千草は翼の母の弟の、二番目の妻だった。だから体面をとりつくろった説明をするなら、単にこうなる――義理の叔母。
出会ったとき、翼は十五歳で、千草は三十二歳だった。ある年の正月の集まりに、叔父の誠が連れてきて、いきなり親族たちの前で再婚を宣言したのだった。
「見た目はね、もう完全にギャル」当時を思い出し、つい笑ってしまいながら翼は言った。「肌は小麦色で、髪は金髪。うちの母の実家って、長野の山奥で、正月なんてもうとんでもなく寒いの。それなのにへそ出しファッションで、おまけにへそピまでしてた。だけど職業は人権派の弁護士だって聞いて、もうね、強烈すぎてめまいがした。なんてかっこいいのって、全身にびりびりーって電気が走ったの。わたし以外は完全にひいちゃって、しらーっとした雰囲気だったけどね。でも彼女はずっと堂々としてて、やっぱり、かっこよかった」
母の家族と誠はもともとあまり折り合いがよくなかった。祖父は小学校の教師で翼の母も大学教員、ほかの親族も教職についている者が多かったが、誠の最終学歴は高校中退、当時は売れないミュージシャンをやっていた。家族の中でもずっと味噌っかす扱いされていたようだった。
だから、その日をのぞいて親族の集まりに二人が顔を出すことは全くなかった。けれど翼は千草と個人的にやりとりして、夏休みに叔父宅に泊まりにいったり、洋服を選んでほしいと頼んで一緒に買い物にいったりしていた。しかしそんな関係も、翼が大学に入学し一人暮らしをはじめると途絶えてしまった。
「だけど……二十四歳のときだったかな。当時ね、新卒で入った会社からの出向で、タイのバンコクにいたんだけどさ、友達とちょっと遠くのビーチに遊びにいったときに、偶然、叔母と再会したの。彼女はブルーのサマードレスを着て、長い髪を風になびかせながら沖に沈む夕日を見てた。まるで人魚姫みたいだった。それでね、ふいにこちらを見て、わたしに気づくと、その瞬間、迷いもなくかけよってきてわたしを抱きしめて、ごく自然に、唇にキスしたの。そのとき、ああわたしたち、ずっとお互いに惹かれ合ってたのね、ってたぶん、二人同時に気づいたのね」
「何それ」と冨士子が言った。「そんな作り話みたいなこと、人生で起こる? ずるいわ、翼ちゃん」
「本当ね。ていうかそれ実話? 翼ちゃんの妄想じゃなくて?」
「それか最近読んだレディースコミックの話でしょ、それ」
「失礼ね、事実ですけど。ただね、ロマンティックだったのは、ほんの最初だけ。そのあと何回かデートしたんだけど……。叔母は人に合わせないから、なんでも自分のやりたいようにしかできないわけ。わたしが疲れていても連れ出そうとしたり、逆に気が向かないと、何日も電話に出なかったり。で、文句を言えばわたしがいかに幼稚でわがままか責めたてられて、わたしも精神的にどんどんまいっちゃって。叔母は叔母で、そんなわたしが面倒になったみたい。すぐに叔母と姪の関係に戻りましょうってことになった。周りの人にバレる間もなくね。親族の誰も、いまだに知らないはず」
「なるほどねえ」と冨士子。「つまり、女性同士だからって必ずしも友達の延長みたいな対等な付き合いができるというわけじゃないのね。性別じゃなく、一人一人の人間性の問題なのかしら。そもそも友達関係だって、難しいこともあるもんね」
「そう思う」と翼は言った。「これまで付き合った人たちの中で女性は叔母一人だけど、あんなにふりまわしてきたのは彼女だけ。男たちの中にも身勝手なやつはいたけどさ、なんていうか、扱いが楽だった」
「なるほどね」と今度は友加里が言った。「でも、解消してよかったじゃない。女性同士だろうと、不倫はよくないし」
「そうなの。あ、わたし、不倫はその一度きりだし、とても反省しています。地獄に落ちる覚悟もできていますので、よろしくお願いいたします」
「わたしたちは閻魔様じゃないし」と冨士子。「で、その叔母さんは、今はどうしてるの」
そう聞かれて、翼は思わず頰杖をついた。「それが、わたしの最近の悩みの種の一つよ。叔父とは長らく別居してて、今は一人暮らしなのね。そもそも叔父がどうしても結婚したいって言ったから、仕方なくしてあげたって感じだったの。子供はなし。叔母はもともときょうだいもいないし、両親も早くになくしてて、親戚付き合いもない、いわゆる天涯孤独ってやつ。だからわたしは唯一の親族のつもりで定期的に連絡をとるようにしてるんだけど、七十近くなってから、なんだかやたらと気が短くて、ちょっとしたことで癇癪を起こすのよ」
二人はそろって「ああ」と声を漏らした。身の回りで似たような事例はいくらでもあるのだろう。
「この間も朝の仕事前に電話してきて、家の中でピーピー音がするっていうわけ。で、火事だ漏電だって大騒ぎして、こっちの話を聞きやしない。その日はリモートだったからよかったけど、出勤の日だったらたまらないわ。結局、原因は冷蔵庫を開けっ放しにしてただけだったし」
「認知症? でも、七十前なら少し早いかな」と冨士子が首をかしげる。
「そうとも言えない」と友加里。「でも、認知症じゃなくても、年とると普通に認知機能は衰えるし、情緒不安定にもなるよ。でも問題はそこじゃなく、血縁者でもない翼ちゃんが、そこまで面倒を見る必要あるのかってこと。わたしは、ないと思う。なんだったら今すぐにも地域の支援センターとかに頼るべきよ」
それから冨士子がチャットGPTに聞くなどして、いくつかの相談先をピックアップしてくれた。そのあと友加里が新しい趣味を見つけたいと言い出し、あれこれ三人で検討しているうちにあっという間に日が暮れ、お開きとなった。
「もう二月も終わりなのに、まだまだ冬の中って感じねえ」外に出ると、しみじみした口調で冨士子が言った。「日が短いのって、なんだかさみしくて好きじゃないわ。早く春にならないかなあ」
「ええー。春は花粉があるから嫌だわ」
「確かに。最近の四季って花粉夏花粉冬って感じよね」
大通りまで自転車を押しながら並んで歩き、交差点で別れた。どこまでもつらなるテールランプの赤いまたたきを横目に、二月の風を押しながら翼はペダルをこぎはじめる。今日はまた、寛人に会うのをキャンセルされてしまった。とりあえず夜は一人でラーメンでも食べることにして、そのあとどう過ごそうかと考える。本当は明日、高校時代の友達の孫誕生祝いをかねてランチにいく予定だったが、それも三日前にキャンセルになっていた。早起きする必要もないし、久々に海外ドラマでも一気見して夜更かししちゃおうかなと思いついたところで、急ブレーキを引いた。
「やだ、もう!」と声に出しながら、自転車を歩道の脇に停めて、ジミーチュウのリュックを肩から降ろし、スマホを出した。明日のレストランのキャンセルをしなければいけなかったのに、すっかり忘れていた。七千円のランチコースを予約したので、当日ではキャンセル料がかかるはずだから、遅くとも今日までには電話しなければいけなかったのに。
「ああ、もう! ほんと、やだー」またつい声に出してしまいながら、スマホでレストランの予約サイトを探す。が、こういうときに限って、通信状態が悪い。
「なんでこうなの、ほんとやだ! ああ、もう!」
思わず足踏みしてしまう。ようやくサイトにつながり、店のページをひらいて電話のマークのところをタップした。が、話し中なのかすぐに切れてしまう。
「なんでなんでなんで、もう!」
通り過ぎる人の視線が気になるが、そんな場合じゃない。五度目でようやくつながった。電話の相手にキャンセルしたい旨を伝えると、すぐに保留にされた。カノンのいまいましいメロディを聞きながら、「なんでなんでなんで」と自分の頭をこぶしでぽこぽこ殴る。キャンセル料が発生したら、どうするの、わたしってば、本当にもう!
「お客様、お待たせいたしました。恐れ入りますが、アプリ上ですでにキャンセルのお手続きをいただいているようでございます」
「あ、そうですか。すみませーん、お手数おかけしました」
電話を切ったあと、また自分の頭をこぶしで一回こづいた。この予約のために普段使っている予約サイトとは別会社の予約アプリをダウンロードし、アプリ上ですでにキャンセルもしたのだった。すっかり失念していた。
「ああ、もう、本当に……」あきれてため息をつきながら、またスマホをリュックにしまって、サドルにまたがり走り出す。最近、この手のことが急激に増えてきた気がする。些細なことでパニックになって、あわてふためいてしまうのだ。今朝も道に迷っただけで年甲斐もなく泣きべそをかきかけた。先週は家の中で財布が見つからず半狂乱になった。
少し前まで、こんなふうではなかった。もっといろいろなことに落ち着いて対処できていた。職場ではまだなんとかやれている気がするが、この先はわからない。これがいわゆる更年期? それとも、単なる老化?
赤信号で止まる。交差点の向こうに、上下スウェット姿で上着も羽織らず、足元はサンダルの若い女の子がスマホを見ながら立っている。自分も若いときは、寒さに無頓着だった。今は二月にあんな格好で出歩こうものなら間違いなく寝込む。
ああ、年をとるって、本当にいやだ。青信号になり、ペダルに足を乗せてこぎ出そうとした瞬間、スニーカーの裏が滑ってあやうく転倒しそうになった。女の子はそんなおまぬけおばさんのことなど、全く気に留めることなく通り過ぎていく。
ああいやだ。本当に本当にいやだ。