翌日の日曜日は、勝男と山梨の日帰り温泉にいく約束をしていた。とても出かける気分ではなかったが、二度もドタキャンするのはさすがに気が引けた。

 朝九時過ぎ、勝男が自分のムーブで冨士子のアパートまで迎えにきてくれた。助手席に乗り込むと、勝男がニコニコしながら赤いバンダナにくるまれたものを冨士子に渡した。

「もし、朝ご飯まだだったら、どうぞ」

 バンダナをほどくと、ラップに包まれた手作りのおにぎりが二つ出てきた。昨晩なかなか寝付けず、結局寝坊して何も口にしていない。もちろん、腹ペコだ。

「わあ、うれしい」

「具はね、しゃけと梅干。素手で握ってないので、安心して召し上がってください。あとそこにあるお茶、好きなほう飲んでね」

 しばらくの間、その二つのころんと丸くかわいいおにぎりを見つめていた。どんなことを思いながら、今朝、これをにぎってくれたのだろう。思えば自分のためにおにぎりをにぎってくれた人なんて、母親と日出子以外に、今までいただろうか。

「今日は晴れてよかったですね」勝男が言う。「ここのところ雨が多かったのに、ついてますね」

「あの、この間、ドタキャンしてすみませんでした」

「いやいや、気にしないでください。もう全然、大丈夫ですから。あ、今日、お連れしようと思ってるところは、本当に景色がきれいで、素晴らしい温泉なんですよ。向こうは今、ちょうど紅葉の時期だし。気に入ってくれるといいなあ」

「よかったら今日のお代、わたしに持たせてください。いつもごちそうしてもら……」

「そんなの気にしない気にしない。あ、ところで、この間のアド街ック天国、見ました?」

「ああ!」冨士子は声をあげた。「うちの母親の出身地が特集されてた」

「そうですそうです。あ、この間、冨士子さんが話してたところだって思って」

 それから二人でアド街ック天国のことや、ほかのよく見るテレビ番組の話で盛り上がった。勝男とのおしゃべりは、やっぱりとても楽しくて、心がほっと安らぐ。渉と一緒にいるときの、胸が高鳴るような、ドキドキするような感覚は少しもないけれど。

 首都高速に乗ったあとも、それほど渋滞にまきこまれることもなく、出発から二時間程度で大月ジャンクション付近まできていた。周囲の山々は秋の色に染まり、冨士子の気持ちもようやくうきうきと弾んできた。そのとき、スマホに電話がかかってきた。

「あ、どうぞ出てください」マツコの知らない世界のお気に入りの回について熱弁していた勝男が、話を中断して言った。

「うーん。でも、知らない番号だな、詐欺電話かな」

 しかし、お弁当みうらの社員や取引先かもしれなかった。日出子と連絡がつかないときなど、まれに冨士子のほうにかかってくることがある。

「面倒だけど、出るか。はい、もしも……」

「ちょっと、家政婦さん!」

 いきなりどやしつけられた。渉の母親の声だ。

「うちの洗濯機が壊れたの。あのね、スイッチを入れると、ジャーって中に水が入るじゃない。でもね、なんていうの、横にぴゃーって水が出ていっちゃうの、何回やっても。いますぐ直しに来てちょうだいよ」

「いや、あの……」

 なぜ、母親が自分の電話番号を知っているのか。そんなこと、考えるまでもなかった。渉の仕業だ。

「明日、習い事に着ていきたい服が洗えなくて、困ってるの。できるだけ早くお願いね」

「すみません、ほかの方に頼んでいただけないですか。それか、コインランドリーにいかれたら、どうですか」

「わたし、そういうのよくわからないのよ。あなたが来てやってちょうだいよ」

「都内に戻るのに、最低でも二時間はかかる場所にいるんです」

「二時間でも五時間でも今日中に来てくれたらいいから。じゃあ、お願い、待ってるわね」

 一方的に切られた。勝男がハンドルを握りながら、心配そうにこちらをちらちら見ている。

「あの、すみません、相手の方の声が大きくて、洗濯機が壊れたって聞こえたんだけど……ご実家の? あ、でもご両親は……」

「なんでもありません。気にしないで」

 冨士子は鼻からむふーと息を吐きだし、スマホをバッグの中にしまった。頭が少し痛い。動悸もする。色づく山々に目を移しても、もう気分は晴れなかった。モノクロにさえ見える。

 そのとき、チロチロチロリーンとLINEの着信音が鳴った。

 

 ねえ、母ちゃん怒ってるんだけど。いけないの? 頼むよ。今晩、酒おごるからさ。

 

 今晩? 会えるということ?

「さっきの方ですか? ご家族? お姉さんとか?」

「あの、家族じゃないんですけど」冨士子は言った。「あのまあ、親戚みたいな、親戚でもないけど、親戚っぽい関係の家の、その、洗濯機が壊れたみたいで。あの、それで、そこの人が、ちょっと認知症なんですよね。で、今日どうしても直してほしいって、パニックになってて。一人暮らしで、ほかに様子を見に行ける人はいなくって。どうしたら……」

「じゃあ、直してあげなきゃ。俺やります。行きましょう」

 冨士子は何も言わなかった。わたしがお願いしたんじゃない。勝男が勝手にやると言ったのだ。そう、自分の中で言い訳を成立させるために、黙っていた。

「日帰り温泉なんて、いつでもいけますし。こんなことでしか、冨士子さんのお役にたてませんから、俺なんて。とにかく、急いで東京に戻りましょう」

 一旦、中央自動車を降り、再び乗り直して都内へUターンした。いきよりも道はすいていて、首都高の板橋本町出口までは一時間半程度だった。その道中も勝男はずっと変わらず、明るくいろいろと話しかけてくれたが、冨士子はうわの空だった。自分でも、自分のやっていることがよくわからなかった。正しくないことをしている、それだけは理解していた。

 赤羽へ行く前に、志村坂上にある勝男の事務所により、必要になりそうな道具を車に積み込んだ。マンションには二時過ぎに到着した。

 出迎えたのは渉だった。

「なんだ、冨士子さん、来るなら来るって言ってよ。冨士子さんが来るなら、俺必要なかったじゃん」

 いつもの渉より、どことなくおしゃれな感じに見えた。髪もワックスか何かで整えている。その理由は、すぐにわかった。

 リビングに、知らない女がいた。母親と一緒に、恋愛リアリティ番組を見ていた。

「あら、家政婦さん、ごくろうさま。渉じゃどうにもならないみたいだから、来てくれてよかったわ」

「なんかすごい家電に強そうなおじさんが来てくれたよ。今、見てくれてる」

 渉がへらへらしながら言った。女は表情のない顔で、冨士子をちらっと見てすぐ視線をそらした。年齢は四十前後といったところだろうか。細身で、地味な雰囲気の女だ。婚活アプリで出会った相手といった感じがした。

「じゃあ、俺らはもういこうか」

 そう渉に声をかけられ、女は立ち上がる。無表情のまま、冨士子のほうにぺこりと会釈した。渉と一緒に玄関のほうへ歩いていく。冨士子もそれに続いた。

 そのとき、すでに洗濯機の点検をはじめていた勝男が、ひょこっと廊下に出てきた。渉を見ていつものなつっこい笑顔になって「どうも、どうも」とあいさつをする。

「洗濯機は大丈夫そうですよ。大したことなかったです」

「あ、そっすか」

「ええ、あの、わたくしは冨士子さんのお友達で、石田と言います。修理業者やってます」

「ハア……」

「そちらは冨士子さんとは、一体どういう関係で?」

 冨士子は驚いて目を見開いた。なぜ、そんなことを、聞くの?

 渉は戸惑っているような、怒っているような口調で「関係っていうか、ベつに、ただの家政婦さんなんで」と早口で言うと、そのままこちらには一瞥もくれず、スニーカーをつっかけながらドアをあけた。そして、パンプスのバックルをとめるのに戸惑っている女の腕をひっぱって外に出た。ドアが閉じられた後も、女の「待って、待って」という声がかすかに聞こえた。

「洗濯機はもう大丈夫」と勝男はまた言った。「たぶん、洗濯機自体を動かしたことがあったんじゃないかな。その拍子に、蛇口の部品が欠けたんだと思う。新しいのと取り換えておきました」

「あ」と冨士子は声をあげた。「昨日、お掃除に来たときに……あれ、動かしたのって先週だっけ」

「お掃除に来られてるんですか?」

 冨士子は口をつぐんだ。勝男の眉毛が少し下がる。

「……あちらに、洗濯機の持ち主がいらっしゃる?」勝男がリビングのほうをさして言った。

「ええ」

「じゃあ、ご挨拶だけ」

 しかし、渉の母親は電話中だった。相手は例の恋愛リアリティ番組視聴仲間のようだ。テレビから流れているのはこの間とは違う番組だったが、「あらやだ、こんな男のどこがいいの? 前回、アヤネを誘惑してたじゃない」とか「リサはいつもの通りのズベ公ね」などと相変わらず出演者たちのことを完璧に把握しているらしい。勝男とめくばせをして、このまま挨拶はせず、出ることにした。

 荷物を持って、無言のまま勝男はマンションの廊下を歩いていく。何も言わないのが、妙に思えた。いつもの勝男だったら、何かしら言ってくれるような気がした。勝男もエレベーターは薄気味悪いと思ったのか、いきも帰りも階段を使った。二階の途中まで来たところで、ふいに足をとめた。

「翼さんから、聞いてるんです」

「え? 何?」

「翼さんが、冨士子さんが、その……若い男に騙されてるんじゃないかって」

 何を言われているのか、よくわからなかった。なんで今、翼が出てくるのか。

「翼さんが、見ちゃったそうなんです。冨士子さんがスマホで、チャットなんとかってやつでその、何年も前に貸した大金を、回収できるかどうか、みたいなことを調べていたって」

 確かに調べた。帝国ホテルのラウンジで、勝男に会った日だ。三人でお茶しているとき、友加里が今住んでいるマンションを売るとか売らないとか、その後の二人の財産分与がどうのなどと話しはじめたので、急に自分の財政状況が不安になって、おしゃべりの合間にチャットGPTに質問したのだ。

 ひょっとしたら、画面をそのままにしてスマホを置いて、トイレにでもいったのかもしれない。あまたある自分の悪い癖の一つだった。

「俺、ピンときました。あの男に金貸してるんじゃないですか? ひょっとして返してもらうために、掃除しに来てるんですか? 俺、結構そのあたりの勘が……」

「ほっといてください!」

 驚いた。自分で、自分の大声に。

「だから何? あなたになんの関係があるの?」

「あ、いや……」

「わたしに説教でもする気?」

「そんなつもりは……」

「もういいです!」

 階段を一人かけおりる。取り乱しながらも、頭のどこかは冷静だった。自分は同じことをしているのだと冨士子はわかっていた。渉や、あの調理担当の男と。彼らを思ってやったことを、ないがしろにされた。それと同じことを、勝男にやっているのだ。自分を好いている格下の相手だから。そんな相手には何をしてもいいと思っているから。わかっていた。ただ、その罪悪感を受け止めきれず、逃げているだけ。

 マンションを出て、今日も薄暗いエントランスを振り返る。空は雲一つなく晴れわたり、のんきな日差しが外の通りにさしている。そのぶん、エントランスの不気味さは一層増していた。勝男はなかなか姿を現さなかった。これが最後のチャンスかもしれなかった。彼が現れたら、心から誤って許しをこうて……。

 そんなことをしても、余計に勝男の優しさを貶めるだけ。勝男の気持ちにはこたえられない。そしてこれ以上の罪悪感を抱え込めるほど、わたしは強くない。エントランスに背を向け、ぽかぽかとした日曜の陽気の中を、冨士子はうつむいて歩き出した。

 

(つづく)