翌日の午後、剣介は友人の勝男を伴って友加里宅にやってきた。勝男は剣介の中学時代の同級生で、例のバスツアーにも参加していたという。が、友加里は全く記憶がなかった。番号は1で登録名はカツオ、友加里とは車内で将棋の話で盛り上がったらしい。そこまで聞いても、やはり何も思い出せなかった。

 日焼けした顔はシミだらけで、上の歯が一本、下の歯が二本欠けている。近づくと、ややスパイシーな匂い。けれど、常に子供みたいにニコニコ笑っている、気のいい男でもあった。

 彼はハウスクリーニング業に長年従事しているといい、洗濯機の解体清掃など、まさにお手のもののようだった。魔法みたいにあっという間に分解し、真っ黒な洗濯槽をむき出しにしてあらいはじめた。

 剣介は腕を組んでその様子を見ながら、ただおしゃべりしているだけだった。中学三年間、カツオがずっと一人の女子に片思いしていたこと。二年のときの球技大会のバレーの試合で、その女子の前でいい格好をしようとしてできもしないジャンプサーブを強行、大失敗したあげく転倒して骨折したこと。卒業式、意を決して告白したら「気持ち悪い」と言われて泣かれたこと。きっと、これまで百万回は繰り返してきた思い出話なのだろう。それなのに、二人は腹を抱えて涙さえ流しながら大笑いしているのだった。友加里も最初は笑って聞いていたが、ふいに、耐えがたいような気持ちになった。胸がもやもやする。いつもの感じ。

 ――この人、勝男さんのことを、内心でちょっとバカにしてるんじゃないかしら。

「ごめんなさい、やること思い出した。部屋にいるね」

 友加里はその場を離れ、寝室にいき、ドアをそっとしめるとベッドに腰かけた。

 ふう、と息をつく。もやもやの原因。やっぱりそうだ。ときどき、無性に感じるのだ。

 この人、わたしのこと見下してない?

 と。

 はっきり「バカ」とか「まぬけ」などと言われたことはない、もちろん。彼のどの部分にそう感じるのかはよくわからなかった。なんとなく、としか言いようがないのだ。

 そしてさっき、そのなんとなく、を勝男に対する態度にも感じた。

 自分の感覚が正しいかどうか、わからない。むしろ間違っているようにも思える。あるいは勝男がバカにされていると感じたのは、単に自分が勝男を下に見ているからでは?

 ふう、とまた息をつく。とりあえず、洗面所に戻ろう。

 立ち上がりかけたとき、ベッドサイドテーブルにおいてある写真たてに目がいった。亡くなった夫の笑顔。ふいにその笑い声が耳の奥によみがえる。夫は友加里がドジをふむたび「ママはとんまだねえ」と笑った。ケアマネージャーへの伝言を忘れたり、服薬を促すタイミングを間違えたりするたびに「ママはとんまだねえ」と。友加里はいつも笑って流していたが、本当は嫌だった。いつだかついに耐えきれなくなり、とんまと言ってほしくないと抗議したが、夫は「ママはプライドが高い」などと言って取り合わなかった。結局、亡くなる直前まで言うのをやめなかった。

 いまだに夢に見る。何かドジをふんで、夫に「とんま」と笑われる場面を。そして夢の中の友加里は怒り心頭に発し、夫を殴り殺してしまうのだ。

 こんこん、とドアがノックされた。

「友加里さん、大丈夫? どこか調子でも悪いの?」

「ううん、大丈夫」

「何かあったら、言ってね」

 それだけ言って、剣介はその場を離れた。決してしつこくはしない。そんなところも完璧。まさにパーフェクト太郎。

 ――やっぱり、わたしのプライドが高すぎるだけなのかしら?

 それからしばらくして洗面所に戻ると、洗濯機はすっかり元通りになっていて、勝男は玄関で靴を履いている途中だった。人のいい笑顔を浮かべて「いやいや、あとはお二人でゆっくりどうぞ」と言い、引き留める間もなく帰ってしまった。

「やだ、お礼も渡せてない。ポチ袋にお金いれておいたのに」

 友加里が言うと、剣介が「そんなの必要ないよ」と笑った。

「それより、勝男のことで少し話があるんだけど、まだ時間、平気?」

「もちろん。今日は何も予定ないから」友加里は言った。「とりあえずお茶……」

「俺がやるから、友加里さんは座ってて」

 剣介に促され、ダイニングまで移動するとテーブルの前に座った。剣介はキッチンに立ち、手際よく紅茶を淹れてくれた。その姿を見ながら、ふいに涙がこみあげてくる。

 なんて、なんてかっこいい人なの。

 この数カ月、何度も二人きりで会い、旅行にも三回いった。でも、いまだに会うたびに、新鮮にかっこいいのだ。ふいにそのかっこよさが心にしみて、泣きたくなる――こんなこと、とても翼と冨士子の前で言えないけれど。

「おまたせ」

と彼がトレイに二つのカップを載せて運んでくれる。一口飲んで、ガーンと頭の中で音が鳴った。わたしが淹れるのより百倍おいしいじゃない。

「ところで、勝男のことだけど。ほら、あいつもバスに乗ってたって話したでしょ」

 テーブルの上のクッキー缶をあけながら、当時のことを再び思い出そうとする。が、剣介以外の男性参加者で記憶にあるのは、妖怪食いしん坊のことだけだった。

「あいつ、冨士子さんのことが気に入って、第一希望にしてたらしいんだよ。当然、向こうから何も反応がなかったわけなんだけど、どうしても忘れられないんだってさ」

「あら、そうなの?」

「すごく気が合ったって。あれから何カ月もたって、今更言うのがあいつらしいよ」と剣介は笑う。「あいつ、昔から本当に女性に縁遠くって。余計なお世話と思いつつ、友人としてなんとかしてやりたい気持ちもまたあってさ」

 勝男は未婚で、もちろん子供もおらず、さらに両親はすでに鬼籍に入っていて一人っ子。身寄りはないが、父親が所有していたアパートを二棟相続しているので、資産には余裕がありそうだという。

「あのとおり、裏表もなくて、情に厚くて、気のいいやつなんだよ」と剣介は言って腕を組む。「妻が亡くなったとき、俺よりも泣いてたぐらいでさ。本当に、世界一いいやつだって言っても、ちっとも過言ではないよ」

 お金はある。アパートまである。しかも二棟も。さらに世界一いいやつという称号まで手にしている。しかし……前歯がない。

 アパート二棟に比べたら歯の三本なんて些末もいいところ。しかし、あのバスツアーのときに冨士子から何も反応がなかったということは、きっと冨士子も彼の見た目が意に添わなかったのだろう。

「わかるよ」と剣介は言った。「友加里さんの言いたいことがわかる。あいつには清潔感のかけらもない」

 あまりにはっきり言うので、友加里は思わずぷっと吹きだした。

「昔から無頓着の極みでさ。何度言ってもよくならない。俺なんかが何をしたってって、思ってるんだろうけど。でも、見た目のことは、今度こそ俺がなんとかする。だから、冨士子さんにもう一度会ってもらえるよう、説得してもらえないかなあ」

 一回り年下の男性に夢中になっているという現状を考えると、少し、いやかなり難しい気もした。友加里ははっきりと約束はせず「努力してみる」と言うにとどめておいた。

「ところで友加里さん、今日は夜も空いてるんでしょ?」剣介が言った。「夕食どう? よかったら俺が作るよ」

「ええ! うれしい」と友加里は顔の下で手を合わせた。

 それから二人で買い物に出かけた。帰宅するとすぐに剣介はキッチンに立った。献立はサーモンのレモンバターソテーと野菜のコンソメスープとアスパラのベーコン巻き。剣介が冷蔵庫の残り物がうまく活用できるようなものを考えてくれたのだ。

 料理はもちろんどれもおいしくて、剣介とのおしゃべりは楽しくて、食事が終わる頃、友加里は胸がいっぱいでまた泣いてしまいそうだった。だから「どうしてわたしなんかと付き合ってくれてるの?」と彼に尋ねた。もうこれまでに百回は聞いた質問。彼はいつもの通り「友加里さんの明るい笑顔が好きなんだよ」と答えてくれる。きっと千回でも一万回でも答えてくれそうに思える。

 胸のもやもやはやってこない。ただ、幸せで幸せで――そこで、ふと気づく。二人きりのときは、いつもただ幸せなのだ。けれど、誰かほかの人がいると……。

「そうだ」グラスに残ったワインを飲み干して、剣介が言う。「九月の最初の週末さ、軽井沢いかない? 仲間うちの一人が持ってる別荘に、毎年この時期集まってるんだよ」

 誰かほかの人がいると、なぜか彼は――その不安をぐっと呑みこんで「いいね、楽しみ」と笑顔を作って答えた。返ってきた彼の笑顔はいつもにもまして完璧で、不安は数秒でかき消される。

 

 左の手のひらに人を書いて、呑む。もう一度書いて、また呑む。ああ、全然落ち着かない。どうしよう。とりあえずもう一回……と左の手のひらをまた広げたところで、運転席に座る剣介が笑った。

「そんなに緊張することないって」

「だってえ」

 さっき軽井沢駅を通過し、緊張がピークに達していた。友加里はまた手のひらを広げかけたが、ぐっとこらえた。

「わたし、ヘマこかないかしら、不安でしょうがないわ」

 友加里はずっと、勝男をはじめとした地元の集まりなのだろうと思っていた。そうではなく、職場の同僚同士の集まりと知ったのは、つい三日前のことだった。剣介の勤め先は外資系の大手IT企業だ。下の娘の花梨いわく「そんなところ、よっぽどのエリートじゃないと入れないよ」らしい。

 緑豊かな別荘地を、剣介のレクサスは軽快に走り抜けていく。通りすぎる家々はどれも美しく豪華だった。そのとき、三階建てのひときわ大きな建物が見えてきた。友加里は「ねえあれ、芸能人の別荘じゃない?」と言いそうになったが、すんでのところでこらえた。昨晩の電話での花梨の言葉が脳裏をよぎったのだ――いつものおばさんムーブはやめてね。ママは余計なことを言わないで、ただニコニコしてるだけでいいんだから。

 何がおばさんムーブで何がそうでないのかはよくわからない(そういえば、手に人を書いて呑むのは、いつだか『おばさんくさいからやめて』と言われたっけ)。けれど、すぐに芸能人の話にむすびつけるのは、ちょっとおばさんくさい気がした。

「さあ、着いたよ」

 広大な駐車場には、すでに数台の車が止まっていた。いずれも高級車だ。友加里は車を降り、周囲を見回して、ただ茫然とため息をついた。

 コの字型に建てられた平屋の建物が、美しい木立の中に、溶け込むように存在している。広々としたリビングはガラス張りになっていて、中でくつろいでいる人々の姿が外から見えた。まるで建築雑誌のグラビアページの中に飛び込んでしまったかのよう。

 トランクから剣介が二人分の荷物を出してくれる。そのとき、玄関のドアが開き、かっぷくのいい中年男性が姿を現した。

「おーい、こっちこっち、いらっしゃい」

 おそらく別荘のオーナーだろう。彼は同僚のうちの一人で、車内で彼に関する華々しい経歴について説明を受けたが、今、友加里が覚えているのは、南アフリカ共和国生まれであることと、三度の結婚歴があることだけだった。

 彼のいるドアまでの長いスロープを歩いただけで、気疲れも重なってか息切れがした。室内に一歩入ると、そこはもはやハイクラスのホテルにしか思えなかった。何もかもすみずみまで磨き上げられ、高度なセンス(多分)で選ばれた家具や調度品が、完璧なバランス(多分)でしつらえられている。リビングまでの廊下を歩きながら、こんな家、掃除するのが大変そうだとしみったれたことを考えてしまう。

 シロクマが少なくとも三頭は寝転がれそうな巨大なソファーが目をひくリビングに、男性が二人、女性が四人、さらに乳児が一人と就学前と思われる子供が二人いた。オーナーを含め三組の男女が夫婦で、残る女性一人のみ単独参加と聞いている。男性はいずれも五十代半ば前後に見えた。女性は全員間違いなく三十五歳以下、生後半年ほどの乳児を抱いている母親は、おそらく二十代後半か半ば。

「こちらが川原友加里さん、職業は介護士をされてます」

 剣介がそう紹介してくれる。男性たちが「どうも」とか「はじめまして」と挨拶を返した。にこやかだったが、内心で「なんでこんなババアと付き合ってるんだ?」などと思われている気がしてしょうがなかった。女性たちは無反応だった。

 そしてそのとき、またしても服装を失敗したことに気づいた。軽井沢でも街から離れた森の中と聞いていたので、動きやすいほうがいいだろうとパーカーとジーパンを着てきた。しかし、女性たちはみな、ワンピースかスカート姿だった。乳児を抱いた女性は髪まで巻いている。

 思わず下を向く。その瞬間、「ああっ」と叫び出しそうになった。靴下の左足の親指部分に穴が開きかけていた。どうして? なんで? こんな日に限ってこんな靴下履いてきちゃうの? もういや、と地団駄を踏みたい気分だった。

 しかし、友加里の失敗はこれにとどまらなかった。

 三歳ほどの男児がそばにやってきたので、しゃがんで話しかけたら、いきなり泣かせてしまった。その後、乳児の母親(別荘のオーナーの妻らしかった)が夕食の支度をすると言いはじめたので手伝いを申し出たが、なぜかやんわりと拒否され、仕方なくベビーサークルの中に入れられていた乳児に話しかけたらまた泣かれた。女性たちの態度は妙に冷ややかだった。自分をのけ者にしたがっているようにも思えた。だから友加里は、剣介に助けを求めようと巨大ソファーの端に座った。男たちはワインを飲みながら、どうやら経済の話をしているようだった。

 そして友加里は花梨の忠告を忘れて会話に割り込み、いつもの的外れ発言をした。もちろん、的外れとわかって口にしたわけでは決してない。何度目かの発言のあと、全員からあからさまな苦笑いを返されていることに気づき、そう認めるよりほかなかったのだ。

 何よりショックだったのは、剣介の態度だった。円高と円安の違いがわからず「えーっと、どっちがどっちだっけ?」と助けを求めた友加里を見て、ふんと鼻で笑っただけで何も言わなかったのだ。

 ソファーには単独参加の女性もいた。彼女は男性たちからルミと呼ばれていて、彼らの同僚らしく、また、よくよく見たらさほど若くもなくて、少なくとも四十は過ぎていそうだった。スレンダーな体型に自信があるのか、体のラインがくっきり浮き出たニットワンピースを身に着け、腰までの黒髪を繰り返し手でなびかせていた。

 ルミはずっと立ったり歩いたりとせわしなかったが、いつの間にか剣介の隣に陣取っていた。そしてワインを注いだりつまみをとったりするたびに少しずつずれ、今や太ももと太ももが触れそうなほどに近づいていた。

 もちろん友加里は、ルミをぶん殴りたい気持ちでいっぱいだった。が、なんにも気づかないふりをして、ただ微笑み続けることしかできなかった。ルミが剣介の太ももに手を置いても、そのことに剣介が一切頓着しなくても、ルミが「剣ちゃんは頭のいい人がタイプって言ってなかった?」とか「わたし、高卒の人となんて三十年は会話してない」などと発言しても、どれだけ頰が痛くても、笑顔をキープし続けた。それしかとりえのない、おばさんだから。

 

(つづく)