熊本県出身のクマさんこと良平は、ワインを飲むときに、毎回口元をぐじゅぐじゅさせる。音もたてる。それってテイスティングのときのやり方で、毎回やるべきではないんじゃないの、と相川翼は食事がはじまって以来、ずっと思っているのだが、そんなことはもちろん、とても言えなかった。
「それで、僕は彼らにこう伝えたわけ」良平はまたワインを口に含み、ぐじゅぐじゅさせてから飲みこんだ。「『そんな家を建てたって売れるわけがないんだから。なんの資産にもならないよ』って」
彼は不動産関連のなにがしかの会社を経営しているらしい。不動産会社なのか設計事務所なのか工務店なのか建築士事務所なのか、説明されたはずだがよく聞いていなかった。
あのバスツアーで、翼は良平を第二希望にしていた。第一希望は3番のヒロトだった。ヒロトは五十三歳という年齢にしては肌つやがきれいで若々しく、服装もおしゃれで、話もおもしろかった。しかし、全体的に覇気がないというか、どことなく乗り気でない感じがした。もしかしたらサクラかもしれないとさえ思い、第一希望にしたのもほとんどダメもとだった。バスツアーが終わったあとに、アプリ上でヒロトからリアクションがあり、LINEを交換したものの、今のところやりとりはない。
「それにしても、今日のお客もそうだったけど、世帯年収が一千万程度で家を建てたい、そうでなきゃタワマン住みたいとか、みんなよく言えるよなあ。僕が一千万稼いでた頃なんか、まだまだ足りない、もっと収入あげなきゃいい暮らしなんてできないって考えてたけどね」
良平はそう言ったあと、なぜか翼をじっと見つめて小さく頷いた。今の発言は何らかのアピールだったようだ。翼は彼から目をそらし、心の中でしみじみとつぶやいた。
わたしって本当、男を見る目がない。
やがてデザートも食べ終わり、彼が「そろそろ出ましょうか」と言って、そばにいた新人らしき若い男性の店員に向けて指でバツ印をつくった。今どきそんなしぐさをするやつがいるのかと内心であきれていると、良平が「なんだよ」と低い声で言い、舌打ちをした。店員がもの問いたげな顔で近づいてくる。バツ印の意味がわからないようだった。
「あの、お客様……」
「チェックだよチェック! なんでそんなこともわからないんだよ!」
店員は「申し訳ございません」と謝罪し、そそくさとレジに向かった。まもなくレシートを手に大急ぎで戻ってきた彼に対し、良平はカードを渡しながら「領収書」とぞんざいに言った。そのときの目つきが、若い頃、フィリピン旅行にいったときに街中で追いまわされた野犬のそれにそっくりで、翼は心底ぞっとした。
会計を終えて店を出ると、良平は渋谷駅とは反対の坂の上へ向かって勝手に歩き出した。やがて道玄坂の交番前の交差点で立ち止まると、さっきとはうってかわった妙ににこやかな笑顔で振り返って「二万円だったから、翼さんは七千円でいいよ」と言った。
翼は一万円を渡した。すると「千円札がない」と言う。そして一万円札を崩すことを口実に、ラブホテルに誘ってきた。
「二軒目バーとか、もう飽きたでしょ」良平は言い、すぐそばの円山町方面を手で示した。「カラオケとかあって楽しいよ。すぐそこだし、いこうよ」
翼は思わず、天をあおいだ。五十にもなってこれかよ、そう思った。わたし五十。三十三でも三十八でもまして二十五でもない。五十。なんで? なんで五十のおばさんになってまでこんな目に? もう何の気力もわいてこなかった。さよならを言う元気もない。無言のまま彼に背を向け、駅に向かって歩き出した。良平はへらへらしながら後をついてきたが、地下鉄の入り口まで来たところでようやくあきらめ、「僕はタクシーで帰るからさ」と聞いてもいないのにそう言った。さらに最後、こう捨てセリフを吐いた。
「僕ね、あなたを第三希望にしてたからね」
そこまで話したところで、翼は友加里と冨士子の顔を交互に五秒ずつ見つめた。
「ね? わたしって本当に男を見る目がないの。なんで五十歳すぎて未婚なのか、理解できたでしょ」
翌週土曜の昼、小竹向原にある友加里宅に冨士子と訪問し、翼はさっそくことの顚末を二人に報告した。
「わたし、ずいぶん長く婚活してたって前に話したでしょ? 具体的には、三十一歳のときにはじめて婚活パーティにいった日から、四十五歳で最後の結婚相談所を退会した日まで、約十四年と三カ月ね。その間、ずーっとこれの繰り返し。男を見た目とかスペックとかだけで選んでは、相手に足元見られて軽く扱われて終了。結婚相談所の人に内面で選びなさいって千回、いや一万回は言われたけど、そもそも内面で選ぶってことの意味がわかんないのよ。人間っていい面もあれば悪い面もある。他人に親切なだけで考えていることは超極悪って人も中にはいる。とにかく人間の本質を数回会っただけですべて見抜けるわけないんだから、婚活なんてものは見た目とか年収とかわかりやすい条件で選んだほうがいいでしょ?」
翼の力説に、友加里と冨士子はぽかんとしているばかりだった。翼自身も理解してもらおうと思って話したわけではなかった。
「とにかく、わたしは学ばないおバカな女なんです」そう言って、友加里宅のすぐそばにある超人気パン屋に寄って仕入れたローストポークサンドにかじりついた。
友加里が何か食べるものを用意しておくと言ってくれたが、冨士子も翼も断り、各自で持ち寄るスタイルにした。冨士子は自分の店のタレカツ弁当、一番人気の商品らしい。友加里はサッポロ一番塩ラーメン、土曜の昼の定番だそうだ。
「人間の本質とか難しいことはよくわからないけどさ」と冨士子が言う。「でもやっぱり『七千円でいいよ』はあまりにケチ臭いね」
「本当ね」と友加里もうなずく。「別に、今どきは我々世代でも割り勘はありなのかもしれないけど、さんざん金持ち自慢したあとの『七千円でいいよ』は、さすがにがっかりするよね」
「それよ」と翼は友加里を指さした。「金持ち自慢だけじゃなく、モテモテ自慢もしてたんだから。前に参加したバスツアーでは、三十三歳の子とカップルになったんだって。『その場の最年少だったね』なんて鼻の穴膨らませて言ってて、うわー、やだーって思った」
うわー、やだー、と二人も声をあげながら大げさにのけぞった。
「別れ際にさ『君、その年で誘ってもらえるだけでありがたいことなんだよ』とかわけわかんないことも言ってたわ、そういえば」翼は頰杖をつき、深くため息をついた。「もう、やんなっちゃう。ところで、冨士子ちゃんはその後、どうなったの?」
「わたしは結局、10番のダイスケさんとは音信不通」と冨士子の表情は浮かない。「本当はほかの人がよかったんだろうなあ。二人ともいいよね。美人だし、男の人にモテモテで。わたしって、人生でモテたことって一回もない」
「大丈夫、チャンスはまだいくらでもある」と翼は言った。「それにしてもこのサンドイッチ、とてもおいしかった。さすが人気店」
「持ち寄りランチってなんかいいね」と冨士子も機嫌をなおして言った。「気を使わなくていいし、外食より安く済むしさ。友加里さんさえよければ、またやろうよ。自分の食べるものはすべて自分で用意する決まりでさ。おすそ分けとか、そういうのは気を使うからなし!」
「え、でもごめん」と翼。「わたし、デザートはみんなのぶん買ってきちゃった」
「あ……わたしも」と冨士子。
「やだ、マロンパイ買ってある」友加里までそう言った。二人と顔を見合わせて笑いながら、翼は妙な懐かしさを感じていた。