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 今回のツアーの最初の目的地は餃子の街、宇都宮。そこでグループに分かれて神社散策と食べ歩きをしたあと、地下に広がる巨大な採石場でしられる大谷資料館へ向かい、最後はくだもの農園でブルーベリー狩りを楽しむというのが主な行程だった。そういったツアーの概要や専用アプリの使い方の説明が終わると、「制限時間は五分です、よーい、スタート!」というガイドの元気な合図とともに、一対一のトークタイムがはじまった。

 しかし、勝男は依然、目を閉じたままだった。

「あ、あの……お元気ですか」

 勇気をふりしぼって、冨士子はそう切り出した。あまりに間抜けな一言目に、自分で自分にあきれつつ。

 勝男はうっすらとだけ目を開けると、小さく「ええ、まあ」と言った。

 そして、また閉じた。

 断固たる、拒絶。

 小学生や中学生の頃、男子からこの手の態度をとられることは日常茶飯事だった。よもや五十代になってもやられるとは。その後の五分間、勝男はずっと目を閉じたままだった。やがて、ガイドの「時間でーす」の合図とともにぽぽちゃん人形のようにぱちりとまぶたを開くと、そのまま会釈もなく席を立ち、通路を挟んだ隣のシートに移動した。

 次に冨士子の隣に座ったのは、参加者の中で比較的若く見える男性だった。おそらく五十代後半。毛染めばっちりの黒髪に小麦色の肌、清潔感あふれる白いシャツ。なんだかほんのりいい香りもする。

 彼は冨士子を見て、あからさまにがっかりした顔になった。が、さっきまでの動揺を引きずって、それどころではなかった。勝男はまるで冨士子の視線を避けるかのように、隣の女性のほうに体ごとむけてシートに座っていた。会話を盗み聞きしたいが、バスの車内はどこもかしこも大盛り上がりで、とても個別の会話を聞き取れる状況ではない。

 結局、その白シャツの男性とは「雨すごいですね」「そうですね」とひたすら天気の話をしているだけで終わってしまった。そのあとの男性たちとの会話も、いまひとつ集中できなかった。最初のトイレ休憩のときになって、専用アプリをまだ一度も見ていないことに気づくありさまだった。

 勝男はどんなプロフィールにしているのだろう。気になって、手洗いの列に並びながらアプリを開いてみた。次の瞬間、周囲もはばからず「ええっ」と声をあげてしまった。

 男性参加者の一覧に、三つ、ハートマークがついていたのだ。それはその三人の男性が、冨士子を第三から第一希望のいずれかに登録したという印だった。9番の武と7番のソウイチロウと5番のポン太。先の二人は顔も思い出せないが、ポン太だけはその特徴的な登録名と、「ポン太です、ぽーん」と言いながら突き出た肥満腹を叩くという意図不明な自己紹介のおかげで、顔も体型もはっきり覚えていた。

 用を足しながら、三人のプロフィールを確認した。9番の武は六十九歳の無職、7番のソウイチロウも同じく六十九歳の無職、5番のポン太は六十五歳の派遣社員。

 なんとなくがっかり気分でトイレを出て、バスに戻る。その後、バスが再び走り出してしばらくたつと、男性の席移動が一巡した。その時点で驚くべきことに、冨士子は十人もの男性からハートマークをもらっていた。ほとんどが六十代七十代だったが、同世代が一人いた。2番のヒロ。

 大急ぎでその人物のプロフィールを確認する。五十五歳、横浜市在住、未婚、市役所職員のところまできて、あの人か、と思い出した。大学でフランス文学を専攻していたと話していた人だ。やや薄毛だが引き締まった体型で、はきはきと話すさわやかな自信家、という印象だった。どことなく雰囲気が剣介に似ている気もした。

 ――もしかしてもしかして、ついにわたしにも運命の出会いが⁉

 そんなことを考えていると、勝男が隣に戻ってきた。彼が着席するなり、冨士子はあらかじめ決めていた通り、「ごめんなさい」と頭を下げた。

「勝男さんに失礼なことをしてしまったと、ずっと反省していました。あの日、わざわざ東京に戻ってくれて、全然関係ない人の洗濯機まで直してくれたのに、わたしってば……」

「大丈夫です、気にしないください」

 そっけなく言うと、勝男はまたしても目を閉じた。その瞬間、チーンと頭の中で音が鳴った。ゲームオーバー、打つ手なし。

 その後、予定通りの時刻にバスは最初の目的地である神社近くの駐車場に着いた。神社では八人ないし六人のグループに分かれて、三十分ほど自由散策した。冨士子は勝男とも2番のヒロとも同じグループにはならなかった。とくに外見的特徴がなく見分けがつかない白髪系六十代じいさん四人と、それぞれ美しく装った美魔女系熟女三人とともに、天気の話をしながら歩きまわっただけで、とくにこれといった収穫はなかった。

 それから再度バスに乗車し市街へ移動、再びグループわけのくじ引きがあった。冨士子のグループは六人で、男性陣はポン太と、1番の渡哲也(五分間トークのとき、聞いてもいないのに『本名なんですよ』と言っていた)と、2番のヒロだった。

 各自千円分の食事券と提携店が記されたマップを配布され、制限時間まで自由に食べ歩きするというルールだった。バス前で各グループ同士で集まり、簡単な自己紹介を済ませて早々、ポン太と渡哲也が一軒目にどこへいくかで意見が割れて揉めはじめた。ほかのグループは和気あいあいとした様子で、すでに飲食店街へ向けて出発していた。

「まあまあ、きっとどの店もおいしいですよ。ひとまず今回は、年長者の渡さんのご意見に従いましょう」

 頃合いを見て、ヒロが割って入った。渡哲也がポン太より年上だと決めつけて大丈夫かと冨士子はハラハラしたが(確かに渡哲也は七十代に見える)、ポン太も渡哲也も納得したような顔をしていたので、余計なことは言わないでおいた。

 渡哲也推薦の店は、駐車場から歩いて五分ほどのところにあった。テーブル席につくと、今度は何を注文するかでじいさん二人はふたたび小競り合いをはじめた。あちこち移動するのが面倒だからここで腹を満たしてしまおう派のポン太と、餃子二皿程度にして食べ歩きを楽しむべき派の渡哲也が、互いの主張を全く譲らないのだ。五分ほどくだらないやりとりを聞かされたあと、冨士子の隣に着席したヒロ(座るとき、明らかに冨士子の隣を狙っていた)が、ロレックスの腕時計を見せつけるように両手をかかげて、「まあまあ」と言った。

「どちらの意見も捨てがたいですが、とりあえず、この餃子大皿盛り合わせというやつを一つ頼んでみるのはどうでしょう。食べながらこの先のことを決めませんか? 時間も限られてるわけだし」

「いいわね、そうしましょう」と髪を紫色にそめた女性がすかさず言った。「すみませーん、注文、お願いします」

 ポン太は納得したようにうなずいていたが、渡哲也は二度までもヒロに横やりをいれられたのが気に入らないのか、腕を組んでぶんむくれている。冨士子はちらっとヒロのほうを見た。するとその前から彼はこちらを見ていたようで、バッチリと目があった。

 ニコッと微笑みを返され、冨士子はとっさに顔を伏せた。頰が熱くなる。やだやだ、いいおばさんが赤面しちゃってみっともないったら……揚げ物我慢した甲斐があったかも? それともレモンイエローのワンピースのおかげ?

 まもなく、餃子大皿盛り合わせがやってきた。一口食べるなり、渡哲也が「ビールがいるな」と言って店員を呼び、誰にも確認せずビールと追加の餃子を注文した。あれだけ食べ歩きを主張したくせになんなんだよ、と冨士子はあきれたが、ほかの人たちもやはり移動が面倒に思ったようで、続々と飲み物やら麵類やらを追加注文していった。

 会話はポン太を中心に、大谷翔平の話で盛り上がっていた。オレンジ色に髪を染めた女性が顔の下で手を合わせて「わたし、大ファンなの~」と何度も言っている。冨士子はスポーツ全般まったく興味がないので黙っていた。

 ふいに、ヒロが冨士子の肩をつんつんとつついてきた。

「冨士子さん、さっき温泉が好きだって話してましたよね」冨士子にしか聞こえないぐらいの声量だった。「最近はどこかいきました?」

「えっと……最近はあまりいけてなくて」

「そうなんですね。僕は本が好きで、休みの日は図書館によくいくんですよ。大学時代はフランス文学を専攻してて、パリに留学もしました」

 その話、バスの車内でも聞いたなと思った。が、これだけ多くの参加者がいれば、誰に何を話したかなど覚えていられなくても無理はない。

「パリはね、意外と治安も悪いし、そんないいもんじゃないですよ。女性はあこがれてる人も多いけど、まあ、イメージだけで判断してるんだろうね。人種差別もひどくてね」

 その話も聞いた。しかしそんなことはとるにたらないことだと思った。今、自分は男性とツーショットで会話している、その場の話題には加わらずに。この手の出会いイベントでよく見る光景だった。ほかの女性にはあっても、自分の身には決して起こりえなかったこと。しかも相手は一番人気の男性……実際のところはしらない、今、冨士子が勝手に決めた。

「パリ時代は、時間ができるとしょっちゅう一人旅しててね。一番よかったのはクロアチアかなあ。ドブロブニクっていう素敵な街があって……」

 もちろん、その話も聞いた。このあと、真珠がどうのとかジブリがどうとか続くはずだ。しかし話の内容など本当にどうでもよかった。冨士子は適当に相槌をうちながら、彼の口元をちらちら盗み見ていた。

 ちゃんと、歯がある。少なくとも前歯は一本も欠けていない。ちょっと黄ばんでいるものの、きちんと揃っている。バスの車内で、冨士子はつくづく思ったのだ。歯がきちんと揃っている中高年男性の驚くべき少なさを。

「それでね、実はジブリのアニメの……あ、もう時間だ」ヒロはロレックスの腕時計に目を落として言った。「みなさん、集合時間の十分前なので、そろそろ出ましょうか」

 そのあと、会計の割り方についてまたもやじいさん二人が揉めそうになったが、ヒロが「僕がやりますね」と言って、男性陣がやや多めになる割合に素早く計算してくれた。

 店を出ると、勝男のグループと鉢合わせになった。「わあ、奇遇じゃないか」「どこの店にいってたの~」と、まるで修学旅行生みたいにわいわい盛り上がりながら、大所帯になって駐車場まで歩いていく。勝男は集団から少し離れて白いワンピース姿の女性とツーショットで歩いていた。五十代半ばほどの、小太りで地味で、どことなく自分に似た雰囲気の女性だった。

 何よ?

 と、冨士子は思った。

 突然はじまったこの動悸・息切れは何よ? 食後の漢方も忘れずに飲んだし、最近は鍼治療をはじめてずいぶん調子がよかったのに。

 それともまさか、このわたしが嫉妬? やーだ、冗談はよしこちゃん。そもそもわたしにはもうほかの相手がいるんだから。同世代で、さわやかで、機転もきいて、ロレックス持ってて、ちょっと毛は薄いけど歯が揃ってて……。

「餃子、おいしかったですね」と冨士子はヒロに話しかけた。しかし、返事はなかった。何か気になることでもあるのか、ヒロは険しい顔で何度も背後を振り返っている。

「なにか、あ……」と冨士子が言いかけたとき、ヒロが足を止めた。そしてすぐ後ろにいた大谷翔平ファンの女性に対し「アフターユー」と言った。

 大谷翔平ファンは「アフターユー」の意味がわからなかったのか、それとも宇都宮の路上で「アフターユー」される意味がわからなかったのかおろおろしていたが、ヒロに促されて彼の前に進み出た。次の瞬間、ヒロは大谷翔平ファンのパンプスのかかとをふんだ。「あっ」と彼女は声をあげて立ち止まった。

「あ、ごめんなさーい」とヒロは不自然なほど大きな声で言った。「自分が踏んでも何も言わないから、逆に踏まれても気にしない人かと思いましたー」

「あ、す、すみません、あ、あ……」と彼女はおろおろと逃げるように集団の前のほうに移動していく。ほかの参加者たちは我関せずといった態度だった。

 ヒロはちっと舌打ちをした。それから思い出したように冨士子を見てニコッと微笑み、「餃子おいしかったですね」と言った。愛想笑いを返しながら、やっぱり漢方を飲み忘れたかもと冨士子は思い直した。動悸・息切れがおさまらないからだ。

 

(つづく)