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 ハッハッハッと勝男はいつ見てもちょっと不自然な差し歯をむき出しにして高笑いしながら、薩摩GOLDの瓶を顔の前にかかげた。

「わたしの作戦勝ちですな、ハッハッハッ」

「別に、それで気になったってわけじゃありませんけど」横に座る冨士子が頰を膨らませて言う。「ねえ、もう我慢できないわ。お弁当、もう食べる」

 せっかくだし海が見えてきたら食べよう、と最初に言い出したのは冨士子なのに。友加里は横にいる翼と顔を見合わせて苦笑した。それから間もなくして、発車を知らせるアナウンスが流れ、特急・指宿のたまて箱はゆっくりと走り出した。

 交際三カ月記念の指宿旅行に、なぜ自分と翼が同行しているのか、いまもって友加里はよくわからなかった。先月の集まりのとき、「いいね、うらやましい」とは確かに言った。翼も砂蒸し風呂にかねてから興味がある主旨の発言をしていた。すると翌日、十月の第三土曜と日曜の日程で、四人分のたまて箱の座席と温泉旅館の部屋を二つ押さえたと勝男から連絡があったのだ。

 自分と翼が同行しなければならない理由は一つもない。が、断る理由もまたなかった。その後、翼と話し合い、せっかくだから二人で金曜日に鹿児島入りして市街を観光しようということになった。そして今朝、同じように霧島観光をしてきたという冨士子たちと、鹿児島中央駅で合流したのだった。

 勝男は海側のボックスシートを押さえてくれていた。冨士子が駅で買った桜島灰干し弁当の大きな卵焼きを食べながら「あ、海が見えてきたよ」と弾んだ声で言った。

 宇宙まで見透かせそうな雲一つない空の下、海面はどこまでも輝き、桜島の荒々しい山肌もくっきりと見えた。なんでここにいるのかやっぱりよくわからないけれど、でも、来てよかったと心から思う。

「サンドイッチ、食べましょう」翼が言った。「で、話は戻るけど。冨士子ちゃん、勝男さんに無視されてもよく心折れなかったよね」

 勝男と交際することになってすぐに報告を受けたが、気が変わった理由について、冨士子はずっとのらくらとはぐらかしていた。今日、久しぶりに勝男に会い、実は同じ婚活バスツアーに偶然参加したのが再会のきっかけだったとはじめて知ったのだった。冨士子は再びバスに乗ったことを、自分たちに知られるのが恥ずかしかったようだ。

「もうなんかそんなこと、後半はどうでもよかったのよ。本当にあの日は、あまりにもいろいろありすぎて……」冨士子はうんざりした顔でムフーッと鼻息を出す。「食い意地のはったじいさんにエビチリ横取りされたり、狂犬オヤジにキレられたり痴漢されたり……あーっもう、あの日のことは何も思い出したくないっ」

「俺のことも?」

 勝男が冨士子の顔を覗き込むようにして言った。すると冨士子は目尻をさげて「もう、かっちゃんのことは別よ~」と彼の膝をぽんぽんとたたくのだった。

 友加里は再び翼と顔を見合わせた。今朝会ったときから、二人は臆面もなくのろけまくっている。とくにまるで人が変わってしまったような冨士子の姿に、友加里も翼もあっけにとられるばかりだった。

「人生、本当に何があるかわからないね」と翼がしみじみと言った。「五十すぎだからってなんでもあきらめちゃだめよね。わたしも今日、指宿にお忍び旅行に来てるキアヌ・リーヴスから一目ぼれされて求婚されるかもしれないしね」

「あら、五十代なんて、まだまだ」冨士子が言う。「同じバスにいた六十代、男も女もみんなやる気満々、とにかくすごかったよ。半分以上がカップルになってたもん。わたしも六十過ぎたら、もう一回乗ってみてもいいかも」

「こーら」と勝男が冨士子の額を小突く。「ふーたんは、もう婚活なんて二度としないんだよ。六十歳になっても七十歳になっても」

 へへへと冨士子は頰を赤らめて、やじろべえのように左右に体をゆすった。友加里も翼も、もうからかう言葉さえ出なかった。

 友加里はまた窓の向こうに視線を移した。いつのまにか桜島は姿を消していた。

「ところで、あの、友加里さん。剣介のことだけど……」少し間をおいて、勝男が言いにくそうに切り出した。「その、友加里さんはどう思ってるの? 今後のこととか、いろいろ。あ、あの、剣介に聞いてくれって頼まれたわけじゃないから、その、あの」

 友加里は何も言わず、今度は通路を挟んだ反対側の窓のほうを見た。ただただ、草の生い茂る崖が延々と続いているだけだった。

 剣介と、一カ月近く会っていない。LINEもずっと既読スルーしている。

「ねえ、そろそろ教えてくれてもよくない?」翼が言った。「剣介さんと仲たがいしてる理由。あ、それとも勝男さんは知ってるの?」

「し、知らない」

 知ってる顔に見えた。友加里は勝男をにらみつけた。

「本当に知らない、死んだ両親に誓って知りません」

「ねえ、ここまで長引くってことは、何か深刻な事件でも起こったの? ひょっとして……殴られたとか?」

 友加里は観念したように息を一つつき、三人の顔を順繰りに見た。「じゃあ話すけど、バカにして笑わない?」

「笑わないよ」と冨士子がすぐに言った。

「バカにもしない? そんなくだらないことでって思わない?」

「言葉は慎むけど、内心の自由は侵害されたくないわ」翼が言った。

 確かにそうだ。友加里はまた一つ息をつく。「……あのね、彼に誘われてゴルフをはじめたでしょ? わたしはもうあんまりやりたくないんだけど、彼がどうしても二人で続けたいっていうから、だったらそのかわり、わたしの趣味にも一つ付き合ってほしいってお願いしたわけ」

「友加里さんの趣味ってなんだっけ」

「聞いたことないね。インスタントラーメン収集?」

「話の腰を折らない」と勝男がぴしゃっと言う。「それで?」

「確かにわたしは無趣味人間です。なんにも熱中するものがないし、好きなアイドルもいないし。だけど子供のときは将棋をやってて、こう見えてもわたし、結構強かったの。まあいろいろあってやらなくなっちゃったんだけど、今の職場に移ってから、レクリエーションで利用者さんの相手をすることがときどきあってね。これが結構楽しいの。で、もうちょっと本格的にやってみたくなったから、中高年向けのサークルとかに一緒に入ってみないって彼に話したら、彼、自信満々にこう言うわけ。『俺を倒せたらいいよ』って」

「やな感じ」翼の眉がナイキ形になった。「彼、将棋強いの?」

「強いかわからないけど、お父さんやお祖父さんとよくやってたって話は聞いたことがある」勝男が答える。「で、勝負したの?」

「したよ。二勝一敗でわたしが勝った」

「それでケンカしてるの?」と冨士子。若干あきれたような顔だ。

「違う。そのあと彼のおごりでお寿司をとったのね。出前で、特上握り。負けた人がお寿司おごるって約束してたから。で、お寿司が来て、テーブルにお醬油とかいろいろ並べて、『いただきます』ってした瞬間、彼がものすごい速さ、もうなんていうの? カメレオン、カメレオンいるじゃない? カメレオンがものすごい速さで舌を伸ばして虫とかを捕獲するでしょ? あんな感じのすばやさで、わたしの大好物のエンガワと中トロを、ネタだけペロペロペロペロって全部とって食べちゃったの」

 三人は言葉もなく、そろってぽかんと口をあけてこちらを見ている。

「全部で八つよ? それぞれ追加で注文したから。それを、もうほんと、ものすごい速さで、ペロペロペロペロって……」

「ペロペロで擬音あってるの?」と翼。

「まあ、カメレオンなら」と勝男。

「え!」と冨士子が声をあげる。「まさか剣介さん、お箸じゃなく舌でネタを巻き取ったわけじゃ……ないわよね、まさかね」

「そうじゃないことを祈りましょう。で、それでそのあとは?」

「そのあとって?」

「そのあと、どうしたの」

「どうもしてない。わたしはもう腹が立って、お寿司を食べずに家に帰った。それから連絡とってない」

 友加里は黙り込んだその三つの顔を、また順繰りに見る。それから心の中だけで「ほら」とつぶやく。バカにしてる。

 娘たちも同じだった。その翌日、二人一緒に泊まりにきたので勢いのまま話すと、二人とも死にかけのセミみたいに床にひっくり返って大笑いしたのだ。上の桃花は「ユーたちお似合いだよ、結婚しちゃいなよ」と息も絶え絶えになって言っていた。花梨も「ほんとほんと、あんたたち、世界で一番幸せなカップルだよ」とのたまった。

 世界で一番幸せなカップル――いつかどこかで、誰かに言われた気がする。いずれにしても、バカにされているのは明らかだった。

 もちろんわかっている。くだらないうえに大人げない。将棋で負けた腹いせに人の寿司ネタを横取りする男も、それをいつまでも根に持っている女も。しかも、ともに五十も半ば。いい年して、と自分が一番あきれているほどだ。

 けれど、でも。今回はどうしても納得がいかないのだ。いつものように何もなかったことには、どうしてもできなかった。

「いい年して、そんなくだらないことでって思ってるんでしょ」

「いや、思わないよ」勝男がすぐに言った。「くだらないとかどうとか、他人が決めることじゃないよ」

「確かにそうね」と翼がうんうんとうなずいている。「他人からしたらささいなことでも、当人にとっては重大事案ってこと、よくあるもんね。それにいい年とか、そんなのも関係ないわ」

「わたしは友加里さんの気持ち、よくわかるけどなあ」と冨士子が言った。「うちの姉がさ、何回言ってもわたしが買ってきたプリンとかゼリーとかを勝手に全部食べちゃうの。だから半年ぐらい無視してたことがある。大人げないとかいろいろ言われたけど、わたしはね、わたしのことをいつも軽んじる姉に、失望しきってたの」

「剣介には何も言わないから、安心して」勝男がいつもの、お風呂でふやけた指みたいなしわくしゃの笑顔になって言った。「さあ、この話はおしまいにしよう。ところで、駅に着いてからだけど……」

 勝男は事前にリサーチして、今日の行程を決めてくれているようだった。砂蒸し風呂だのアイスクリーム屋だのと盛り上がる三人の会話を聞き流しながら、友加里はまたしても泣きそうになっている自分に、ほとほとあきれ果てた。でも、うれしかった。そんなふうに自分の思いを認めてもらえるとは思っていなかった。

 窓の向こうの鹿児島湾は、真昼の光を受けて銀をまいたようにきらめいている。それがあまりにまぶしかったからだろうか、ふいに耐えがたいけだるさを感じて、つい目を閉じた。

 視界が閉ざされると、あの日のいろいろなことが頭の中をよぎりだした。ネタだけ食べられたあとのシャリのみ八つの悲し気な姿。そのあと怒り心頭に発した友加里に対し「そんなに怒るかね?」と笑った剣介の右の鼻から吹き飛んだ鼻くそ。三戦目、まだ均衡していた盤面で、孤立した飛車を一歩だけ前に押し出した、あの瞬間――

「ちょっと、友加里さん!」

 勝男の声で我に返る。指でつまんだままだったサンドイッチを、知らぬ間におしつぶしてしまっていた。

「大丈夫?」

「な、なんでもない。考え事してて」

「ねえ、そういえば、ちょっと話戻るけど」翼が言った。「将棋って、力の差が結構はっきり出るっていうじゃない? 素人がプロには絶対勝てないって聞いたことあるんだけど」

「まあ、そうだね」と勝男が答える。「でもまあ、アマチュア同士なら拮抗することもあるとは思うよ」

「じゃあ剣介さんと友加里さんはいい勝負だったってこと? 友加里さん、結構すごいのね」

 三人の視線が再び自分に向く。言葉が出てこない。

 ただ、頭の中にはあの飛車があった。ただでとられる位置だった。あれが間違いなく、三戦目の敗着になった。

「あの飛車、なんであんなところにおいたわけ? バッカだねえ。悪手っていうより自滅だよ」

 対局後、鼻の穴を膨らまして勝ち誇ったように言っていた剣介の顔(しかもそのときも鼻くそが飛んだ)。思い出すだけではらわたが煮えくり返る。

 しかし何よりも許せないのは、彼の不機嫌が怖いあまり、そして二人の仲がぎくしゃくしてしまうのが不安で、あの瞬間、とっさにぬるい手をうった。そんな自分自身のことだった。

 けれどわざとやったなんて、剣介の前でも三人に対しても、絶対に口に出せない。まさに負け惜しみもいいところだった。

「わからない。わたし疲れたから、ちょっと寝るね」

 そう言って、サンドイッチを袋に戻すとまた目を閉じた。薄闇の向こうで三人が戸惑っている気配がしたが、うまい言い訳がどうしても思いつかないのだ。

 いい年して、将棋なんかのことでいつまでも、とは思う。けれど腹を立てているのは、年をとって勝ちも負けもどうでもよくなったおばさんの自分ではない気がするのだ。目の前の一勝に毎度すべてをかけていた子供棋士時代の友加里が、あのぬるい一手をいつまでも悔やみ、心の中で死んだセミのように床にひっくりかえってじたばたしているのだった。

 

(つづく)