それから三日三晩考え、冨士子はついに決心した。
結婚相談所に入会することを。
そしてそれを、誰にも言わない。相手が見つかるまで。
とりあえず三ヵ月。やるだけやって、もしうまくいかなかったら、すべてを闇に葬り去る。だから、誰にも言わない。
相談所に入るならここにしよう、と前から決めていたところがあった。シニア世代向けをうたっている中堅どころで、翼がはじめて会ったときに「中高年で相談所活動するなら、ここが一番」と話していたのだ。
「五十代後半の上司が入会してすぐに相手を見つけて、今でもうまくいってる。カウンセラーの仕事が丁寧らしいの」
翼はそう言っていた。翼自身も四十代半ば頃に上司に勧められ入会を検討したことがあったが、当時は同世代か年下を強く希望していたので見送ったのだという。
思い立ったら吉日、すぐに無料相談を申し込んだ。当日、対応してくれたカウンセラーは冨士子より少し上の世代の男性だった。「五十一歳なんてまだまだうちではヤングですよ」と彼は言い、ハハハッとさわやかに笑った。
「実は今日このあと、七十代同士のお見合いの仲人が二件あるんですよ。明日は六十代が二件と五十代が一件。年齢なんて、本当に関係ないです。その気になれば、いくつになってもパートナーは見つけられます。でも、朝比奈さんはヤングだから(ここでまたさわやかにハハハッ)、入会されたらきっと引く手あまたですよ」
彼がそう言い切ったとき、ここにしようと決めた。その日のうちに入会手続きをし、その後は独身証明書を取り寄せたりプロフィールを作成したり写真を撮ったりとお決まりの面倒極まる準備を経て(もちろん白髪は染めたし、キャベツダイエットもはじめた)、四月も終わりになる頃、正式に担当になった女性のカウンセラーから、ようやく三名の男性を紹介された。
全員、六十代だった。
カウンセラーがテーブルに並べた三人分の写真付きプロフィール用紙。右から六十三、六十五、六十七。
六十代のじいさん三人組。それ以外の情報は一切頭に入ってこなかった。
カウンセラーは冨士子より少し年下と思われた。会うのは三度目だが、いつも結婚指輪と婚約指輪を重ね付けしている。つねににこやかで親切で、メールでの問い合わせに対する返信も早く丁寧だった。
「お三方とも、とてもいい方ですよ。まだ皆さん仕事をしていますし」
彼女は絵に描いたような感じのいい笑みをうかべて言った。無料相談のときに会った男性カウンセラーとそっくりな笑顔だった。二人はきょうだいなのだろうかとどうでもいいことを冨士子は考えた。
「いずれの方も、実際に会ってみると写真よりずっと若々しいです。六十代にはぜーんぜん見えません。こちらの後藤さんなんか毎日……」
「あの、もう少し、若い人がいいんですけど。見た目だけじゃなく実年齢が」
冨士子は思い切ってそう言った。自分の意見を主張するのは昔から苦手だ。とくに、相手が見た目の整った同性となるとなおさらに。
しかし、今回は人生がかかっている。遠慮している場合ではない。
「そうですね」と彼女は少し困った顔になりながら、目の前のラップトップを操作した。それから、モニターを冨士子のほうへ向けた。
「この方は五十八歳なんですけど、朝比奈さんのご希望とは大きくずれていて」
「何がずれてるんですか」
「高校生と中学生のお子さんがいらっしゃるんですよ」
冨士子は少し身を乗り出して、モニターに映し出された顔写真を凝視した。別に、悪くはない。小太りで薄毛だが、五十八ならこんなものだ。
「朝比奈さんは、成人未満のお子さんがいらっしゃらないほうがいいと前に……」
「でも、同居ってわけじゃないんですよね」
「でも……それだけじゃなく……」とカウンセラーは妙に歯切れ悪い。「この方、今は高齢のお母さんと一緒に暮らしていて、お相手には専業主婦になれる方を希望されているんです。でも、朝比奈さんはお仕事を続けたいんですよね」
要するに、この男は介護要員を求めているということか。ひょっとして、介護要員かつ性処理要員? 冨士子は思わず顔をしかめてしまいながら、モニターから視線を外した。
「その点、こちらの三人の方は、いずれもお子さんは成人していますし、ご両親は亡くなられています。外食や旅行を楽しめるパートナーを見つけたいとみなさんおっしゃっていて、朝比奈さんのご希望とぴったり……」
「でも、やっぱりちょっと、六十代はきびしいです」冨士子は言った。「できれば五歳差以内でお願いしたいです」
そもそも、その希望条件はすでに伝えてある。六十代でもいいなんて、一言も言っていない。よく考えたら五十八歳のその男だって条件外だ。なぜ、わたしの希望を無視するのだろう。
「ていうか、前に来たときにこちらから面談を申し込んだ人たちって、どうなったんでしょう」
冨士子がそう聞くと、カウンセラーは唇をうめぼしみたいにすぼめた。「……あのですね。当社では、五十代の会員様は年齢的に若いほうなので、男女とも人気になりやすいんです。ですので、やっぱりみなさん、見た目がきれいな方とか若々しい雰囲気の方をご希望されがちで……最近の五十代の女性はみなお美しいので……で、ですので、その、なかなかマッチングが難しく……」
「はあ」
「心苦しいですが、朝比奈さんが申し込みされた会員様からは、いずれも良い返事がえられませんでした。そして今のところ、同性代の会員様で、朝比奈さんにご紹介できそうな方は……はい……」
冨士子はじっと、テーブルの上でくんだ自分の手を見た。黒くて、シミだらけの手。見た目が悪いから相手がいない。そういうことを言われている。さすがにそれは、にぶい自分でも理解できた。笑えばいいの? 悲しめばいいの? わからなかった。ここに顔面ローラーがあれば全部ごまかせるのに。
そのあと、カウンセラーは六十代トリオのうちの誰か一人でもなんとか会わせようと熱心に口説いてきた。冨士子はなんだか頭がぼーっとして、もう何も言い返すこともできず、気づけばその場で初お見合いのアポイントをとってしまっていた。
そして、翌週日曜の昼、相談所の専用サロンで、六十五歳の後藤晴彦という名の男性と会った。サロン内にはほかに三組、お見合いをしている男女がいた。パーテーションで仕切られているわけでもなく、プライバシー丸出しだったが、ここはそういうスタイルなのだと冨士子は思うことにした。いずれも冨士子より上の年代に見えた。
最初の数分だけ、冨士子の担当カウンセラーも同席したが、すぐに二人きりになった。後藤は挨拶したときから感じがよく、事前にわかっていることも含めて、きちんと丁寧に自己紹介をしてくれた。大手製鉄会社を早期退職したあと、今は得意の英語を生かして日本語教師のアルバイトをしているという。バツありで成人した子供が二人、生まれて間もない孫が一人。趣味は旅行と囲碁とネットフリックスで北欧ミステリドラマを見ること。毎朝のウォーキングをかかさないらしく、年のわりにはすらっとした体型で、髪も多いほうに見えた。
冨士子も簡単に自己紹介した。後藤は笑みを浮かべながら、満足そうに聞いていた。それから、こう言った。
「僕のほうは、何も問題ないです。あなたさえよければ、このまま交際に進みませんか」
え、早、と冨士子は思った。思わず口に出すところだった。
「こんなところで趣味の話やなんやしたって、何もわからないですから。二人で手をつないで外に出かけてみないと、ねえ」
なぜ手をつなぐ必要があるのか、よくわからないと思ったが、長年の接客業のくせで、ついふふふと笑ってしまった。弁当屋の客からわけのわからないことを言われたときは、とりあえず愛想よく笑っておけばなんとかなる。
すると後藤はますます満足そうな顔になり、「あなたは話が早そうだ」と言った。「じゃあね、時間の無駄になると嫌だから、先に言いますね。僕は人よりあっちが元気だから、週に三回が最低条件なんだけど、あなたはそれでも大丈夫?」
こちらをのぞき込みながら、大きくにかっと笑った。黄色い歯がむき出しになる。そしてその、息の匂い。
冨士子はふふふとまた笑った。
「あらやだ。そんなこと、ふふふふ。ちょっとすみません、お手洗い」
そう言って、席を外した。もちろん、用を足すためではない。さっき出したばかりだ。カウンセラーに今のセクハラ発言を言いつけるためだった。