友加里はまったく記憶にないらしいが、翼ははっきり覚えていた。1番のカツオ。バスツアーのとき、専用アプリのメモ書きにはこう書いた――気遣い◎、笑顔〇、前歯×

 あれから一年弱ぶりに会う彼には、驚くべきことに歯があった。だから笑顔も◎に昇格だ。白いボタンダウンシャツに紺のジャケット、真新しい綿パンというスタイリングも、抜け感すらあってなかなかいい。今、彼の隣に座っている剣介のセンスなのかもしれない。

 それだけでなく、差し歯も、この日比谷のハイクラスホテルのラウンジという場所も、剣介の案なのだろう。なにもかも、剣介の指示通り。しかし今日、彼にとって想定外だったことがおそらく一つある。

 友加里が自分を、この場に呼んだこと。

 二人が真剣交際するようになってから、冨士子も含めた四人で三度ほど食事に出かけた。一度目で翼はうっすらと察した。彼、わたしのことあんまり好きじゃなさそう、と。

 現に今日も、挨拶したとき目を合わせてもらえなかった。しかし翼にとって、それはさもありなんといった感じだった。昔から、この手の男性からは避けられがちなのだ。この手というのは、ハイステイタスで、自信家で、ときに支配的な……。

「もう十月なんですね。あのバスツアーからまもなく一年ですね」ウェイターが五人分の飲み物をテーブルに丁寧に並べ終わったあと、勝男が言った。「あのとき、冨士子さんはスーパー銭湯巡りが趣味っておっしゃってましたよね。僕もまったく同じなので、すごくうれしかったんですよ」

「ええ」と冨士子は小声で答えて、コーヒーカップに口をつける。「……そうですね」

 翼と友加里に挟まれて座る冨士子は、勝男と対面して以来、不機嫌というほどではないが、この会にはさほど乗り気でないというのは明らか、という態度でいた。教えてあげたメイクもやってないし、カットソーにジーパンと服装も手抜き丸出しだ。

「勝男さんは、都内だけじゃなく地方のスーパー銭湯にもいかれるんですよね」このイマイチ盛り上がりにかける雰囲気をなんとかしようとしてか、友加里がことさらに明るく言った。「最近、どこかいかれました?」

「ええ」と勝男はにこっと笑う。目元が三日月みたいになる、まるで漫画みたいな笑顔だ。「いわき市の時の湯ってところに、車で日帰りでいってきました。一人で、へへへ」

「ええ! ずいぶん遠くまで。アクティブですね」

「暇なだけです、へへへ。そこは昭和ノスタルジーがコンセプトで、食事処が昔の食堂風だったり、あちこち古い感じの看板がかかってたりで、すごく楽しいんですよ。おすすめですよ。バスのとき、冨士子さんも興味あるっておっしゃってましたよね」

「あ、そうですね」と冨士子。「あのときは、まだオープン前でしたっけ」

「そうです、そうです。冨士子さんは最近、どこか新しいところ、見つけたりしました?」

「えーっと、最近はいろいろあってなかなか……いつものさやの湯ばっかりで」

「仲良しのお姉さんとですか」

「いや、あの、友達と……フフフ」

 突然、上機嫌に笑いだしたので、翼は思わずぎょっとして冨士子を見た。同じくぎょっとした顔の友加里と目が合った。

「お友達、そうですか。バスではいつもお姉さんといくっておっしゃってましたよね」

「あのあと、できたんです。スーパー銭湯に一緒に行く友達」

 またフフフフフフと笑う。翼は、冨士子の膝の上でもみしだかれる白いハンカチをじっと見る。その友達とはとんかつ太郎のことだろうか。九月に入ってから、冨士子は翼と友加里の前で、彼の話を全くしなくなっていた。何かあったのか、それとも何も起こらなかったのか、とにかく、彼とはもう終わったのだと思っていた。

 よもや続いていたとは。しかもこの様子だと、少なくとも冨士子は二人の関係を良好と認識していそうだ。 

 考えすぎ、だろうか。とんかつ太郎は単に、年が若干離れているだけの飲み仲間兼、スーパー銭湯仲間なのかもしれない。冨士子が若い男にだまされかけていると決めつけるなんて、よくないことなのかも。

 そんなふうに翼が物思いにふけっている間に、会話が途切れてしまった。大きな木目テーブルの上を、気まずい沈黙がすべっていく。勝男がふいにまたへへへと笑い「なんか、すみません」と頭をかいた。

「やっぱり、僕なんかが、もう一度会いたいなんて、そんなお願い、本当に迷惑でしたよね」

「えっ」と冨士子は顔をあげる。「いや……」

「もうあれから一年近くもたってるし、冨士子さんはとてもいい方だし、新しい出会いがあって当然だと思います」

 冨士子は何も言わなかった。勝男は少しだけ前に身を乗り出した。

「でも俺……いや私は、あのとき、本当に冨士子さんのことをいいなと思ったんです。とても話が合うというか、波長が合うというか。お恥ずかしながら、ここ数年、何度か婚活っていうんですか、パーティとかにもいってみたんですよ。でも、なかなか気が合うと思える人には出会えなくって。自分が話し下手なだけなんですけど。でも、冨士子さんはこんな私のつたない話も、楽しそうに聞いてくれて、なんてやさしい人なんだって。だからどうしても、どうしてももう一度お会いしたくて。それで無理を言ってこんな機会を……本当にすみません」

 勝男は真剣なまなざしで冨士子をまっすぐ見つめる。しかし冨士子は「はあ……」と困ったようにつぶやき、うつむいた。

「あのバスツアーが終わったあと、冨士子さんみたいな人はほかにいない、あれが最初で最後のチャンスだったのにって、毎日悔んでました。なんでもっとうまくやらなかったんだろうって。だから、こうしてご縁があってまた会えたことが、本当に本当にうれしくて。大げさじゃなく、今年一番うれしいです」

 翼は勝男の顔をまじまじと見た。前歯がそろったとはいえ、全体的に黄ばんでいるし、肌もシミだらけ、そして今日はうまく隠しているけれどよく見ると頭頂部ハゲ、やはり見た目はイマイチかもしれない。隣の剣介(相変わらず髪はフサフサだし、白い歯が象牙のように輝いている)と比べるとなおさらだ。でもでもでも! そんなこと、どうでもいいじゃない! 察しがよくて、感じがよくて、ときに情熱的!

 いやいやこの人、全然悪くないじゃないと思いながら、またちらっと冨士子を見た。すると目が合い、きつく睨み返された。

 その暗い目が、翼にこう問いかけているかのようだった――でもでもでも、翼ちゃんは、この人とは絶対に付き合わないでしょう、と。

 

 その後、十五分ほどみんなで旅行や食べ物の話をしたが、やはり盛り上がりにかけたままお開きとなった。男性二人は、このあと新宿で地元の飲み会があるという。女性たちはその場にとどまることにした。席をたつとき、勝男が「よかったらケーキでもどうぞ」と言って、五千円おいていってくれた。

「ねえ、ケーキセットの値段見て」二人の姿が見えなくなった途端、急にいつもの野太い声で冨士子が言った。「何年か前に取引先の結婚式で帝国きたときは、二千円代だったのに。カーッ、どこもかしこも物価高」

 それから、ケーキを食べるのか食べないのか、もう夕方近いのにおやつには遅くないか、二つだけ頼んでみんなでシェアしたらどうかなどと十分近く侃侃諤諤と議論した挙句、結局一人一つずつで落ち着いた。翼はすみませーんと店員を呼んだ。

「ねえ、お見合いしてる人、結構いるね」周囲を見渡して、友加里が小声で言う。「……ひょっとして、隣の隣のテーブルも、そうじゃない?」

 翼もちらっとそちらを見た。スーツ姿の男性と白いワンピース姿の女性が、かしこまった雰囲気で向かい合っていた。年齢はどちらも四十を過ぎていそうだ。

「わたしが婚活してた頃は、もっと多かったよ」翼は言った。「土曜の昼下がりなんて、右も左もお見合いだらけだったもの。でもさ、こういうところで男性が毎回お茶代持つのも、それこそ今は物価高で大変でしょ? だから最近は、専用サロンをもってる相談所が多いみたいよ」

 そのとき一瞬、冨士子が渋い顔になったのを翼は見逃さなかった。

「どうしたの、冨士子ちゃん」

「ううん、なんでもない。ちょっと嫌なことを思い出しただけ」

「ねえ、それでさ……」と友加里が言いづらそうに切り出す。「勝男さん、どうだった?」

 冨士子はまた渋い顔になって、鼻から息を吐きだした。「……何を話したところで、わたしは悪者になるんでしょ?」

「どういう意味?」

 またむふーと鼻息。「勝男さん、いい人だと思うよ。バスのときのことも覚えてる。自分からいろんな話題を提供してくれたし、確かに誰よりも話しやすかった。車内でね、わたしが少し酔っちゃったの。そしたらその日ずっと気にかけてくれてさ。途中でお茶を買ってくれたり、通路側の席をゆずってくれたり。だけど、だけどさあ」

 冨士子は口をすぼめた。「だけど、なに」と翼は聞く。

「だけど……なんていうか、下に見られてるだけな気がする。この程度の女なら俺でもいけるだろう、みたいな」

「そんなことない」と友加里が強く言った。「そういう感じの男性がいること、わたしにもわかる。でも、勝男さんは違うよ。そんな気持ちで、冨士子ちゃんにまた会いたいって言ったんじゃない」

「何を根拠にそう言うの? そもそも変だよ。たった一回会っただけなのに、あんなふうに運命の人みたいに言ってくるなんて。わたしが内田有紀みたいな奇跡の五十代だったらまだしもさ」

「見た目とかで判断しないのよ、彼は。あ、冨士子ちゃんの見た目がどうこうって言いたいわけじゃないのよ」

「わかるけど」

「わたしも勝男、いいと思うなあ」と翼は言った。「裏表のない、まっすぐド直球って感じの人に見えた。さっき、そのままの正直な気持ちを話してたと思うよ、今日。あれで裏の顔がモラハラ男とかだったら、演技派すぎてびっくりだわ」

「じゃあ聞くけど、二人は彼と付き合える……ああっ!」冨士子は顔の前でぶんぶんと大きく手をふった。「もういい! ちょっと家で考えさせて! 連絡きたらちゃんと返すから。この話もう終わり。それより、友加里さんと剣介さんの、例の話を聞かせてよ」

 そのとき、ケーキが運ばれてきた。友加里と翼はフルーツタルト、冨士子はブルーベリーパイ。

 友加里はフルーツタルトをフォークでちょいちょいとつつきながら、二人の間で持ち上がっているという同棲計画について語りはじめた。今は二人とも前の婚姻時に購入したマンションに一人で住んでいる。剣介のマンションのほうが資産価値が明らかに高く、立地もいいので、そちらに二人で住み、友加里のほうはいっそ売却してはどうかと剣介に提案されたという。

 友加里は浮かない顔をしている。最近、剣介の話をするとき、いつもそうだ。かといえば100パーセント全力でのろけてくることもあるから、なんだかんだうまくいっているのだろうと翼は思っている。

「浮かない顔ね」と冨士子が言った。「まあでも、家を売るのは、どうかしらね。娘ちゃんたちの意向もあるだろうし」

「娘たちは二人とも、練馬の古いマンションなんかいらない、いっそ売って生前贈与してくれって感じ。確かにね、不動産は高騰してるけど、いずれ下がるだろうし、今売っちゃうのも悪くないかもしれない。でも、もし別れることになったら……」

「剣介さんはその辺、どう言ってるの」

 翼が聞くと、友加里は黙った。自分の左手を右手でさすっている。そのしぐさをみて、ぴんときた。

「もしかして、プロポーズされたの?」

 友加里は唇をかみしめた。それから、傍らにおいたバッグを膝に載せ、中から純白の立方体を取り出した。

 ぱかっと蓋をあける。大きなパールが一つ、その両サイドにダイヤモンドが二つずつセットされた、シンプルかつゴージャスなリングが姿を現した。冨士子が「わあっ」と声をあげた。

「昨日の晩、突然渡されたの。びっくりしちゃった。籍を入れれば、別れるときに財産分与できるからって。婚前契約っていうの、そういうのもやっていいって言うの」

 翼と冨士子は息をのんだままそれを見つめていた。パールはシャンデリアの光を反射して神秘的にまでに輝き、どこか遠くの銀河にうかぶ惑星のようですらあった。

「……ねえ、失礼なことを言うようだけどさ」冨士子の声は少しかすれていた。「あの……彼は、どうしてそこまで友加里さんにしてくれるの? そんなに友加里さんのことが大好きなの? いや、友加里さんは素敵な人よ。だけど……えっと……」

「冨士子ちゃんの言わんとしてることはわかる」と友加里は言った。「ほかに、いくらでもいるのに。若くて仕事もできて、彼と釣り合うような人が。なんでわたしなんだろう。それがわたしも、ときどき怖くて」

 いつものようにのろけがどうのと、翼はなぜか言えなかった。彼は裏表のない人、なんて嘘はもっとつけない。

 友加里はぱかっと蓋をとじた。神秘の惑星が、ふたたび闇の中に閉じ込められた。それでも、と翼は思う。それでも、それでも。

 

(つづく)