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 小学三年生のとき、都内のデパート主催の子供向け将棋大会で、準優勝した。決勝の相手は次元の違う格上で、力の差を見せつけられて大敗した。

 子供向けとはいえ全国から腕自慢が集まる著名な大会で、新聞などのメディア取材もあった。女子の参加は当時かなり珍しく、しかも準優勝したとあって、大会後は友加里のもとにたくさんの記者やカメラマンが殺到して取り囲まれた。

 カメラのフラッシュが目の前でいくつもはじけて、このまま死ぬかもしれないと思った。記者たちが次々と質問を投げつけてきた。でも、友加里の頭は真っ白だった。負けた。優勝できなかった。その悔しさで、死んでしまいそうだったのだ。

 翌日、いくつかの新聞で自分のことがとりあげられた。優勝者より大きな写真をのせてくれているところもあった。学校でもどこでも、人々の注目の的。けれどどれもこれも、友加里にとってはゴミみたいにどうでもいいことだった。敗着はなんだったのか。どこで何を間違えたのか。頭の中で決勝戦の盤面が何度も組みあがっては、また崩れる。起きているときも夢の中でも、延々と一人感想戦をやっていた。

 大会から、一週間ほどたった頃。通っている将棋教室の先生がわざわざ友加里宅にやってきた。

 友加里の才能を伸ばすために、都内の教室へ移籍してはどうかと両親に打診するためだった。先生は高齢かつ病気がちで、近々教室をたたむ予定があったのだ。

 しかし友加里の父は、話を二分も聞かなかった。先生を玄関に立たせたままフンと鼻で笑い、いきなり「あんた、バカですか?」と言ったのだ。

「女がプロになれるわけでもないのに、なーにを言ってるんだか」

 続けてそう言い、そこで話は終わりとばかりに、挨拶もなく自分の部屋に引っ込んでしまった。

 そのあと、先生は少しずつ友加里によそよそしくなった。翌年の大会は予選落ちした。三年生のときには余裕で勝てた相手に、四年生になると全く歯が立たなくなったのだ。五年生のとき、陸上部との両立が難しくなって教室をやめた。中学に入る頃には、駒に触ることさえほとんどなくなった。

 自分でも、よくわからなかった。あの頃、将棋のことをどう思っていたのか。楽しくなくなったのか、飽きたのか。当時の自分の心には、濃い霧がかかっている。父には「女は成長とともに弱くなるからしょうがない」と言われ、なんとなくそれを友加里も信じてはいた。

「ねえ、友加里さん、どうするのってば!」

 はっと我に返る。右隣で首まで砂に埋まった冨士子がまた「友加里さん!」と声をあげた。

「返事してよ! もしかして死んでるの?」

「生きてます」

 少し先に、午後の穏やかな波打ち際、手前には砂に埋もれた自分の体が見える。頭上には、小さなパラソル。

「砂、思ってたより熱いけど、なかなか気持ちがいいね」と友加里は言った。「家にサウナ作る人いるけど、わたしなら砂蒸し部屋作るわ」

「ねえ、だから友加里さんは、どうするの?」

「え? なんの話?」

「このあとアイス屋さんにいって、何味のジェラートを食べるかっていうしょうもない話」と同じく左隣で砂に埋もれて顔だけ出している翼が言った。「でもわたしはアイスより、ビールが飲みたい。ていうか、もういい時間だしそろそろ出ましょう」

 翼の言葉を合図にモゾモゾとゾンビのように砂浜からはい出し、大浴場で体にまとわりついた砂と汗を流した。着替えを済ませて少し休憩したあと、砂蒸し会館の目の前にあるアイスクリーム屋に、みんなでとことこ歩いて向かった。

 店の前のベンチがあいていた。それぞれ好きなアイスクリームを注文し、インコみたいに四人でくっついて座って食べた。友加里は妙に気分が高まって、二十年ぶりぐらいにアイスクリームをダブルで注文してしまった。ミントチョコレートのさっぱりとした甘さと、巨峰シャーベットのさわやかな風味が、熱い砂でほてった体をいやしてくれた。

 店の前のアスファルトに、午後の穏やかな陽がさしている。昼下がりに友達と並んでアイスを食べるなんて、まるで中学生にでも戻ったみたい、と思う。

「ねえ、友加里さん、なんでさっきからニヤニヤしながらアイス食べてるの」

 翼にそう聞かれても、答えられなかった。よくわからないけれど、なんだか妙におかしくて仕方がなかったのだ。

 

 宿には午後四時過ぎに到着した。夕食は地元の食材をふんだんに使用したイタリアンだった。食事のあとは檜風呂がついている冨士子と勝男の部屋に集まって飲み直し、夜十時過ぎ、四人でぞろぞろと大浴場へ向かい(みんな酔っ払いすぎて、風呂付の部屋だったことをすっかり忘れていた)、寝る前のひと風呂を浴びた。

 友加里はさっと湯船を出て、一足先に部屋に戻った。昼間の砂蒸しが効きすぎたのか、ワインを飲みすぎたのか、湯につかってすぐにのぼせてしまったのだ。

 友加里と翼の部屋は、こぢんまりとした和洋室だった。窓辺の椅子に座り、冷え冷えのミネラルウォーターを飲んで、思わずふうと大きく息をつく。カーテンをあけてみたが、真っ暗で海も何もわからなかった。

 でも、耳を澄ませば、かすかに波の音が聞こえる気もする。目を閉じて、昼間、特急たまて箱から見たスカイブルーの鹿児島湾を思い浮かべる。この指宿旅行に誘われたとき、正直なところ、ちょっと面倒だなと思った。ここ最近、年のせいか旅行にいっても疲れるばかりなのだ。帰ってきた翌日は丸一日寝込んでしまうこともざらで、長距離移動自体に辟易としていた。

 でも、断らなくて本当によかった。今回の旅は何から何まで楽しくて仕方がない。日中からずっと笑い続けて、今もまだ少し頰が痛いぐらいだった。写真も何枚とったかわからない。なぜだろう、と考えるまでもなく、答えは出ている。

 剣介が、いないから。

 旅行そのものがつらいんじゃない。長距離の移動も関係ない。長時間、剣介を気づかい続けることに、ほとほと疲れ果ててしまうのだ。

 普段の彼はとても優しい。つねに友加里の体調を慮り、大抵のことは友加里を優先してくれる。でもその優しさが、ちょっとしたことですっと隠れて、違う一面があらわれる。そのちょっとしたことというのは、おおむね友加里に起因することだった。友加里のちょっとした失言(花梨が東大卒と口をすべらしたり)、ちょっとしたうっかり(買い物にいって必要なものだけ買い忘れたり、財布や鍵をなくしたとパニックになったり)。要するに単なるドジ。ドジを踏んだ途端、彼の何かが変わる。言動、顔つき、態度。変わらないときもあって、そんなときは許されたことに心底ほっとする。いずれにせよドジを踏まないよう、常に気をつかっていなければならない。普段のデートでもそうだが、旅行となるとなおさらだった。

 気づけば、ずっと気をつかっている。

 剣介に出会う前から。

 死んだ夫、父親。男たちだけじゃない。子供のときから、他人の顔色を窺ってばかりだった。今の職場でも、常に誰かの先回り。娘たちに対してだって、𠮟られたりバカにされたりしないよういつもひやひやしている。

 慣れっこといえば、そうだ。彼と一緒になっても、自分ならきっとそれなりにやっていけるだろうと思う。もう少し年月を重ねれば、彼の不機嫌の先回りももっとうまくなるだろうし、愚痴を聞いてくれる友達だって今はいる。あの銀色のバスで出会ったときの剣介が、今でも友加里は好きだった。この年であんなふうにときめくことがあるなんて、想像もしていなかった。

 ――だけど、あの飛車。

 前に押し出すのではなく、一歩引いていれば。そうするべきだった。きっと負けはしなかった。いや、必ず勝てた。なぜあんなことをしてしまったのか。うちの利用者相手ならともかく、「俺に勝てたら」なんて偉そうにふかしていた同世代の男相手に、あんなぬるい手を。

 そのとき、部屋のドアが開いた。中に入ってきたのは翼ではなく、冨士子だった。

「どうしたの!」冨士子はどたどたと部屋にかけこんできた。「ねえ、大丈夫?」

 友加里は無意識のうちに、床の上で頭を抱えてうずくまっていた。子供の頃、負けるたびに自室のベッドで同じようにうずくまり、頭の中でひたすら一人感想戦をやっていたのだ。

「なんでもない、大丈夫」

 顔をあげると、部屋の入り口に翼と勝男もいた。心配そうにこちらを見ている。

「本当に大丈夫。もう寝ましょう」

「あの、その前に」と勝男が言う。「あの、剣介が、どうしても、友加里さんに見てほしいものがあるって」

「見てほしいもの?」

「ここじゃ見られない。ちょっと部屋、出られる?」

「まさか、指宿に来てるの?」

 勝男は無言だった。今、剣介と顔を合わせるのはとても気が引ける。もし本当に彼が姿をあらわしたら、走って逃げよう。そんなことを考えつつ、友加里は部屋を出て、冨士子と翼とともに勝男のあとをついていった。勝男はスマホをちらちら見ながら館内を歩きまわり、やがて最上階の廊下の途中にある大きな窓の前で立ち止まった。

「ここなら、見れるかな」

 勝男はまたスマホを操作した。剣介とLINEのやりとりをしているようだった。

「あ、あれだ。友加里さん、見て」

 そう言って、窓の外を指さした。部屋の窓とほぼ反対を向いており、のっぺりとした夜の県道沿いの風景がひろがっているだけだった。

「あ!」と翼が声をあげた。「もしかして、あれ?」

「どれ?」

「あれ、あそこで点滅してるやつ」

 確かに一カ所、点滅している光がある。県道の脇に停められている車のブレーキランプのようだ。ピカ、ピカ、ピカ、ピカ、ピカと五回連続で光るとやんだ。しばらくするとまた、ピカ、ピカ、ピカ、ピカ、ピカ……。

「え、もしかして」と口にしたのは、冨士子だった。「もしかして、あれやってるの? あのなんだっけ、そうだ、アイシテ……」

「やめて!」翼がまた声をあげた。「まさか、信じられない。口にするのもおぞましいわ。そんな古臭くて手あかにまみれたことを本気でやる男が現代に、この、平成も遠く過ぎ去った令和の時代に、実在するというの?」

「そんなわけない」と友加里は言った。「そんなダサい男も、あれに感動して何もかも許しちゃうまぬけ女も、もし実在するとしたら八十年代に死んだまま成仏できない亡霊よ、亡霊アベックよ……はっ、だから、あの五文字はひょっとして……」

 窓の向こうで、レクサスのブレーキランプはまだ五回の点滅を繰り返している。友加里は合掌し、点滅のリズムに合わせながら「ナ、ン、マ、イ、ダ」と言った。翼と冨士子の二人も同じように手を合わせて「ナ、ン、マ、イ、ダ」と唱えた。

「ハア。せっかくの夜にしょうもないもの見ちゃったわね」友加里は言った。「さ、もう部屋に戻りましょう」

 そうね、そうねと言い合いながら、三人並んで歩き出す。しばらくして、なんとなく三人で目くばせしあうと、同時にぷーっと噴き出し、それから手を叩いての大笑いになった。

「やだー」「なにあれー」「ナンマイダってちょっと、笑える」「ほんと、友加里さん座布団百枚よ」などと言いながら、三人で肩やら腕やら小突きあう。背後から「こらこら」と勝男がかけよってきた。

「静かに、迷惑だよ」

「アハハ、あら、いけない」と冨士子が舌を出す。「静粛に、静粛にね」

 それでも、三人は歩きながらいつまでも顔を見合わせてくすくす笑っていた。

 部屋に戻ると、いつのまにか日付がかわっていた。急いで寝支度してベッドに入ったが、翼と二人でいつまでもおしゃべり(しかも恋バナ)してしまい、なかなか寝つけなかった。

 

(つづく)