うらやましい。
わたしは、うらやましいんだ。その晩、寛人の部屋のセミダブルのベッドから天井を見つめながら、翼は心の中でつぶやいた。
友加里と剣介、自分と寛人。出会ったきっかけも同じで交際期間もほぼ同じ。しかし、あちらは二人きりの旅行、友達や家族への紹介、同棲計画、ついにはプロポーズと順調に双六の駒をすすめている。一方、こちらは最初のサイコロで六をだして「肉体関係を持つ」のマスまで一気に進んで以来、「振り出しに戻る」か「一回休み」をずっと繰り返している。そんな感じ。
何も変化がない。友達にも会ったことないし、会わせたこともない。家族のことなんて口にも出さない。会うのは決まって毎週土曜夜。夜八時過ぎに翼が寛人の部屋を訪れ、ウーバーイーツか寛人が作ってくれた何かを食べながら映画やドラマを見て、性行為をして、寝る。朝は寛人が用意する簡易な食事をとって、昼前に解散。ずっと、その繰り返し。デートらしいデートは、一度もしたことがない。
不満があるのかといえば、別にそういうわけではなかった。長い婚活時代、相手との距離を縮めるという目的のためだけに、あらゆるところに出かけつくした。水族館にもよくわからないイベント展にもド田舎にある花畑にも、もううんざり、いきたいとは思わない。
二人で映画を見た後、役者の演技や脚本の出来、あるいはテーマの是非について議論しているうちについ白熱してしまい、最終的に疲れ切って二人して風呂にも入らず寝落ちしたり、あるいは朝、ニュース番組を見ながらささっと朝食をとって帰るつもりが、与党の経済政策について互いの意見が対立し、やはり白熱のディスカッションとなって、気づいたら昼を回っていたり。そんなできごとが、ドライブだのいちご狩りだのととってつけたようなデートなんかより、翼にはいっそずっとエキサイティングに感じられた。こんなに長々と映画や社会問題について話ができる相手は、女友達にさえいない。婚活で出会った男性たちの中にも、一人もいなかった。デートで映画を一緒に見ても「面白かったね」程度のことしか言ってくれない人のほうが大半だったし、食事中、天気の話しかしなかったくせに「とても会話が弾んで楽しかったです」などとメッセージを送ってくるような人も少なくはなかった。
寛人は得難い人だと、会うたび思う。
こういう人と、結婚したかったな。
左腕に、彼の右腕の、少しアトピー痕のあるあれた肌触りを感じながら思う。こういう人と結婚して、いろいろな話をしながら過ごし、子供がうまれたら子供もまじえて話をして、子供が巣立ったらまた二人きりであれこれ話して。そんな結婚生活を送ってみたかった。
はあーと心の中でため息をつく。
でもなあ。
この手の男って。本当に本当に、いつまでも結婚したがらないんだよなあ。
なんで? ねえ? なんで?
「なんで?」とつい声に出してしまった。横でぴくっと寛人が動いた。
「どうしたの? 寝れないの?」
「ねえ、わたしたち、そろそろ一緒に暮らす?」
きっと寝ぼけていて、まともに聞いてはいないと思った。ところが数秒の間をおいたあと、彼はフンと鼻で笑ってこうつぶやいた。
「冗談でしょ」
それから一分もしないうちに、穏やかな寝息が聞こえてきた。
冗談だったわけじゃない。が、かといって本気だったわけでもない、決して。今さら、同棲だの結婚だのプロポーズだの、本当はどうでもいい。どうでもいいんだけど……。
あの白く清廉な輝き。果てしなく遠い銀河で音もなく存在する惑星。大切に思われている証、そんなふうに感じてしまう。五十一歳の翼じゃなく、心の中にまだ住んでいる三十代婚活女だった頃の、あるいはもっと若くもっとうぶだったころの自分が、悲しいほどにうらやんでしまう。
男の人から、あんなふうに選ばれてみたかったな。
……でもさ。
パールのリングって実際のところ、どうなんだろう。さすがに、やっぱりそこはでっかいダイヤじゃない? 本人は俺なりのセンスって思ってそうだけど、若干すべってない?
くすっと笑ってみる。どっちにしろ、わたしは何をもらっても文句を言うのだろう。だから結婚できなかったんだよ翼君、と自分に問いかけながら、眠りに落ちた。
翌朝は、めずらしく寛人が近所のカフェにいこうと誘ってきた。何か改まった話でもされるのかと、ちょっぴり、本当にほんのちょっぴり期待したが当然そうではなく、単に食材を切らしていただけのようだった。三十分ほどでささっと食べ終え、これから散髪にいくという彼と店の前で別れた。
その日は午後にランチの約束があった。翼は一旦帰宅してカポエイラのオンラインレッスンを受けてから、待ち合わせ場所に向かった。
そして、午後一時過ぎ。池袋西武前で、翼に向かって「やあ、元気」と声をかけてきた男を見ても、誰だかわからなかった。
「俺、老けたでしょ」そう言って笑った顔を見て、ようやく昔の面影と一致した。
「俺、もう五十三だよ」
彼は恥ずかしそうに頬をかく。それは、昔と変わらぬ仕草だった。翼は「老けたし……なんか、地味になったね」と言った。
「相変わらず、翼は直球ストレートだな」と幸雄はまた頬をかく。「俺にもいろいろあるんだよ。まあ。あとでゆっくり話そう。寿司でいいよね」
それから彼はサンシャイン60へ向かって歩き出した。高層階の寿司店を予約しているという。休日でごった返す通りを歩きながら、昔も「今日はイタリアンでいいよね」とか「コーヒーでいいよね」となんでも勝手に決めてしまう人だったなあと翼は思い出した。
出会ったのは三十代のはじめ頃、銀座の飲み屋で声をかけられ、そのまま勢いで男女の関係になってしまった。それから間もなくして、案の定、ほかにも複数の女がいることに気づいたが、どういうわけかとくにわだかまりもないまま友人関係に移行し、ときどき飲みにいっては婚活にまつわる相談にのってもらうようになった。当時大手広告代理店勤めだった幸雄は、女関係にだらしなく信用に欠ける人物だったが、妙に面倒見のいいところがあった。翼が盲腸で入院したときにはいの一番に見舞いに来て、退院の日には車を出してくれた。父親が亡くなった際には、相続関係の手続きを一手に引き受けてくれた。
ここ数年は音沙汰なかったが、先週、「相談したいことがある」と突然電話してきた。借金、宗教、マルチ商法……男からのふいの連絡は、いつもこの手のことを想像してしまう。が、世話になりすぎた手前、話を聞かずに断ることはできなかった。
やがて、店についた。美しい眺めを見渡せるテーブル席で向かあい「店員がちょくちょくくると話しにくいから、コースじゃなくこの特選にぎりでいいよね」と言う彼を見て、翼は改めて思った。
地味なおっさんになったなあ、と。
黒く染められた髪は短く切りそろえているし、ラルフローレンのシャツのボタンは二つ目まできちんととめている。最後に会ったときは四十半ばだったからそのときも十分おっさんだったが、ちゃらいおっさんだった。かつての幸雄は、長い襟足とぎらついた高級時計と、先がイカみたいに細くとんがった靴がトレードマークだったのだ。
「俺ね、今、婚活してるんだよ」異様に熱くて苦い緑茶をすすりながら、彼は言った。「三年ぐらい前からかな。今どきのアプリとかじゃなくて、独身証明とか提出するちゃんとしたところに入ってる。もうこれまで、五十人以上に会ったかなあ。ちなみに今日もこのあとアポ一件。まあ、今回もうまくいかなそうだけど、ハハ……」
幸雄は悲し気に笑う。これまで、仮交際に進んだのはたったの三人、真剣交際はゼロだという。いくらなんでも少なすぎるのではと翼は思った。五十代とはいえ、幸雄の条件はそれほど悪くないはずだ。
しかし、その先の彼の言葉を聞いて、合点がいった。
「子供がほしいんだよね。できれば……じゃなく絶対条件。そのための婚活なの。というわけで、子供が産める年齢の人じゃないと、ね?」
なにが「ね?」だと思った。いわく、八十代の母親が、孫の顔が見たいと毎日泣くのだという。それよりも重要なのは、父親が一代で築いて今は幸雄が継いでいる運送会社を、幸雄もまた誰かに継がせなければならないことだった。最後に会ったときは兄が継ぐと話していたはずだが、二年前にガンで亡くなったという。彼もまた、生涯独身だったようだ。
「でも一番の理由は、やっぱり自分の子供の顔を見てみたいっていう気持ちだよ」と幸雄は言った。「やっぱり人としての本能なのかなあ。このまま子供を持たないで死ぬのが、五十前ぐらいから急に怖くなってさ。だったら若いときに結婚しときゃよかったのにって思ってるだろ? もうさ、仲間内から百万回は言われてるから、それ。俺だってタイミングをミスったと思ってるよ。でもしょうがないじゃない」
「えーっと、何歳ぐらいの人がいいの?」セットの茶碗蒸しをちまちま食べながら、翼は恐る恐る聞いた――頼むから、二十代とか言わないでよ。
「翼の前だから、正直に言うね」と彼は居住まいを正した。「できれば三十代まで。子供は二人ほしいからさ、何かあるといけないし」
正直になんか言ってほしくなかった、と翼は思った。せめて三十五までとか言ってくれたら、こっちも「そのうち見つかるんじゃない?」なんて適当に返せたのに。
ていうか「何かあると」ってどういう意味よ? ねえ、どういう意味? やだ、怖くて聞けないんだけど?
「でもさ、さすがにそれはハードルが高すぎるって、俺だってわかってる。俺の年齢もそうだし、仕事もさ、プロフィール上は会社経営者だけど、運送会社ってなんか地味だろ? あんまり受けがよくないんだよね。女性はイメージを大事にする人が多くてさ。名もなき運送会社の社長より、テレビCMでよく見る中途半端な企業のリーマンのほうが安心できるみたい。とにかくだから、希望年齢は三十八歳までに広げてる、仕方なく」
幸雄は相談所に登録してある自分のプロフィールを見せてくれた。写真は悪くなかった。四十九歳ぐらいに見える。年収1500万、持ち家あり、母親と同居要……無理、見つかるわけない。
「正直、相談所での活動に限界を感じてる」幸雄は言った。「最近は担当者に会うたびに『希望年齢を四十五歳までにあげられませんか』って言われるんだよ。でも、意味ないんだ、それじゃあ」
実子を持つのはあきらめたらとか、せめて同居の件はどうにかならないか、などと正論を言っても意味がないと翼にはわかっていた。自分に求められているのは、それじゃない。
きっと、彼がわたしに求めてるのは……。
「そこで翼に、折り入ってお願いです。誰か、いないかな。翼って友達多いし、よさそうな人を探してもらえないかな……と思って。忙しいのはわかってる。そこをなんとか、お願いします」
幸雄は頭を下げた。頭頂部の髪が薄くなっているのがわかって、翼は心の中だけで「あ」と言った。