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 年を重ねるというのは、ただ衰えることだと思っていた。でも、ひょっとしてそれは少し違うのかもしれない。衰えながら、別の人間になっていくものなのかもしれない。以前は平気だったことが耐えがたくなり、以前は決してしなかった失敗をしょっちゅうやってしまう。この年になって、それは衰えというより変貌のように感じる。

 なんのドラマも見る気がせず、結局、0時前にはベッドに入った。

 でも、なんとなく目を閉じる気もせず、真っ暗な天井をじっと見つめている。千草の顔が浮かぶ。あの、タイのビーチで見た人魚姫の千草。

 その目は自信に満ち満ちて、小麦色の肌はビロードのようにつややかに光って、ふっくらした唇は生命力にあふれていた。

 あの頃と今の千草はまるで別人だ。

 生い立ちが影響しているのか、生まれつきの性格なのか、千草は他人からの評価を全く気にしない人だった。世間体も常識も、フンと軽い鼻息だけで吹きとばしてしまう。いつも一人で、友達もあまりいなかったが、そのことも全く気に留めていなかった。

 翼が三十代の頃、婚活で苦戦していることを愚痴ると、「男なんてどれも同じなんだから、そんなに結婚したいなら金があるかないかで決めりゃいいじゃない」といつも笑いとばした。孤独が怖くないのかと尋ねると、「他人とわかり合えるなんていうのは、ただの幻想だよ」と真顔で答えた。シミが増えたと嘆けば「ゴキブリも老化も、恐れたほうが負け」とよくわからないことを言った。一切のものに、執着しない。それが千草だった。彼女が何よりも大事にしていたのは、きっと自由だった。お金にも頓着せず、無報酬で仕事を受けることもざらだった。「お金って、木の葉と一緒でしょ。狐とか狸が化かすやつ」とやっぱりよくわからないことを言いながら。

 それでも、弁護士としてそれなりの収入は常に確保していたようで、六十歳のときに聖蹟桜ヶ丘の中古マンションをキャッシュで買った。以来、有償の仕事は半分に減らし、空いた時間をボランティアや趣味のヒトカラと一人旅とジョギングに費やしていた。友達と呼ぶ人は相変わらずいなかったが、知り合いは多く、決して孤独ではなかったはずだった。

 千草がいたから、翼は婚活に終止符を打てたのだ。彼女のように執着を捨て、周りからどう思われるかを一切気にせず、孤独とうまく付き合い、働くことだけは決してやめないで、一人でも生きていけるようそれなりの準備をしておけば、世間一般の幸せを得られなくても、なんとかなるかもしれないと。

 それは半分あっていて、半分間違いだった。

 おかしい、と翼がはじめて感じたのは、二年ほど前のことだ。

 仕事もしなくなり、あまり出かけなくなった。理由をきくと「面倒くさい」と言った。それまでときどきどちらからともなく電話をして、三十分ぐらい近況を報告し合っていたのに、千草のほうからはかけてこなくなった。たまに翼から電話をかけて「最近どう?」と尋ねても「別に」とか「何もない」とそっけなく言うばかり。

 少し心配になって、去年の正月、久しぶりに聖蹟桜ヶ丘のマンションを訪問した。いつも翼と会うときは家の中だろうとばっちりメイクして服装も決めていたのに、化粧っ気もなく着古した部屋着姿だった。しかしそのことを除けば、家の中はきちんと整理整頓されていたし、受け答えも普通で、何より毎日のジョギングをいまだに欠かさないらしく、同世代の女性より背筋も伸びて健康そうに見えた。年をとって遊びまわる元気がなくなっただけで、まだ大丈夫そうだと翼は安心して千草宅を辞した。

 しかしその後、一転して千草からたびたび電話がかかってくるようになった。しかもその内容は、買ったばかりの財布が使いにくいとか、近所のスーパーの店員に失礼なふるまいをされたとか、家のどこかでピーピー音が鳴るとか、以前だったら考えられないようなことばかり。身の回りの困り事は、誰にも頼らずなんでも自分で解決してきた人だった。仕事でかかわった暴力団関係者に脅されたときだって、頼った相手は警察だけだったのだ。そんな千草が、パジャマのウエストの紐が紐通しの中に入って取り出せなくなってしまっただけで翼に電話をかけてきて、助けに来てくれないとわかると「あんたとはもう絶縁!」と一方的に切ってしまう。

 少し前まで、そういった電話は月に一度あるかないか程度だった。しかしここ三カ月ほどで急激に増えた。先週は三度もあった。一つはアマゾンが宅配ボックスに荷物を入れたが暗証番号がわからない、一つはカーペットにカフェオレをこぼしてシミができた、一つは冷蔵庫がピーピー鳴るのをどうにかしてほしい。アマゾンからのメールの転送を指示するとすぐにやってくれたし(そこに暗証番号が記載されていた)、酸素系漂白剤の使い方を教えるとその日のうちに買いにいって実行していた。それなのに、冷蔵庫の開けっ放しは繰り返す。千草が今、どんな状態なのか翼には判断できない。ただ、このまま自分一人で相手をし続けるのは、友加里の言うように正しくないことなのかもしれない。

 冨士子が調べてくれた相談先に、週明け電話してみようと決意する。翼はまだ真っ黒な天井を見つめている。まぶたを閉じられない。ただ、何度もため息が出る。体中の空気がなくなってしまうかと思うほど、何度も。千草の変貌があまりにも悲しくて。輝くように生きていたのに。

 それにわたしは、どうなるんだろう。

 千草と同じく、もう親もなく、きょうだいもなく、子供もいない。違うのは、自分を気遣ってくれる姪や甥すらいないこと。

 友達はいる。幸いなことに、恋人だっている。でも彼ら彼女らは、身内じゃない。これからさらに年を重ねて、どんどん気が短くなって、どんどんくだらないミスが増えて、どんどんパニックに陥りやすくなってしまったら、どうなるんだろう。身内でない人には、わたしは頼れない。

 それなりに備えているつもりではいる。でも数年後の自分は、今の自分とは全く違う自分になっていて、そんな備えなど意味をなさないかもしれない。自分も千草も、間違っていたのだろうか。年をとるとはどういうことか、考えているつもりでちっとも真剣に考えていなかったのだろうか。

 そのあと、明け方まで眠れなかった。

 

 週明け月曜の昼、千草の地域の支援センターに問い合わせる前に、千草自身に電話をかけてみた。すると、いつになく明るく元気そうで、「これから久しぶりにキョンキョンに会うの」と言っていた。キョンキョンというのは千草が子供のときから親しくしている従姉妹の京子のことで、千草にとって生涯唯一の友達も同然の人だった。

 まだ、大丈夫かもと胸をなでおろした。やっぱり、夜中の考え事はよくない。どうしてもネガティブな結論にいきついてしまう。一旦、支援センターへの相談は見送ることにした。

 その京子から「ちーちゃんと連絡がとれない」とLINEのメッセージが来たのは、その翌週の金曜の夜のことだった。

 

 土曜午前中の京王線特急の車内は、高尾山へ向かう行楽客で混みあっていた。家族連れ、中高年のグループ、外国人の集団と様々で、もちろんその中にはカップルもいる。翼はリュックを抱きしめるようにしてドアの横に立ちつつ、婚活で高尾山デートしたのって計何回だっけと考えた。

 一、二、三……少なくとも三回はあった。いずれも盛り上がりに欠けた。だいたいさ、お互いを知るためのデートのはずなのに、山なんか見に行ってどうするのよ、高尾山だの鎌倉だの遠くに行きたがる男にかぎって、天気の話しかできないコミュ力ゼロ点野郎だったわね、などと心の中で毒づいて気を紛らわそうとしたが、ちっともうまくいかない。

 呼吸が苦しくて、思わずのどをさする。不安なのか、悲しみなのか、よくわからない気持ちで朝からずっと心拍が速い気がする。

 昨晩、京子に電話すると、彼女は開口一番、こう言った。

「自死したのかも」

 若い頃から、千草は常々口にしていたのだ。「年をとって人に迷惑をかけることになる前に自分でなんとかするから」と。ここ数年は言わなくなっていた。それは京子の前でも同じだったようだ。

「だけど月曜に会ったとき、何回も何回も言ってたの。『他人に迷惑はかけられない。自分の始末は自分でする』って。なんだかしつこいぐらいに」

 しかしそれ以外はとくに変わりなく、趣味の一人旅のことや子供時代の思い出話をして楽しく過ごしたという。それでも心配になって、水曜の晩にLINEのメッセージを送った。するといつまでたっても既読にならず、電話をしても応答がないらしい。

 翼も金曜の夜にメッセージを送り、電話もしてみた。千草は昔からこの手の反応は早いほうで、半日以上あくことはめったになかった。だから今朝になっても返事がなかったら、マンションにいこうと決めていた。

 そのとき、バッグの中でスマホが振動する音が聞こえた。思わず息をとめてしまいながら、急いで確認する。寛人からの「今日、外でメシ食わね」というメッセージだった。

「ごめん、今日はいけない」とすぐに返事をした。すると一分もしないうちに「なんで」と返ってきた。それには答えず、スマホをバッグにしまった。普段から、お互い未読も既読もさして気にしない。

 目を閉じて、何か全く違うことを考えて気を紛らわそうとする。うまくいかない。だからといって、これからについて建設的なことを考えようとしても、やっぱり何も頭に浮かばない。ただただ何度もため息をつきながら、ようやく聖蹟桜ヶ丘駅に到着した。

 外は快晴だった。時刻は正午にさしかかり、気温は予報通り五月上旬並みに上昇して、駅周辺にはTシャツ姿で歩いている人もちらほらいた。けれど翼はどこか肌寒く、着ているカットソーの袖を指先までひっぱった。マンションは、駅から徒歩十分ほどのところにある。歩きながら、千草が自ら命を絶つところを生々しく想像してしまう。そのたびに目をぎゅっと閉じて振り払う。結婚や子供や友達、そういった世の中の多くの人が望む幸せには一切興味を示さず、ただただ、自分の好きなように生きてきた。その結末が、これで正しいの? 自分で自分の片をつける。一見、潔いようにも思える。現に、翼も同じようなことを考えたことが、一度もないわけじゃない。もし、仕事を失ってお金もなくなり、食うや食わずの生活に陥ってしまったら。そのときは、死んじゃえばいっか。そんなふうに考えて、目先の不安を打ち消すことなんてしょっちゅうある。

 でも。

 自分で死ぬ日を決めて、死ぬ方法も決めて、死ぬための道具をそろえて、そして実行する。誰にも知られず。その心のうちを、誰にも話さず。それが今、こんなにも間近に迫ってはじめて、そのあまりの悲しみに圧倒される。千草はどんな気持ちでいたのだろう。わからない。悲しいのか、つらいのか、いい人生だった、十分だ、なんて満足していたのだろうか。そんな陽気な受け止め方はどうしてもできない。

 マンションの前に着いた。まず先に、郵便受けを確認した。チラシが大量に突っ込まれていた。

 最後の確認のつもりで、スマホを見る。千草へ送ったメッセージは、未読のままだった。

 エレベーターで十階まで上がる。ますます息が苦しくて、喉を誰かに軽くしめられているかのようだった。ドアの前に着き、インターホンを押した。応答はない。ドアノブをひねってみたが、施錠されている。

 ここまでは、あくまで想定通り。事前にこのあとどうするか、京子と話して決めてあった。京子に電話し、マンション管理をしている不動産会社への連絡を頼んだあと、その場で警察に相談した。長々と保留にされたが、今日中に安否確認に来るという。その後、不動産会社とも話がつき、午後三時過ぎに近くの店舗の担当者が開錠に来てくれることになった。

 三時まで、だいぶ時間がある。何も食べていないが、何も食べる気にはならない。駅前に戻り、とりあえずチェーン系カフェに入ってみたが、周りの話し声も店内BGMも何もかも不愉快で、すぐに外に出て、マンション前に戻った。いずれツツジが美しく咲き乱れるのだろう生け垣のふちに腰かけ、スマホも見ず、ただじっと待った。

 不動産会社の担当者は三時ちょうどに現れた。警察は二十分ほど遅れて来た。担当者が開錠し、警察が先に中に入った。まもなく、誰もいない、と告げられた。

 

(つづく)