寛人と出会うまでは、よく思いつきで一泊旅行をしていた。いつも決めるのは前日で、基本は素泊まり、夕食はそのときの気分で外食したり、テイクアウトにしたり。
行き当たりばったり上等。とはいえ、交通手段にしろ宿泊先にしろ、決して適当には選ばないので、これまで大きな失敗をしたことはなかった。
ところが、今回に限って、なぜか何もかもがうまくいかなかった。
行き先は熱海に決めた。前から気になっていたハイクラスのホテルを素泊まりでとることができた。熱海方面へむかうときは、昼前に有楽町駅から在来線のグリーン車に乗り、熱海駅周辺で昼食をとったあとぶらぶら散歩しながら宿にむかうのが定番コースだった。
しかし、いざ乗ろうとした電車のグリーン席は満席、普通車両も空いている席がなく、各駅で小田原まで立ちっぱなしの刑を受ける羽目になった。そして午後一時過ぎには熱海駅に到着したものの、秋晴れの行楽日和のせいかあっけなくランチ難民となり、食事にありつけたのは二時半過ぎだった。ほうほうの体でホテルに着くと、なんと間違えて明日の予約をとっていたことが判明した。
その日、すでにホテルは満室。おまけに前日のキャンセル料は八割。現実を受け止めきれず、フロント前で呆然と立ち尽くした。そのまま即身成仏してしまうかと思ったが、なんとか気持ちを切り替え、ホテルのロビーに座らせてもらい改めて宿探しをした。このまま東京に戻るのはプライドが許さなかった。が、納得のいく宿は、熱海内では見つけられなかった。
そのとき、ふと思い出した。熱海から伊豆急で数駅いったところに、お気に入りだったホテルが一軒あることを。電話で問い合わせると、デイベッド付の広い部屋がついさっきキャンセルになったらしく、朝晩二食付きを二割引きでとることができた。
まさに、捨てる神あれば拾う神あり。うきうき気分で駅に向かうと、ちょうどいいタイミングで伊豆急がきた。
が、人生万事塞翁が馬。熱海駅を出発して十分ほど過ぎた頃、車両が緊急停止した。原因は倒木との接触。結局、三時間超の運転見合わせとなった。
宿の最寄り駅についたとき、すでにあたりは真っ暗だった。宿に電話をすると食事時で送迎は出せないと言われた。その場でしばし検討した結果、近道という名の急坂を、キャリーケースをかかえてのぼることにした。もう少し緩い坂のルートもあったが、そちらは二十分近くもかかるのだ。近道の坂は頑張れば五分。しかし、のぼりはじめて三十秒で、おのれの選択がいかに愚かであったか翼は気づいた。あたりはさらに真っ暗で街灯は当然一つもなく、急な坂に何度もキャリーケースがひっかかって転びそうになった。どこかから熊があらわれてもまったくおかしくないように思えた。誰かが一緒にいてくれたら、この苦労も笑い合えるのに。たった一人、誰にも知られることなく、真っ暗な山道をのぼる五十すぎの女。何をやっているのかと、情けなくてしょうがなかった。ようやく宿の前に着いたときは、疲労と安心感と空腹で泣いてしまいそうだった。
そのとき、ジーンズの尻ポケットに入れたスマホがぶぶっと震えた。寛人からだと思って確かめると、宗宮からだった。
助けてください
その一言だけ。なんだか妙に物騒だ。「どうしたの?」と返したが、既読はつかない。スマホを気にしつつホテルに入館すると、すぐにチェックインの手続きとなり、そのまま同じ階の食事処へいくように言われた。
急いで手洗いをすませてテーブルにつく。前菜がすでに並んでいたが、それに手をつける前にお造りと椀があわただしく運ばれてきた。再びスマホが鳴る。また宗宮からのメッセージだ。
責任とってください
「一体、何の?」と思わずつぶやく。そのまま「一体何の?」と返した。今度はすぐに返信があった。
ユキオにラブホテルに連れ込まれそうになりました。非常に失礼だし不愉快です。責任とってもらいたいです。
ユキオって、呼び捨てかよ、と思わず吹き出してしまった。が、笑っている場合ではない。返信する文面を考えていると、LINE電話がかかってきた。宗宮ではなく、幸雄からだった。
「もしもし? 幸雄ちゃん? あの、どうなってるの?」
問いかけたが応答がない。まもなく通話が切れた。すぐにかけ直したものの出ない。そうこうしている間に、今度は野菜の焼きものが運ばれてきた。食事の時間はとうに過ぎており、あからさまに急かされていた。半個室になっているのではっきりわからないが、ほかの客はすべて食べ終えているらしかった。さっきの伊豆急に乗っていた客は、翼だけだとフロントの従業員が言っていた。
その後、二人からはぷつりと音沙汰がなくなった。しかしなんとなく気が散って、せっかくの豪華な料理もほとんど味がわからないまま終わってしまった。
意気消沈しながら、部屋に入る。大きなベッド二つに広々としたデイベッド、相模湾が見渡せる絶好の眺望(しかしもちろん今は真っ暗)……疲労と混乱で、すべてがどうでもいい。「あーー!」と声を発しながら、服を着たままデイベッドに倒れこんだ。
次の瞬間、LINE電話の着信音が鳴った。
宗宮からだった。
彼女は泣きじゃくりながら、幸雄からいきなりホテルへいこうと誘われ、断ったら無理やり車をおろされた、ということを繰り返し言い続けた。彼女の主張が本当なら、幸雄に正当性はないし、怒って当然だと思う。しかし、ホテルへいこうと誘われたと言っておきながら、途中でレイプされたに変わったり、駅前でおろされたとか山の中でおろされたとか話が二転三転して、何が真実なのか一切わからなかった。
わけがわからないまま、通話は約二時間も続いた。が、宗宮自身は話せてすっきりしたようで、当初よりかなり落ち着いた様子だった。最後に彼女はこう言った。
「そもそもわたし、年上の男性って無理なんですよ。性的な目を向けられただけで吐きそうになります。できれば五歳ぐらい年下の人がいいんですけど、誰かいませんか?」
「いねえよ! ていうか先に言えよ!」と言い返す元気はもちろんなかった。かわりに「いないかなあ」と答えると、「所詮、他人事ですよね」と捨て台詞をはかれて電話が切れた。
スマホを投げ出し、デイベットのマットレスに顔を伏せる。風呂に入りにいかなければ。さっき、大浴場は夜12時までと案内書きにあるのを見た。
しかし、体が動かない。そのまま眠ってしまいたかった。が、それじゃなんのためにこんな遠くまできたのかわからない。「よしっ」と気合をいれて起き上がると同時に、またLINE電話がかかってきた。
出なければよかったと、通話ボタンを押すと同時に後悔したがもう遅い。幸雄は怒り心頭だった。日光で紅葉を見ながら宗宮に交際を申し込んだところ、「十歳以上年上は無理」と断られたという。それで、どうせ付き合えないならせめて一発やっておこう、と帰りの車内でホテルに誘ったら、相手は怒りだし、走行中の車内から無理やり外に出ようと猿みたいに大暴れした。それを必死でなだめて最寄りの駅でおろし、事なきを得たそうだ。
「なんであんな化け物女を紹介するんだよ、もっといるだろマシなヤツ」
途中から翼への説教に変わった。だからお前は独り身だの、男の気持ちがわからなすぎるだの、散々な言いようだった。翼は一切反論しなかった。反論する前に寝落ちしてしまったのだ。
はっと目が覚めたとき、深夜二時をすぎていた。幸雄からのメッセージが一件。
死ねよ。
五十も過ぎて、男からこんなひどい言葉をなげつけられるなんて。自分の生き方は間違っていたのだろうか。だとしたら、どこから。もういっそ笑えてくる。ハハハと笑ってみたがちっとも気分は晴れない。体が汗やらなんやらでべとべとだったが、室内のユニットバスに入る気もせず、なんとか服だけ着替えてベッドに入った。
翌朝はもちろん、寝坊した。風呂にも入れず、朝ごはんも食べ逃した。
帰りの電車は停止することもなく、熱海からは無事グリーン車にも乗れた。昼前には帰宅し、シャワーを浴びるとカップラーメンを食べて空腹を満たした。それから寝室のカーテンをぴったりと閉め切ってベッドにもぐりこんだ。
起きたら、夜だった。
部屋の中は、洞窟のように真っ暗だ。
なんだか無性に悲しくて、でも涙は出ない。当たり前だ。別に親が死んだわけでも、失恋したわけでも、深刻な病気が見つかったわけでもない。ただ、いろいろとうまくいかなかっただけ。せっかくの土日がぐちゃぐちゃになっただけ。どうでもいいやつに罵倒されただけ。この程度のことでピーピー泣いていたら、こんな年まで独身女などやってられない。
ただ、悲しい気持ちでいるだけ。
そしてこの気持ちを、聞いてもらえる相手がいないだけ。
それがさらに、悲しいだけ。友達はいるけど、日曜の夜なんてきっとみんなあれこれ忙しい。恋人もいるはずだけど、いるはずだけど……。
なんとなく悲しい、というだけで電話できる関係じゃない。
そういうことは、自分で解決する。取り決めたわけじゃないけれど、なんとなくそういうことになっている、気がする。だって結婚するわけじゃないし、一緒に暮らす予定もないし。
こんな夜を、これまで百万回は一人でやり過ごしてきたはずなのに。なぜか今日が一番つらくて、苦しい気がした。外から漏れ入ってくるブロロロロというバイクの音を聞きながら、ふいに涙が出そうになる。が、やっぱり泣けない。そりゃそうだ。五十過ぎのおばさんが、ただ悲しいだけでピーピー泣けるはずはない。