返事があったのは、四日後の土曜日の朝だった。

 

 今日の昼、会える?

 

 そのとき冨士子は、勝男と新宿のデパートの駅弁フェアにいくために、身支度をしている最中だった。はきかけていたジーパンを投げ出し、下半身パンツ一丁のまま、「いいよ! どこで?」と返信すると、そのまま勝男に「すみません、朝から体調が悪く、今日のお約束をキャンセルさせていただけないでしょうか」とメッセージを送った。

 渉は未読のままだったが、勝男からは一分もしないうちに「わかりました。お大事にしてください。またお誘いしますね」と返事があった。そのとき、わたしはしくじったのだろうかという考えが、ちらりと脳裏をかすめた。が、目をぎゅっとつむって振り切った。罪悪感はもちろんある。何も感じないほど、自分は悪者ではないと冨士子は思う。けれど、このチャンスを逃したら、次にいつ渉に会えるかわからないのだ。

 父も母も五十代で死んだ。自分も同じ道をたどる可能性は十分ある。だから、会いたいと思った人に会いにいったほうがいいに決まっている。

 脱いだジーパンはクローゼットにしまい、かわりにこの間、通販サイトで注文して届いたばかりのチェックのワンピースを着た。それからすでに終えていたメイクを一旦落として、一からやり直した。さっきはCCクリームと口紅を塗っただけだったのだ。翼の教え通り、下地やらなんやらで丁寧にベースを作り、すすめてもらったブラウンのチークをふんわり塗った。眉毛を描く前には「よし、やるぞ」と気合を入れた。失敗は許されないからだ。気合のおかげか、一発でうまく描けた。

 そのとき、チロチロチロリーンとまたスマホが鳴った。それは、渉だけに設定しているLINEの通知音だった。

 

 ごめん、昼って言ったけど、三時でいい?

 

 「全然大丈夫」と返信したあと、思わず天井を見上げた。わたしはたぶん、しくじっている。冨士子はよくわかっていた。しかも、元夫との結婚を決意したときに次ぐぐらいの大しくじりだ。

 でも。

 明日死ぬかもわからないんだから。心の中でそう言い訳を繰り返しながら、乱れた髪をくしでといた。

 

 待ち合わせは、パチンコ屋の前だった。三時と言っていたのに、渉が現れたのは五時過ぎだった。それから閉店まで打ち、冨士子はプラス約二千円、渉はマイナス約三万円、いつも通り、全額冨士子のおごりだ。

 一緒にパチンコにいって負けると、自分の金が減ったわけでもないのに渉は子供みたいにふてくされ、そのまま帰ってしまうことも珍しくなかった。しかし、その日は妙にご機嫌だった。「いつも払ってもらってるし、今日は俺がおごるよ」と言って、近くのチェーン系居酒屋に冨士子を誘った。

 若者でごった返す店の小さなテーブル席で向かい、ハイボールの大ジョッキで乾杯した。ごくごくと喉をならして飲んだあと、「うめえー!」とうなる彼の丸顔を見て、ぎゅっと心臓をわしづかみにされるような感覚を覚えた。

 もう渉も四十近い。額は以前より二センチは後退しているし、かわりに腹回りは十センチ以上でっぷりと増して、見た目は十分におじさんだ。それでも、自分より一回りも年下の彼が、こうして二人きりで会ってくれて、自分だけを見て笑ったり、くだらないことをしゃべったり。それがうれしくて、胸がいっぱいで……。

「あ、冨士子さんの好きな唐揚げがきたよ」そう言って、冨士子の前にあった枝豆の皿と唐揚げの皿を入れ替えてくれる。「それ、全部食べていいよ」

「え? 渉君は?」

「食べたくなったら追加で頼むし。ほら、冨士子さんが食べ物のことで遠慮なんかしたら、病気になるよ」

「何それ、ハハハ、どういう意味?」

「いいから、食べて食べて」

 渉の笑顔が好きだった。赤い頰がぷっくりとして、白く整った歯が輝いて。彼が笑ってくれるだけで、なんだか気分がぱっと明るくなる。そうだ、と冨士子は思う。渉といると、自分のことを認めてもらえたような気持ちになり、むくむくと力――それは自信と言い換えていいのかもしれない――がわいてくるのだ。

 子供のときから、人にあまり好かれなかった。人はいつも、ほかの人のことが好きだ。誰の視界にも入らない、誰にも認めてもらえない。だってわたしには、なんの魅力もないから。それが当たり前の人生だった。

 そんな自分のことを、渉は認めてくれた。かつて元夫もそうだったが、あのときは冨士子にも、若さという価値だけはあった。今は何もない。何もかも劣化したおばさん。そんな自分に渉が連絡をくれたり、二人で会ったりしてくれるたび、わたしはわたしでもいいんだ、そんなふうに思えてたまらなくうれしい。慢性的な頭痛がどこかに吹き飛んで、腰痛や肩こりがふいに軽くなって、世界の色が濃く鮮やかになって。

 ――ひょっとして。

 これが勝男の言っていたやつじゃない? 自分を好きになる、というやつじゃない? 渉といれば、わたしはわたしを好きになれる。だとしたら、勝男ではなく渉を選んでも、決して間違いではないんじゃない?

 問題は、渉が自分を選んでくれるかどうかだけど。

「そしたらさ、そいつがいきなり現れて『その台、俺が五万入れてたんだけど?』とか言ってくるわけ。いやいや、どいたお前が悪いだろってさ」

 実は酒がそんなに強くない渉は、首まで真っ赤にしながらずっと上機嫌でパチンコやギャンブルの話をし続けていた。ハイボールはすでに三杯目だった。いつもよりペースが少し早い気はした。

 正直、渉と話が合うと思ったことはない。彼が何を言っているのか、よくわからないことも多い。共通の趣味はパチンコのみ。しかし、冨士子はあくまでたしなみ程度で、大きくマイナスする前には引き上げる。渉は消費者金融に手を出すほどのめりこむ。おまけにパチンコだけでなく、競馬も競輪もFXもやる。

 けれど、話なんて。無理やりにも合わせればいいのだ。

 気づくと日付が変わっていた。店は朝五時までだから、時間を気にする必要はない。テーブルの上の料理はあらかた食べ終わっていた。冨士子はさっきから渉がべらべらしゃべっているよくわからないヤクザの話が途切れた隙を見て、「ほかに何か注文する?」と聞いた。

「もしあれだったら、店をかえても……」

「その前に、ちょっと、最近悩みがあって、聞いてほしいんだけど」

 渉が急に表情を暗くして、上目遣いで冨士子を見て言った。「冨士子さんって、もう父ちゃん母ちゃんどっちも死んでるんだよね」

「え? うん、そうね」

「介護とかした?」

「えーっと」と冨士子は数秒、左上を見る。「うちは父も母もね、五十代でガンになったんだけど、どちらも見つかったのが遅かったの。二人とも最後は自宅での緩和ケアになったから、姉と二人でお世話はしたけど、どちらも数か月程度だった。それが介護経験と言えば、そうかも」

 そう話したが、渉の目はうつろであまりちゃんと聞いていないように見えた。そもそも普段から、渉は冨士子の話にそれほど熱心に耳を傾けない。

「へえ、そうなんだ。うちも最近、母親の調子がなんか変でさ……」

 渉の母親は渉を未婚で産んでいる。彼女は看護師で、父親は同じ職場の医師だったが、不倫関係だったようだ。冨士子が渉と出会ったばかりの頃は、まだフルタイムで働いているという話だった。しかし二年前に引退し、今は一人で年金暮らしだという。

 同じ話を繰り返す、ものをなくす、得意だった料理を失敗する――渉の話を聞く限り、母親は認知症の初期段階にあるようだ。今は施設にいる、母方の伯母の症状とよく似ていた。

「地域の支援センターへ相談してみたら」とか「最近は物忘れ外来なんてものもあるよ」などと、思いつく限りのことを冨士子は提案した。が、渉は「うちの母ちゃん、頑固だから無理かも」とか「そんな大げさにしたくない」などと言うばかりで、どの案にも納得しないのだった。冨士子はほかに何かいい手立てはないものかと、チャットGPTに質問してみることにした。渉はその間、「誰か見てくれる人がいたらいいんだけど」「誰か週に一回でも来て、ささっと世話してくれたらいいんだけど」「一時間ぐらいでいいからさ」「掃除とか、かわりにやってくれるだけでいいんだけど」などとぶつぶつ言い続けていた……冨士子の顔をちらちらと上目遣いで見ながら。

 冨士子はスマホをテーブルにおき、腕を組んだ。すると渉は貧乏ゆすりをはじめた。冨士子は彼にわからないよう、こっそりと、だが深くため息をついてから、言った。

「わたしが、一度見にいこうか?」

「マジ? 明日とか来れる? いやあ、助かるな。ありがとう。マジ助かる。冨士子さんがいてよかった。本当、冨士子さんは俺の命の恩人だよ」

 それから手をあげて、すみませーんと店員を呼び、「会計お願いします」と渉は言った。

 

(つづく)