三月二週目の土曜朝、ひさしぶりのズンドコ頭痛(音頭みたいにズンドコ痛むのでそう名付けた)とともに目を覚まし、朝比奈冨士子は重たいため息をついた。ここ数日、ズンドコ野郎はなりを潜めていたのに、と思う。久しぶりの雨のせいか、あるいは一昨日、また一つ年をとったことで、更年期の沼にさらに深くつかってしまったのか。
五十一歳。
いまさら年齢のことなんて、どうでもいい。おばさんNO.50がおばさんNO.51になっただけ。しかし、この忌まわしい不調。あきらかに年のせい。
ハアアアアアと家系ラーメンぐらいに濃厚なため息が、またこぼれる。それになんだか腰も重たいし、息も苦しいし、妙に暑い。けれど、だらだら寝過ごす土曜日はいやだった。今日は二カ月ぶりに例の集まりもある。冨士子は一旦うつぶせになり、枕に顔をうめると低くうなった。それから勢いをつけてがばっと起き上がった。
頭が痛い。
ハアアアアアアア。
よろよろと洗面台に向かい、なんとか歯磨きと洗顔をすませると、その流れで洗濯機を回した。それからお湯をわかし、冷凍ご飯を解凍して、冷蔵庫にあったなめたけと野沢菜でお茶漬けにした。
食欲がなくても、お茶漬けならさらっといける。ローテーブルに配膳し、食べる前に、婦人科で処方された漢方薬を飲んだ。
なめたけと野沢菜は、姉の日出子の結婚一周年旅行のおみやげだった。冨士子はなめたけの瓶を手にとって、「ふーん」と言ってみる。わさびなめたけね、まあまあいけるじゃない。
日出子が結婚をして一年ということは、冨士子の人生初の一人暮らしも、気づけば一年経ったということになる。当初はさみしくてしょうがなかった。が、やがて孤独に慣れた。
腹が満たされたからか、漢方が効いたのか、頭痛は徐々にやわらいでいた。テレビをつけようかと思ったが、そのままぐうたらしてしまいそうだったのでやめた。てばやく洗い物をして、洗濯物を室内に干し、掃除機をかける。十二畳1Kの部屋は常にぴかぴかだ。
日出子と暮らしていたときは、室内を歩くたびに日出子が落としたゴミや髪の毛を拾い上げ、日出子がこぼした飲み物や調味料のシミを拭いていた。あの人、今でもああなのかしら? とタンスにハンディモップをかけながら思う。日出子のものぐさは園児の頃からの筋金入りだ。智さんは、どう思っているのだろう。彼がわたしのかわりに、黙って片づけてあげてるのだろうか。それとも、掃除しろごみを捨てろと小言を言って、喧嘩したりしているのだろうか。
三十五歳のときに別れた元夫は、日出子など比じゃないほどのものぐさだった。冨士子が仕事で一日あけると、家の中はまさにゴミ屋敷になっていた。あの人も今でも……と考えたところで、ぶんぶんと首をふる。あんなカス男のこと考えて、老い先短い(かもしれない)人生を、一秒でも無駄遣いしてはならない。
まだ時間があったので、ついでにトイレと風呂場も掃除した。それから服を着替え、顔に日焼け止めだけ塗って、家を出る。てきぱき動いているうちに、ズンドコ野郎はすーっと遠くへいなくなった。ぐうたらしなくてよかった。自転車にまたがり、さわやかな春の風をきって走り出しながら、今日は何弁当にしようかと考える。さっきお茶漬けを食べたばかりなのに、ぐーっと腹が鳴った。
アパートと友加里宅のちょうど中間にあるお弁当みうら二号店に寄り、さんざん迷って今日はのり弁にした。お弁当みうらは、以前は両親が下板橋で営む小さな弁当屋だったが、日出子と冨士子が成人後に継いで事業拡大した。今ではコロナ禍の宅配ブームも追い風になって三店舗まで増やし、仕出し業も行っている。継いだ当初から社長の日出子がもっぱら経営や営業関係を担い、副社長の冨士子は兼店長として、ほぼ毎日店に顔を出し続けた。行楽シーズンなどの繁忙期には朝から晩まで店にたち、そのあとまた朝まで仕込みや仕入れを手伝うこともざらだった。しかし、数年前から体力的にきつくなってきたのもあって、店頭業務は従業員にまかせて、一号店が入っている雑居ビルの二階のオフィスで経理、事務、人事などを取りまとめている。
副社長とはいえ、小さな会社だから手当はそこそこ。それでも、一人で生きていくには十分な収入だ。老後、一人で、あるいは日出子と一緒に施設に入るためのプランも立てていて、それにむけて贅沢はなるべくひかえ、こつこつ貯金もしている。だから、将来の心配はあまりしていない。
はずだったのに……。
と、肩のあたりがほんの少し重たくなったところで、友加里のマンションに着いた。来客用駐輪場に自転車をとめていると、背後から「おはよー」と翼から声をかけられた。
「相変わらず冨士子ちゃんは元気ね。こんなに風強いのに、今日も自転車?」
「翼ちゃんこそ元気そうじゃない」冨士子は言った。「体調はどう?」
先月の集まりは、翼のインフルエンザ感染で延期になったのだ。翼は「もうすっかり元気。今朝もカポエイラレッスンうけてからきたの」と言いながら、軽く右足をふりあげるしぐさをした。
今日の翼は春らしい明るいピンク色のコートを着て、いつにも増して美しく見えた。こんなに風が強いのにヘアセットもばっちりだし、ただ自分と友加里に会うだけなのにきちんと化粧もしている。
いや、もしかして、夜は彼に会うのかも。そんな考えが脳裏をよぎり、冨士子の肩はさらに重くなった。
今日は「彼氏ができました」と翼からグループLINEにメッセージがあってから、はじめての集まりだった。
その後、二人で友加里宅にあがり、食事の支度が整うと、翼はさっそくことのなりゆきを話しはじめた。聞いているうちに冨士子の肩はますます重く、というかもはやだんだん痛くなっていった。相手の男の家に通うようになって三週間がすぎた晩、男のほうから「俺たちの関係って何?」と問われたところまで話がさしかかる頃には、巨人に肩もみでもされているのかというほどになり、思わず立ち上がって両腕をまわしてしまう始末だった。
「ちょ、ふ、冨士子ちゃん、大丈夫?」翼が話を途中でとめて聞いた。
「平気、平気。最近、コリがひどくって。どうぞ、続けて」
「そう? えっと、それで……えっとどこまで話したっけ」
「『俺たちの関係って何?』って聞かれたところまで」と友加里。
「あ、そうそう」翼はクルミのパンをちぎって口に入れる。「このパン、おいし。クルミたっぷり。……でね、なんかさ、女性側が『わたしってあなたの何?』とか『わたしたちって付き合ってるの?』なんてことを男性に聞いて、結果はぐらかされて終わる、みたいな話ってよくあるじゃない。あるのよ。三十代の頃は、友達からその手の話をしょっちゅう聞いたもの。わたしは言ったことないけど。とにかくだから、男の人からそんなふうに聞かれるとは想定してなくて。しかもこの歳で。 もうさ、なんて答えたらいいのかよくわからなくて」
「で、なんて答えたの?」友加里がいつものサッポロ一番塩ラーメンをすすりながら冷静に聞く。
「なんにも」と翼。「黙ってた。だって、もしわたしが『真剣な関係』って言ったあとに、『いや、俺は遊びだけど』なんて言われたら癪じゃない」
「そんなパターンある?」
「ゼロじゃないでしょ。まあ結果としては、向こうから『俺は付き合ってるつもり』って言われて、それで、まあ……そんな感じです」
翼は急に赤面して、クルミのパンをもじもじといじりはじめた。友加里が大げさに手をたたいて「おめでとう!」と声をあげた。
「六歳年下? え? 七歳? さっすが翼ちゃん。なかなかできることじゃないわよ、五十過ぎて七つも年下の彼氏なんて」
「あの人、変わってるの。子供のときから年上の女が好きなんだって。小学生のときは二つ上の従姉妹に片思いしてて、中学のときは高校生の彼女がいて、二十代のときは三十代と、三十代のときは四十代と同棲して、で、今は四十代半ばだから、五十前後がちょうどいいんだって」
「いやいや、自称年上好きの男って、三十ぐらいで年下好きに転向するってうちの弟が言ってたよ。だから、芸能人みたいに年下の夫とか望んじゃいけないって、うちの妹に説教してたもの。翼ちゃんはラッキーよ」
「でもでもでも!」と翼は二人に向かって両手を突き出した。「そんな、いいもんじゃないから。だって彼、超貧乏だし、なんだったらちょっと借金もあるみたいだし」
「なんの借金?」と思わず冨士子は身を乗り出した。なんだかやにわに肩の痛みがやわらいだ。
「何年か前に投資詐欺にひっかかったとかで、大金失ったみたいなの。結婚願望も一切なくて、家族は持たずに自由に生きたい、みたいな話は、最初に食事したときに聞かされてたのね。ご両親との関係があんまりよくなくて、家庭に夢を抱けないとかなんとか。だから本当、友加里さんたちとは違ってさ、わたしたちはただ、なんていうか、将来の約束とかは一切なしの、かるーい関係というかね。いつ終わってもおかしくない。だから本当、そんないいもんじゃないのよ」
そう言いつつも、翼の口元がずっと幸せそうに緩んでいる気がしたが、冨士子はいい加減腕回しをやめ、テーブルの前に戻るとのり弁の残りをかっこんだ。
食後、友加里が温かいハーブティーを淹れてくれた。デザートは翼が持ってきてくれた資生堂パーラーのクッキー缶。事前にLINEで「今日は先月のお詫びとして、みんなの分のおやつ、持っていきます」と言われていた。
「実はこれ、上司にもらったの。全国ネットのテレビに出て世間に大恥をさらした功労賞だって」
赤い千鳥格子柄の缶のふたをあけると、さまざまなかたちのかわいらしい焼き菓子がつまっていて、三人一緒に「わあ」と子供みたいに声をあげた。翼が「好きなものとって、早い者勝ち!」と言うので、冨士子はさっそく丸いガレットのようなものをつまんでまるっと口に入れた。ザクザクッとした食感のあとに、豊かなナッツの香りが鼻を抜けていく。
「……ねえ、ところで、話変わるけどさ」と翼がやにわに暗いトーンで話しはじめる。「実はちょっと相談があって……わたしたち、いわゆるひとつの更年期ど真ん中じゃない?」
冨士子はハッと目を見開いた。ようやく、自分にも参加できる話題がやってきたと思った。そうよ、それそれ。今日はその話がしたかったのよ。寝起きの忌まわしい頭痛! 巨人に肩もみされているみたいな肩こり! 盆と正月がいれかわりたちかわりやってくるような体のほてりと冷え! そうよ、わたしたちといえばそれよ。彼氏とか告白とか、そんなのは遠い日の花火よ。冨士子はハーブティをがぶ飲みして、口の中のガレットを急いで流し込もうとした。が、なかなかうまく飲み込めない。まったく、なんで一口で食べようとしちゃったんだろう。
「更年期?」と友加里が小さなチョコクッキーをつまんで首をかしげる。「なにか症状が出てお困りなの?」
「そうじゃなくてね」と翼。「その、わたしがね、話したいのはさ。更年期世代のせ……あの……その……」
いつもなんでもズバズバと話す翼の歯切れが、妙に悪い。友加里と二人で黙って耳を傾ける。
「せ、あの、せせせ……的な……その……」
「あ、わかった」と冨士子は言った。「生理不順ね。でもそんなの、更年期障害の中じゃ序の口も序の口よ。そもそもそれ不順じゃなくて、単にへ……」
「そうじゃなくて」と翼は少し強い口調で否定した。「あの、要するにね。更年期世代の性生活って、みんな実際のところどうなんですかってことよ」
そこまで言って吹っ切れたのか、それから翼はかなり生々しい、しかし本人にとっては切実であるらしい彼との性生活にまつわる悩みを、あれこれ吐露しはじめた。年下の相手との性欲の差。自身の体力の衰え。そして何より懸念しているらしいのが、うるおいの枯渇。
「今、何か問題が生じてるわけではないの。でも、毎回ちょっと心配なのよ。わたし、ちゃんとできるかな、その、ちゃんとぬれるかなって。……ごめん、変なこと言って」
「いいの、よくわかる」と友加里も真面目な顔でうなずく。
「若いときはね、好きな人に触れられるだけでドキドキして、体も……って感じだったのに、今はその感じが薄いっていうか、全くないわけじゃないんだけどさ、とにかく薄いの。情念がぐっと突き上げてくる感じがしないわけ。天城越えって三十代の女の歌よね」
「……それは、よくわかんないけど」
「とにかく、今はギリギリいけてるけど、わたしはいつまでできるんだろうって、不安なのよ。もう半年後にはカラカラかもしれない。ていうかさ、世の中の五十代ってどうなの? みんなどのぐらいの頻度でしてるわけ?」
「そんなの人ぞれぞれよ。子供産んでから全くって人もいれば、週何回って頻度で夫婦生活が続いてる人もいるんだし」
「はー」と翼は天井をあおいだ。「そうよね、人それぞれよね。正直、わたしとしてはさ、もうしてもしなくてもどっちでもいいの。彼とは話をしているだけで楽しいし。でも、向こうはまだ四十半ばでしょ? 最低でも週に一回はしたいみたいで。それにどこまで付き合ってあげられるのか、とにかく不安なのよ。早く向こうの性欲が衰えてくれないかなあ」
「そんなそんな。五十過ぎても、男性って結構性欲あるよ。バイアグラってあの世代のためにあるようなもんよ」
「ならさ、女性用のバイアグラみたいなのってないの?」
「あ、薬じゃないけど、こういうものはあるよ。わたしは使ってないけど」
そう言うと、友加里は自分のスマホを操作して翼に見せた。翼は老眼鏡を出し、真剣な顔でのぞきこむ。冨士子もちょっとだけ前かがみになって盗み見てみた。「ゼリー」という単語だけが読み取れた。
さっきから二人の話をどんな顔をして聞いていればいいのかわからず、冨士子はソファに転がっていた美顔ローラーで顔面をマッサージしつづけていた。しかし、いい加減それにも飽きてきたので、立ち上がってラジオ体操をはじめた。二人はそのゼリーとやらの話題に夢中で、冨士子の行動には目もくれなかった。