いつものように六時過ぎぐらいに友加里宅を辞した。翼とも別れ、自転車にまたがり、とけるように燃え尽きていく西日に向かって、ひたすらに冨士子はペダルをこぐ。家を出る間際、二人とかわした会話が脳裏をよぎる。冨士子は思い切って更年期の症状(もちろん、うるおいがどうとかその手の話ではなく)があるかどうか、二人に尋ねてみた。わかる、わかるよ、と自分にも言ってほしかったのだ。

 しかし返ってきたのは、期待するものとは正反対のものだった。

「わたしはもう年齢的には終わりかけなんだと思うんだけど」と友加里は言った。「これが今の今まで、何にもなかったのよねえ。遺伝かしら」

「わたしは三十代後半から超低用量ピル飲んでるおかげか、婦人科系の悩みってほぼゼロなの」

 そのあと、二人はそろって冨士子になにか体調のことで困りごとがあるのかと心配そうに尋ねた。二人とも、どことなく申し訳なさそうな顔をしていることに気づいて、冨士子はなぜか傷ついたような心持ちになった。

 わかってる。わたし、わかってる、春の夜のぬるい風を頰に感じながら、一人うなずく。二人は決して、わたしを見下しているわけでも、仲間外れにしたいわけでもない。もしそうだとしたら、そういう悪意は、なんとなく伝わるものだ。翼は本当に性生活について不安を抱えているのだろう。自分への当てつけであんな話をしたんじゃない、決して。

 わかってる。

 わかってるけど。

 うらやんでしまう。ねたんでしまう。

 これまで生きてきて、ずっとこれの繰り返し。中学生のときも、高校生のときも、大人になっても、友達の話を聞くだけの係。彼氏ができた。プロポーズされた。妊娠した。自分には決して、何もおこらない。男の人から嫌がらせやいじわるをされることはあっても、優しくしてもらったり、まして恋愛の対象になることなんて、全くなかった。

 ずっとそんな人生。だから、お弁当みうらを継いで二年目、店にたびたびやってきては「冨士ちゃん、元気?」「冨士ちゃん、その髪型いいね?」「冨士ちゃん、昨日ののり弁、おいしかったよ」と声をかけてくれた元夫の辰哉が、当時は神様の使いのように見えた。はじめてデートに誘われたのは、しりあって半年ほどたってから。二人で井の頭公園のボートに乗った。あのときの天にものぼるような気持ちは、今でも忘れられない。この人を逃したら一生後悔するどころか、死んだあともその後悔を引きずって成仏できず、井の頭公園の地縛霊になるだろうと思った。

 その頃の辰哉は、近所のパチンコ店の店員だった。冨士子が二十六歳、辰哉が二十七歳のときに結婚してすぐ、仕事をやめてパチンコ店のただの常連客になった。借金はおそらくずいぶん前からあったはずだが、最初に冨士子が気づいたのは、結婚して二カ月目に二十万円で買った婚約指輪を質に入れられたときだった。

 それから十年近くも別れずに耐えたのは、単に弁当屋の仕事があまりに忙しかったせいだ。休みなく働いていて、離婚どころじゃなかった。結局、最後は辰哉に女ができて別れることになった。相手の女はあるときわざわざ弁当屋まで一人でやってきて、「あなたみたいな人といるから彼はダメになる。ギャンブル依存症もわたしが治してみせます」と堂々と宣言した。冨士子は店先の商品棚におにぎりを並べる手をとめることなく、「勝手にどうぞ」とだけ返した。その日、家に帰ったら辰哉は姿を消していて、後日、本当に勝手に離婚届が出されていた。

 結局、働いて、働いて、働くだけで二十代と三十代が終わった。離婚のことも含めて、あまり記憶がない。それでもいいとずっと思えていたのは、日出子がそばにいたからだ。

 実際は二つ上の姉だが、双子に間違われるぐらい冨士子と容姿がそっくりな日出子は、やはり男性と全く縁がなかった。離婚後、すでに両親ともに亡くなっていたので、再び姉妹一緒に暮らしはじめた。朝から晩まで常に一緒にいるのに、ケンカはほとんどしない。平日の夜は冨士子がつくったご飯を食べながらお笑い番組を見てバカ笑いして、休みの日には二人でスーパー銭湯かパチンコ店にいき、ときどきは一緒に推しているK―POPアイドルのライブにでかけて、思いっきりはしゃぐ。

 他人から見たら、自分たちはみじめなおばさん二人組なんだろうとときどき思っていた。だらしなく太って、頭の白髪もほったらかしで、男っ気は一切なくて、子供もいなくて。しかもアイドルの推し活までしちゃって、典型的な痛いおばさん。まるで誰かが絵に描いたみたい。

 望んだ人生かといえば全くそうじゃない。結婚生活をおろそかにはしてしまったけれど、それは相手がろくでなしの辰哉だったからだ。本当は子供もほしかったし、ウエディングドレスだって着てみたかった。孫に囲まれて死ぬのが夢だった。日出子だって同じだろう。きっと恋愛したかったはずだし、一度は結婚できた冨士子を内心うらやんでいたに違いなかった。

 みじめで、誰かがねたましくて、むなしくて、悲しくて。けれどそんな思いも、二人で好きなお笑い芸人の話なんかをしてげらげら笑っていると、すーっと消えていく。これでいいんだという気持ちになる。二人で一緒に年をとり、最後は同じ施設に入ってともに死を迎える。それでいい。世の中には本当に一人ぼっちの人だって少なくないのだ。十分にわたしは恵まれている。そう、思っていた。

 ……はずなのに。一年前、日出子がまるで女優みたいな電撃結婚をした。

 相手は高校の同級生だった。同窓会で出会って意気投合して、二週間後には婚姻届けを提出していた。すぐに別れるはずだと、弁当屋の従業員も常連客も口々に言った。二人のかかりつけ医まで「もって半年でしょ」と鼻で笑った。しかし、一年たっても夫妻はバカみたいに仲睦まじく、休日のたびにあちこち出かけては、ソフトクリームを食べさせ合ったり、海辺ではしゃぎ合ったりしている動画をLINEで冨士子に送りつけてくる。日出子はすっかり変わってしまった。白髪をこまめに染め、キャベツダイエットで五キロ瘦せ、そして。

「結婚してから、更年期の症状が落ち着いた」

 この間、オフィスで会ったときにそう言われて、目の前が真っ暗になった。

 そのとき、赤信号に気づき、ブレーキをひく。さびついた自転車がきーっと鳴る。

 あたりはもう真っ暗だった。周囲の家々にぽつんぽつんと温かい明かりがともっている。今夜、日出子は智さんと。翼は年下のディレクターと。友加里は真田広之似の彼と(今夜はたぶん会わないと言ってはいたけれど)。

 冨士子は一人、自分で用意するわびしい夕食(もう何か作るのは面倒だから、一昨日の残りのきんぴらと、冷凍しておいた鮭とご飯)をとって寝るだけ。その孤独を、さみしさを、誰にもしってもらえない。だって、そんなものには何も価値がない。ぶすのおばさんの孤独になんて。勇気を出して婚活パーティにいっても、バスに乗っても、どこへいっても透明人間みたい。

 このまま一生、誰にも愛されず、体に触れてもらえもしないのだろうか。いやいやでも、と思う。この年で男の人とそういうことをするなんて、やっぱりちょっと信じられないんだけど? けれど友加里も翼もやっている。日出子だって。更年期の症状がおさまるほどに。

 ほんとに?

 ほんとのほんとに?

 うそお。

 わたしには、やっぱり無理じゃない?

 だって……こんなおばさん。

「だって~しょうがな~いじゃな~い」

 あたりに誰もいなかったから、歌ってみた。しゃがれた歌声は、夜の闇に吸い込まれて消えていく。けれど、少し気分が軽くなった。青信号になり、走り出しながら「やっぱり、唐揚げあげちゃおう」とまた声に出した。続けて「そんでビールも飲んじゃおう」とも。だって、しょうがないんだから。

 

(つづく)