北海道へいく前も、帰ってきたあとも、渉は赤羽にある実家のマンションで母親と同居していた。が、知らない間に一人暮らしをはじめていたようだ。冨士子は全く聞かされておらず、母親の世話を押し付けられたことより、そっちのほうがずっとショックだった。さらに渉はいつ実家を出たのか、そして今はどこに住んでいるのか、聞いてものらくらとはぐらかすのだった。それでさらに傷ついた。だからといって、彼の頼みを今更断ることはできなかった。

 翌日の日曜日は、しとしとと朝から雨が降り、この秋で一番肌寒かった。空模様も冨士子の心もどんよりと曇って憂鬱だった。昼過ぎに、赤羽のマンションの前に着いた。かなり古い建物で、エントランスは薄暗く、陰気臭いったらなかった。エレベーターはさらに暗い雰囲気で幽霊でも乗り込んできそうに思えて、少しためらった後に三階まで階段を使った。実はすでに部屋の中で孤独死でもしていたりして、などと考えつつ、ドアの前に立ちインターホンを押した。

「ちょっと、何?」

 背後から女性の声がした。そちらを振り返った瞬間、確信した。渉の母親だ。

 小柄だがずんぐりした体型、丸い顔に赤い頰。目の前にいるのはおばさんの変装をした渉だったとしても、全く不思議ではなかった。

「もしかして……さん?」

「え? なんですか」

「こんにちは、どうも」と渉の母親はにこやかになって近づいてきた。「やだ、来るのは昼過ぎだって聞いてたもんだから、ちょっと美容院にね、すみません。いつ来られたんです? えっと鍵、鍵」

 母親は手に提げているバッグからぼろぼろのルイヴィトンのキーケースを出し、開錠した。そして「どうぞ、ちょっとね、散らかってますけど」と冨士子を招き入れた。

 戸惑いながら、玄関に足を踏み入れる。廊下には、ところどころ段ボール箱や中に何かが入ったままスーパーの袋などが放置されていた。母親に続いて奥のリビングダイニングに入ると、キッチンの流しに汚れた食器が積まれているのが目に入った。しかし、全体的にゴミ屋敷というほどではない。衛生観念がかなり低めの人が住む家、という程度だ。

「ごめんなさいね、ここ数日忙しくて、ちょっと散らかしちゃってて」

 ちょっととは――と思いつつ、冨士子は母親の顔をじっと見た。この人は本当に認知症なのだろうか。言動にやや不審な点はあるものの、身なりもきちんとしているし、思っていたより若い。まだ七十前かもしれない。施設に入る前の伯母はすでに七十代後半だったし、もっとうすぼんやりした弱々しい態度だった。しかし、そのあたりは人によるのかもしれない。どう対応すればいいのかよくわからなかった。あらかじめ、友加里に聞いておけばよかった。

 そんなことを考えてもじもじしている冨士子を、母親は怪訝な表情で見つめていた。冨士子はますます困惑した。

「あなた、何しに来たの?」母親が言った。「そんなところに、ぼーっと突っ立って」

「え? あの……」

「掃除とか、しに来てくれたんでしょ? わたしね、夜はお友達のおうちにお呼ばれしているの。だから、ちゃっちゃっとやってちょうだいよ」

 そう言うと、ところどころ破けて中の綿が露出している座椅子に座り、テレビをつけた。見はじめたのは、若者向けの恋愛リアリティ番組だった。

「何やってるの、早くしてよ」

 再びどやしつけられ、慌ててキッチンに向かった。動揺しつつも、とりあえず洗い物を片づけはじめる。そのままキッチン全体をシンクにあったふきんで拭き掃除していった。すると母親がそばにやってきて「ねえ、うるさいから、風呂とトイレを先にやってくれない」と言いつけてきた。

 風呂場とトイレは、ひどい有様だった。とくに風呂場はあちこちカビだらけ、これでどうやって毎日体を洗っているのか全く想像できないほどだった。あたりを探ったが、掃除道具になりそうなものは、ぼろぼろのタオルが数枚だけ。そのタオルをぞうきん代わりに、素手でやるしかなかった。

 こんなこと、全然たいしたことない。そう繰り返し自分に言い聞かせながら、汚れた床にはいつくばった。ただの掃除。いつもやっていること。渉の役にたてるなら、それでいいじゃないか。彼が喜んでくれるのなら。

 遠い昔。

 そう、ずっとずっと遠い昔も、こんなふうに、風呂場の床をはいつくばっていた。あれは、十九歳のときのこと。元夫の辰哉と出会う少し前だった。

 好きな人がいた。お弁当みうらの調理担当の男だった。当時の冨士子はまだ店を継ぐか決めておらず、歯科衛生士の専門学校に通いながら、よく店の手伝いをしていた。七歳年上で、口数が少なくて、背が低くて、いつもヤニ臭くて、今となってはどこがよかったのか全く思い出せない。が、気づいたら彼に恋焦がれていた。

 父も母も不在だった日、店をしめたあと部屋に来ないかと誘われた。狭い四畳半のボロアパートだった。玄関に入るなり、抱きつかれた。こわくておそろしくて、石みたいに硬直しているうちに、冨士子の初体験は終わっていた。

 それから、ちゃんとした彼女になりたくて、いや、もう一度抱いてほしくて、足しげくボロアパートに通うようなった。いつも鍵をかけていなかったので、勝手に入って料理を作ったり、掃除をしたり。ある晩、いつものように一人で風呂掃除をしていたら、男が帰ってきた。うるさい女をつれていた。二人はそのまま玄関の前で性行為をしはじめた。その声を聞きながら、二十歳になる直前だった冨士子は、黙々と風呂場の床を磨きつづけた。

 今となってはなんとも笑える思い出だ。結局、あれ以来一度も抱いてもらえなかった。きっと、一回目が全然よくなかったのだろう。それなのに、必死になって尽くしちゃってバカ丸出しだ。そのせいで専門学校の単位が足りなくなって、中退するはめになったのだから。

 好きな人のためを思ってやったことは、必ずないがしろにされる、それが冨士子の人生だった。でも、それは仕方のないこと。だって、わたしなんだから。誰からも好かれない、なんの魅力もない、わたしなんだから。別にもう、今更全部どうでもいい。

「ねえ」

 頭上から声が聞こえて、はっと冨士子は顔をあげた。

「わたし、お腹すいちゃったんだけど、あなた、何か作れる?」

「あ、はい」

 冨士子が答えると、渉の母親は何か気づいた表情になって目を見開いた。

「ねえ、そんなところ、素手で掃除してるの? やだ、そんな手で作ったものなんて汚くて無理だわ。やっぱりいい」

 母親は「やだやだ」などと言いながら去っていった。冨士子は風呂掃除を再開した、まだ途中だったから。

 

「いやあ、ありがとう。マジ助かる。本当にありがとう。冨士子さんがいてくれてよかったよ。でさ、来週もいってほしいんだけど、いいかな。それで一週間分のおかずとか作ってくれるとうれしいんだけど、できれば毎週。あ、で、よかったら、近々二人で飲みにいこうよ。冨士子さんといきたい店があるんだ、二人きりでね。その件はまた連絡するからさ、とりあえず来週もよろしくー」

 その日の深夜、渉は電話してきてほとんど一方的にそう話した。そのまま冨士子の答えを待たずに切ってしまった。

 だから、翌週の土曜の昼過ぎ、冨士子は食材と掃除道具を持って、再び赤羽のマンションを訪問した。母親は在宅していて、前回と同じくリビングの座椅子に座って、恋愛リアリティ番組の続きを見ていた。

 途中から、スマホで誰かと話をしはじめた。相手も同じ番組を見ているようで、「ねえわたし、本っ当にこのリコって嫌い。生意気よ。自分の娘ならぶん殴ってるわ」とか「フミヤって男のどこがいいのかしら。ただの詐欺師じゃない」などと言っては楽しそうに笑っていた。冨士子が台所で料理をしながらチラ見した限り、その番組は若い男女が少なくとも八人近く出演していたが、母親は全員の名前や性格の違いを、かなり正確に把握しているように思えた。

「わあ、とってもおいしそう」

 ようやくおかず作りが終わり、ダイニングのテーブルで保存容器に取り分けていると、母親がそばにやってきてうれしそうに言った。

「これ、ロールキャベツ? 短い時間で上手に作るのね」

「ええ、いくつか冷凍しておきますね」

「ねえ、あなたって、家政婦センターさんみたいなところに雇われてるんでしょ?」

「……え?」

「月に十五万も払ってるって息子が言ってたけど、本当? ずいぶんぼるのねえ。ねえ、あなたってとっても優秀だし、うちの息子と個人で契約したら? そのほうが中抜きもされないし、いいでしょ。月五万ぐらいでどう? ね、わたしから息子に言っておくわ。じゃあこれからわたし、お友達と出かけるから、さっさとそれ片づけて帰ってちょうだい」

 よほど楽しみな約束があるのか、母親は手のひらをひらひらさせながら踊るように廊下へ向かった。冨士子は言われた通り急いで片づけてマンションを出ると、すぐに渉に電話をかけた。

 出なかったが、あきらめずしつこくかけ続けた。五分ほどしてようやくつながった。

「なに?」その声は、あきらかに苛立っていた。

「ねえ、お母さんはわたしのことを、有料の家政婦だと思ってるみたいだけど」と冨士子は早口で言った。「あなたは、お母さんにわたしのことをなんて言ってるの? ていうか本当に認知症なの? そんなふうに見えないんだけど?」

「家政婦だと思い込んでるんじゃない? 別に、嫌だったらもういかなくていいよ」

「ちょっと待って、そんなこと」

 切られた。

 あわててかけ直したが、もう出てもらえなかった。どうしてか、歩き出せない。マンションの不気味で陰気臭いエントランスを見つめながら、冨士子はしばらくの間、茫然と立っていた。

 

(つづく)