大谷資料館の駐車場でまたくじ引きが行われ、ついに勝男と同じグループになった。
しかし、ガイドの案内で地下の採掘場跡に入ると、参加者たちはグループ分けを無視して好きなように行動しはじめた。男女とも互いに積極的に声をかけあい、ツーショットが続々とできあがっていく。女性だけでかたまってきゃっきゃと楽しそうにしている人たちもいれば、所在なさげに一人でうろついている渡哲也もいた。
冨士子はどうするか考える間もなく、気づいたらヒロとポン太に左右をはさまれていた。そのほかにも数名の男性が周辺をうろちょろしていたが、すぐにあきらめたように散っていった。しばらく三人で「すごいですねえ」「意外と冷えますね」「上着もってこればよかったですねえ」などとどうでもいいことこの上ないことを話しながら採掘場跡内を歩いていたが、やがて会話が途絶えた。
「あの、冨士子さん」ふいに、ヒロが改まったように口を開いた。「こんなところで石なんて見てもお互いのこと何もわからないし、よかったら併設のカフェいきませんか? ジェラートでもなんでもごちそうしますよ」
冨士子は逡巡した。ポン太と三人で、という意味ではないのは明らかだ。ポン太もリストラ宣告を待つサラリーマンみたいな目でこちらを見ている。
しかし、ジェラートという言葉に強く心を引き付けられたのも、また事実。さっきの中華料理屋で、実はほとんどまともに食べられていなかった。自分の取り皿にとっておいたエビチリや焼きそばを、「いらないなら食べるね」と勝手にポン太にとられたせいだ。ヒロの話を真面目に聞くふりをするのに忙しく、食べるタイミングがなかなかつかめなかっただけで、残していたわけでは決してなかった。おまけに餃子もみんなより少ない分しか食べていない気がしていた。それもポン太の仕業である可能性が高い。
「……カフェ、いいですね。いきましょう」
冨士子がそう言うと、ヒロは満足げに一つ頷いて、さっさと出口に向かって歩き出した。ヒロがポン太のことを完全無視しているので、断腸の思いでそれに倣った。人の食べ物を盗み食いするような男に、優しくする必要もなかろうと心の中で言い訳をしながら。
カフェは資料館から歩いて三分ほどのところにあった。自分たち以外にも団体客が何組か来ていたのもあり、店内はこみあっていて席はほとんど埋まっていたが、ヒロが大きなテーブル席の端に、二席あいているのをみつけてくれた。
「注文、何にする?」レジカウンターの前でヒロが聞いた。「僕が会計しておくから、先に座っててよ」
「えっと……」
カウンターの前に写真付きでメニューが掲示されている。冨士子の目に真っ先に飛び込んできたのは、大きなソーセージがサンドされたホットドッグだった。シンプルなプレーンも捨てがたいが、とくにチリコンカン&チェダーというやつにうなりたいほど心惹かれた。
「ホット……あっ、えっと、ジェラートにします、ミルクティー味がいいかな」
「飲み物は?」
「キャラメ……あっ、コ、コーヒー、アイスで」
「了解、座ってて」
礼を言ってそそくさと先に席につく。それだけでなんだがぐったりと疲れて、思わず両手で頰杖をついた。見栄を張らずにホットドックを注文すべきだったろうか。でも、食い意地のはったおばさんと思われるかもしれない。そんなことをうじうじ考えていると、なんともおいしそうな匂いが背後から漂ってきて思わず振り返った。背中合わせのカウンター席に、勝男と白ワンピースの女性がいた。さらに冨士子は気づいた、気づいてしまった。
白ワンピースの女性が、ホットドックを食べていることを。しかも、あのたっぷりの赤い豆と鮮やかなチーズソース、チリコンカン&チェダーで間違いない。
彼女も同じく、先の中華料理屋で食べ損ねたのだろうか。ポン太のような食い意地のはったじいさんがそっちのグループにもいたのか。いずれにしても彼女は、勝男の前でホットドックを食べることをためらわなかったのだ。しかもあんなにも真っ白なワンピースを着ているのに。よっぽど食べたかったのか。
「おまたせしました」
ヒロがトレーをもって戻ってきた。隣に座りながら、冨士子のほうに近づいて耳打ちするように言った。
「うしろの人、同じツアーの人たちだよ。さっき餃子食べたばっかりなのに、ホットドックなんか食べてる。食い意地はったおばさんだね」
冨士子はふふふと愛想笑いをした。ヒロは満足げに頷くと、アイスコーヒーのストローをくるくるまわしながら「マヤ遺跡は、中南米をバックパッカー旅行したときに見に行ったんですよ、若かりし頃にね」とまた得意げに話しはじめた。
冨士子は真剣に聞いているふりをしつつ、背後の二人の会話に耳をそばだてた。勝男たちはマツコの知らない世界の冷凍食品の世界の回について語り合っていた。マツコの知らない世界のことは、勝男と会うたびに話題にのぼっていたが、その回の話はまだしたことがなかった。白ワンピースの女性が「冷凍食品って手抜きのお弁当おかずって思ってたけど、あれ見てイメージかわりました」と話すのを、もどかしい思いで聞く。いや、そんなさ、ざっくりした感想じゃなくて、もっといろいろあるでしょ? 一つでも買って食べてみたの? わたしなんてテーブルマークの丹念仕込み本場さぬきうどんを、もう二十回は食べたんだから。あのうどんのすばらしさについてだけで、三十分は語れるわ。
「カンクンって聞いたことあります? メキシコのビーチなんですけど、もうそれはそれは、とんでもなくきれいな海で。沖縄なんかもうバカバカしくていけないですよ」
「へえ、そうなんですね」
ふいに、背後の二人の会話が途絶えた。ほらね、と冨士子は思う。あなた、実はマツコの知らない世界、ろくに見てないんでしょ。だから話が続かないのね。わたしも勝男も毎週かかさず視聴してるし、気に入った回はティーバーの追っかけ再生でも見てるし、だから、わたしと勝男だったら、何時間でも――
「……あの、勝男さん。つかぬことをお伺いしますけど」女性が改まった口調で言った。「左手、どうされたんですか?」
勝男は無反応だった。ケガでもしたのだろうか。
少し間をあけて、ハハハッといつもの笑い声が聞こえた。「よく気づきましたね。実はちょっと、麻痺してるんです。ちゃんと動かないの、ほら」
「いつからですか?」
「二十歳ぐらいから、ずっと」
「えっ」と女性は言葉を詰まらせた。冨士子も「うそ!」と声に出しそうになったが、すんでのところでこらえた。
「昔ね、交通事故にあって、軽い脳出血を起こしたんですよ。治療はうまくいったけど、少しだけ障害が残っちゃって。ね? こんな感じ」
どんな感じなのか。振り返って確かめたい思いをぐっとこらえる。
「大丈夫なんですか?」
「ぜーんぜん、なんの支障もないです。運転できるし、仕事も問題なし。だけど、よく見るとちょっと変でしょ? 昔は、これがすごくコンプレックスでね。気づかれないように、気づかれないようにってしてたら、さりげなく隠すのがうまくなっちゃった。レミさん、鋭いですね。初対面で指摘されたのは、はじめてですよ」
「ぶしつけで、すみません」
「いえいえ、人によっては、何年たっても気づかないんですよ、ハハハッ」
思わず、レモンイエローのワンピースのスカート部分をぎゅっとつかんだ。何度も会ったのに、全然、これっぽっちも気づいていなかった。
「女性と縁がないのも、これのせいなんじゃないかって思ってたんですよね、ずっと」そう静かに言って、勝男はまた少し黙った。「……俺みたいなやつ、誰にも好きになってもらえない、何をやってもダメだって気持ちがずっとあって。だから身だしなみも適当だったし、女性との出会いにも消極的で。でもね、今考えたら、手の麻痺なんて関係ないんですよ。ただただ、自分が臆病で弱虫なだけで。挑戦して失敗するのが怖いから、だったらいっそ、このまま一人でいたほうがマシだって、逃げてただけなんです」
無意識のうちに、ワンピースがちぎれそうなほど強くつかんでいた――わたしと、同じじゃない。
「そんな後ろ向きな考え方だから、健康にもあんまり気をつかってなくてね。酒もたばこも好きにやってたら、数年前にまた体を壊しちゃいました。だけどこのままじゃダメだって、そのときにようやく、ようやく悟ったというか。俺は……幸せになりたいって。いや、幸せになることから逃げるのをやめたいっていうほうが、正しいかな。今どき、恋愛や結婚だけが幸せじゃないと十分わかってますけどね。でも自分は、その幸せを別の誰かと分かち合いたいんです」
やっぱり、わたしと同じじゃない!
「五十も過ぎた男がこんなこと言って、気持ち悪いですよね」
「全然!」
そう発したのは、冨士子だった。目の前でヒロがぎょっとしたように口をつぐんだ。
「え、全然ってどういう意味? 俺が太ってるって言いたいの?」
「あ、ごめんなさい。えっと……」
なんの話をしていたのか、皆目わからない。みるみるうちにヒロの白目が赤く充血していく。
「あの、えっと……言葉選びを間違えました。ごめんなさい」
ちっと舌打ちの音が聞こえた。しかし、気がしただけで気のせいかもしれなかった。そのとき背後の二人が席を立つ気配がした。きっと今の「全然!」でこちらの存在に気づかれたのだ。そう思って横目で二人をうかがうと、冨士子のほうを気に留める様子は一切なかった。二人は笑い合いながら店の出口に向かって去っていった。