしてないでしょ。先月集まれなかったから。とにかく、いろいろあってさ……」
それから、花梨の卒業大学を知って剣介が大人げなくふてくされた話や、喜寿&傘寿パーティで強制的におさんどん主任に任命された挙句、もう一人のおばあさんの入浴介助と食事介助までさせられた話を聞きながら、冨士子と二人で「何それ」「信じられない」「え? 地元の料理覚えろとか言ったやつのこと、友加里さん、殺害しなかったの? 正気?」「偉いわ、わたしならこれよ(親指で喉を搔っ切るしぐさ)」などと言い合った。話の合間に三人とも食事を終え、友加里はいつものようにハーブティを淹れてくれた。さらに福岡土産の通りもんもどこからか出してきたが、箱を開ける前に「これ、彼が買ってくれたんだけど、胸糞悪いからやっぱやめよ」と言って、テーブルの端にあった手のひらサイズのアルミ缶を代わりに開けた。
「これ、桃花と彼女の手作りなの。よかったら、召し上がって」
中には白黒のアイスボックスクッキーがきれいにつめられていた。冨士子がさっそく渦巻き模様の一つをつまんで、「いたただきまーす。なんだか小学生の女の子が作ったバレンタインのギフトみたいね」と言った。
「そうそう。子供のときを思い出して、二人で作ったんだって。女の子同士って本当に楽しそうでうらやましい。今ね、二人で奄美大島にいってるの。絶景を眺めながら毎日ヨガをして、そのあとスパ三昧するのが目的なんだって。素敵じゃない? それに引き換え男の人って、ゴルフやら、釣りやら車やら……」そこまで言って、友加里は心底うんざりしたようにため息をついた。「本当、しょうもないことばっかり」
翼は思わず笑ってしまった。正月に聞いた、ゴルフ場での悶着話を思い出したのだ。「ごめん、笑い話じゃないよね。剣介さんとの関係、大丈夫?」
「わからない。ねえ、冨士子ちゃんに聞きたいことがあるんだけど」
「え? わたし?」
「前にバスツアーのインタビュー記事を見せたとき、彼の言葉が気になるって言ってたじゃない? この年で再婚を考えたのは、自分が病気になったときに備えて、みたいなやつ。あれ、どうして気になったの? 詳しく聞かせてくれる?」
「……そんなこと、言ったかしら?」
なぜかバツの悪そうな顔をしている。翼は「言ってたよ、確かにわたしはこの目で聞いた」と言った。
「目で聞くって変でしょ。耳で聞くんでしょ」
「あ、間違えた」
冨士子は観念したようにムフーッと鼻息を出す。「……あのね。わたし一時期、結婚相談所に登録してたの。ほんの短期間なんだけど。そんなに昔の話じゃない。若いときのことでもない。でも、詳しい時期は伏せさせて。とにかくまあ、五十代、六十代、七十代の男性ともお見合いしたわけよ」
「なな……」と声を出しかけて、翼は口をつぐんだ。もしかして、まあまあ最近の話なのではとすぐに察した。「ごめん、続けて」
「……で、彼らはこぞって言ったわけ。老後に一人じゃ心配、誰かそばにいてほしいって。なんだか、わたしの人間性よりも、わたしがどれだけ世話好きで、献身的な性格であるかを見極めようとしているように感じたの。介護士とか、お手伝いさんの面接を受けているみたいですらあった」
「なるほど」今度は友加里が額に人差し指を当てて、何か考え込んでいる。
「老後が心配なのは、お互い様。女性のほうが長生きなんて話があるけど、どっちが先に病気になるかはわからない。もし、妻が先に病気になったとき、彼らは世話をする気があるのかしら? なんとなくそうは思えなくて。もちろん、そういう男性もいるとは思うけど、そういう思いやりのある男性は、俺の世話ができる女がほしい、みたいな、そんな理由で婚活はしないんじゃないかな」
「じゃあ、どういう理由でするの? 思いやりのある男性は」
冨士子はまたムフーッと鼻息を出した。「……自分を……その……自分のことや、自分の人生を、もっと好きになるため……とか?」
「でもさ、剣介さんはその、お手伝いさん募集の男性たちとは、だいぶ違うんじゃない?」と翼は言った。「だって、友加里さんちでご飯作ったり、車で送り迎えしてくれたり、逆に献身的なタイプに見えるけど? それにそもそも、亡くなった奥さんのことも、まめに見舞ってたんだよね?」
「彼のことじゃなく、自分はどうなんだろうって最近考えてるの」と友加里は言った。「わたしは前の結婚で、夫のお世話をずっとしてたでしょ? それは仕方がないことだったし、ものすごく嫌だったってわけじゃないんだけど……。そう、冨士子ちゃんの言うように、ときどき彼の妻じゃなく、お手伝いさんなのかしらって思うときはあった。だから、もう一度結婚するなら、今度は対等な立場で付き合える人がいいって思ってたんだけど……」
友加里はまた考え込む顔になる。「だけど?」と冨士子と翼は同時に発した。
「……剣介さんは年も近くて、最初は理想の相手だと思った。でもなんだか気づいたら、彼は有能な上司で、わたしはヒラ社員みたいな、そんな感じなのよ。彼の言うことややることにいちいち『うれしい』『さすがー』『すごーい』なんておべっか使っちゃったり、逆に彼が望むことを先回りしてやっては『気が利くね』ってほめられて、しっぽ振ってよろこんじゃったり……」
「嫌ならやらなきゃいいだけでは?」と冨士子が他人事のように言った。「それともそうしないと、彼が不機嫌になるの?」
「問題は、それほど嫌ってわけじゃないこと。彼の言うことを聞いていると、ラクなのよ。自分で考えたり、決めなくていいから。きっと、そうなの。対等な立場で付き合うより、相手に従ったり、お世話をしたり、下の立場でいるほうが、わたしはラクみたい。でもさ、本当にそれでいいの、わたしの人生って、いろいろ考えちゃって」
そこまで言ったあと、友加里はクッキー缶を手で縦にしたり横にしたりしはじめた。「……ねえ、女性と付き合ったら、友達同士の延長みたいな、気楽で対等な関係性になるのかしら? 二人のどちらか、わたしと付き合う? それで奄美大島にヨガ旅行いく?」
「なーに血迷ったこと言ってるの。付き合わなくても、友達のまま沖縄いきましょうよ」と冨士子が言った。「でもわたし、ヨガはパス。一回姉に誘われてやりにいったら、一週間ぐらい股間がずっとかゆかった」
「ええ? なにそれ? なんでそんなところがかゆくなるの? ていうか股間って具体的にどこ?」
翼はなんとなく友加里からクッキー缶を受け取り、同じように縦にしたり横にしたりしはじめた。言おうか、どうしようか、冨士子の股間に関する説明(なんていうのかな~いわゆるひとつの性器じゃないんだけど、でも足の付け根よりは内側のあたりで~)を聞きながら、迷う。
「ていうかだから、ヨガでなんでそんなところがかゆくなるわけ? それがよくわからないんだけど」
「スパッツはいていたからじゃない?」
「スパッツ? スパッツがなんで?」
「なんかほら、ぴたっとしてるから」
「……だから?」
「ほら、ヨガって脚をひろげたりのばしたりするでしょ。そのたびにパンツと一緒に食い込んで……」
「わたしね、女性と付き合ってたこと、あるよ」
二人はくだらない会話をやめて、翼の顔を見た。それから冨士子が言った。「そうなの」
「へえ、そうなの」と友加里も言う。
「うん、別に不思議じゃないわね」
「それで? それがどうしたの?」
「だからスパッツってぴたっとしてるから……」
「スパッツのことはもういい。翼ちゃんとその女性のことを聞いてるの」
「あら失礼」
「ていうか、もっと驚いてよ」と翼は二人の顔を交互に見ながら口をとがらせる。「……まあ、それで、その相手の人はね……」
そこで、少し言いよどむ。千草について、何から話せばいいのか、数秒、わからなかった。いろいろありすぎるから。