集合時間になっても渡哲也があらわれず、一時騒然となった。ガイドとドライバー、さらに数名の男性参加者が探し回った末、全然関係ない観光バスに勝手に乗りこんで居眠りをしている渡哲也が見つかった。
そのせいで時間がおし、くだもの農園ではブルーベリーの試食と土産用の受け取りだけで終わってしまった。さすがにその頃になると参加者たちはぐったりと疲れ切り、再びバスが走り出すと車内はいびきの輪唱状態となって、男性の席移動も中断となった。
しかしすっかり陽もくれ、新宿まであと一時間をきったところで、次のトイレ休憩時に「隣同士で座りませんか」と声をかけあう恒例イベント(恒例なのかどうか、本当はよくしらない)が実施されることがガイドから発表され、車内はまたにわかにざわつきだした。
数分後、最後のサービスエリアに到着した。参加者たちは我先にとバスから降りるとさっそく声をかけあいはじめた。冨士子はそんな彼らの様子を尻目に、ずっとこらえていた尿意を解消するため、早足でトイレに向かった。
列に並びながら、それにしても、と思う。今回のツアーの参加者たちは、六十代を中心に終始積極的だった。とくに女性から男性に声をかけてツーショットになる場面を、幾度となく見かけた。
今日、このあと、どうなるのかまだわからない。ヒロとカップルになるのか、ならないのか。冨士子はまだ誰にもアプリ上でアプロ―チしていなかった。
今日の収穫がゼロだったら。しばらくまた一人でのんびり暮らして、六十を過ぎたらまたチャレンジしてみてもいいかも。そんなことを考えつつ、用をすませて外に出てすぐ、ポン太に「どうも、でへへ」と声をかけられた。
「あの、よかったら……」
「ごめんなさい」
それだけ言って、バスに向かってかけ出した。ポン太が嫌だったのではなく(昼食時の恨みは忘れていないが)、すぐそばで勝男が白ワンピースの女性と話している姿が視界に入ったからだった。逃げるようにして車内に戻ると、さっきまで冨士子が座っていた席に、ヒロがいた。
「どうも」
そう言いながら、彼は手でピストルのかたちをつくって、冨士子にむかってうつしぐさをした。
「バーン、なんてね」
そして、ウインクした。
その瞬間、冨士子は思った。この一連のしぐさについて、あるいは今日一日の彼の言動、行動について、モラハラだとか変人だとか、あるいはただ緊張しすぎて上滑りしていただけだったのだろうとか、なんにせよ結論を出すのは先送りしよう、と。なんだか急に耐えがたいほどの疲労感が押し寄せてきた。ヒロの隣に座ると、「ちょっと疲れちゃって、寝ますね」と強い口調で言って、そのまま問答無用で目を閉じた。しばらく横からフガフガフガフガと不満を表明するような鼻息の音が聞こえてきたが、無視した。
やがて参加者たちが続々と戻ってきて、バスが再出発した。薄目すら開けなかったので車内の様子はわからなかったものの、相手が見つからなかったらしい渡哲也がガイドに文句を言いつのった挙句、最後尾の五人席に座らされたことはなんとなく理解できた。勝男がどのあたりに、誰と座ったのかはもちろんわからない。確かめるつもりもなかった。
目をかたく閉じ、ひたすら明日食べるつもりのカツ丼のことを想像した。そのうち、うつらうつらとしてきた。しかし、ふいに異変を感じて、意識が覚醒した。左肩が妙に重かった。居眠りしているヒロが、頭をもたせかけているせいだった。
それだけでなく、右手を冨士子の太ももにおいている。しかも、付け根にかなり近い部分だった。
ぞわぞわっと背中に寒気が走る。そのヒロの右手の内もも側にある指が、もぞもぞとわずかに動いているような気も……。
「大丈夫ですか?」
すぐ後ろから、声が聞こえた。
振り返らなくても、勝男だとわかった。
ヒロは微動だにしなかった。すると勝男は、さっきより大きな声で「大丈夫ですか?」とまた言った。
さらにまた、もう一度。するとようやくヒロは体を起こし、振り返って無言で勝男をにらみつけた。
「お隣さんに、もたれかかっちゃってますよ」
勝男は動じることなく、気のいい笑顔を向けて言った。ヒロはちっと舌打ちをして前に向きなおり、何も言わず目を閉じた。
車内はあちこちで会話が弾んでいて、このやりとりを気に留めている人がいるのかはわからなかった。冨士子はまた、動悸・息切れを感じていた。勝男が、自分を助けてくれようとした。しかもこんなおっかないぶち切れ男相手に、ひるむことなく。
そのとき、ヒロが再び頭を冨士子の左肩に乗せてきた。狸寝入りに違いなかった。なぜなら右手は依然、太ももにおいたままで、しかも指をまたもぞもぞとほんのわずかだが動かしている。
「大丈夫ですか?」
その瞬間、ヒロははねるように体を起こし、勝男に向かって「俺に言ってるの?」と声を荒らげた。
「あの、お隣さんに……」
「だからあんた俺に言ってるの?」
「あの……」
「触らないでよ!」
冨士子は言った。確かに言った。それなのに自分で自分にびっくりして思わず立ち上がった。ヒロがあっけにとられた顔でこちらを見ている。同じくおどろいてこちらを見上げている勝男の顔を見て、ふいに、自分の今日の目的を思い出した。
わたしも、幸せになりにきたことを。幸せになることから逃げるのを、やめにきたことを。その同志を見つけるためにこのバスに乗りにきたことを。でも、もうとっくに出会っていたのだ。この気持ちが、恋愛感情なのか、それとも別の何かなのかはよくわからない。ただ、何もせずまた六十になるまでチャンスを待つなんて、そんな悠長なことはやっていられない。だって、いつ死ぬのかもわからないんだから。
「勝男さん」
冨士子は勝男の顔をまっすぐ見つめた。皺だらけ、かつしみだらけで汚れた石っころみたいな茶色の顔。唇をとじているのにはみ出る長い前歯、しかも色はあべこべ。ずっとこの顔を見るのが嫌でたまらなかった。笑いかけられるだけで寒気がした。それなのに、とても不思議だ。今はいつまでも見つめていられる気がするのだから。
「あの、毎週火曜日」と冨士子は言った。勝男が「はへっ?」と間抜けな声をあげる。
「毎週火曜日の夜、わたしと、マツコの知らない世界、一緒に見ませんか」
その瞬間。
チャララララーラーン! と例のイントロが鳴り響き……。
「すみません、無理です」
レコードの針が飛んだように、ブツッと音が切れた。
そのあと、冨士子は自主的に最後尾の五人席の端に移動した。反対側の端には渡哲也がいた。新宿に着くまでの間、近くでカツ丼を食べられる口コミ高評価の店をネット検索した。明日まで待てないと思った。こんな夜はカツ丼しか許されない。ほぼ予定時刻通りに新宿に着くと、全員が降車するのを待ってからゆっくりとバスを降り、わき目もふらずとんかつ伊勢新宿野村ビル店へむかって歩き出した。
店内はそれほど混みあってはおらず、カウンター席にすんなりと案内してもらえた。隣のサラリーマンが食べているロースとんかつが目を見張るほどの分厚さで心惹かれたが、ぐっとこらえて「カツ丼、ご飯大盛でお願いします」と厳かに注文した。
それから腕を組んで目を閉じ、粛々とカツ丼がやってくるのを待った。
今日はいろいろと散々な目にあった。けれど、今の気分は決して悪くはなかった。いつもの自分だったら、きっと今頃、ヒロとカップルになっていただろう。五十代なのに体も引き締まってロレックスをつけててまっすぐ歯の生え揃った多少毛の薄い、どちらかというとモテそうな雰囲気の人が、わたしなんかのことを気に入ってくれたんだからと、いろいろなところに目をつむって。そのまま付き合うことになったとしたら、はやくて一カ月後、遅くとも三カ月以内には、殴られるか金を無心されるかその両方か、あるいは病気をうつされるとかカルト宗教に勧誘されるとか、とにかく気づいたらなんらかの痛い目にあわされていたに違いない。
でも、自分の力で悪霊男を振り払えた。五十二年も生きてきて、はじめてのことかもしれなかった。そして何より、勝男への気持ちを自分の中で認められたことが、うれしかった。
この気持ちの名前はやっぱりわからない。しかしそんなことはどうでもいいことだ。勝男とともに人生を歩みたいと思った。家族でも、友人としてでもいい。どちらももうかなわないけれど。でも、とても前向きで、美しい感情のように思えた。そんな気持ちになれた自分のことが、今、とても愛おしい。
勝男のおかげで、自分のことを少し好きになれた、気がする。
その後まもなくして、カツ丼が運ばれてきた。赤い丼のふたをあけて、思わず「わあ」と声を漏らす。白身と黄身の鮮やかなコントラスト、小判のように輝く汁を吸ったカツ、そのカツに隠れてご飯は一粒も見えない――思い描いた通りの、完璧なビジュアルのカツ丼。昨日までの自分なら、一日の憂さを晴らすように味わいもせずがつがつ食べただろうと冨士子は思う。でも、今日からわたしはニュー冨士子。死ぬまであと何回カツ丼を食べられるかわからないんだから、一丼一丼、丁寧に食べなきゃ。
手を合わせて「いただきます」とささやき、割り箸を手に取る。そのとき、隣の椅子の前におかれていたヘアクリップに肘が当たって落ちた。誰かが忘れていったものだろう。あとで拾えばいいかと思ったとき、後ろから誰かが肩をつんつんとつついてきた。
もう、一番いいところで邪魔しないでよ、後で拾うからいいじゃない、と内心で文句を言いながら振り返る。
そこにいたのは、勝男だった。
「ど、どうして、ここが?」
その顔を見て、とっさに出てきた言葉がそれだった。すると彼は笑い皺で顔をくしゃくしゃにして、こう言った。
「きっと、冨士子さんはカツ丼を食べにいくんじゃないかと思って、食べログで調べて勘で来てみました。まさか一発で当てるなんて、俺はラッキーだ」
「あ、えっと」
「カツ丼、一緒に食べながら、マツコの知らない世界の話、しませんか?」
その瞬間、頭の中でダン、ダダン、ダダダダダダ……と女性の声のスキャットが流れ出した。マツコの知らない世界のテーマ曲だった。