十月終わりの土曜昼、まだ紅葉の見頃には早かったが、練馬の光が丘公園は周辺に住む人々でごった返していた。芝生広場のはしっこにレジャーシートを敷くと、「今日は朝六時起きしちゃった」と照れくさそうに笑いながら、勝男はスヌーピーの描かれたランチボックスを二つ出した。

「家にこれしかなくて、ハハハ」

 勝男の笑顔っていいよね、なんだか子供みたいにピュアな感じがする、と翼が言っていた。が、冨士子はそんなふうには思えなかった。そこだけ不自然にやや白い差し歯と紫色の歯茎がむき出しになって、なんだか馬が笑っているみたいだし、何より目元の笑い皺があまりに多くてぞっとする。ちょっと怖い。これが生理的に無理、というやつかもしれない。

「プロのお弁当屋さんにお弁当作ってくるのもおこがましいと思ったんだけど」勝男は言う。「でもせっかくのいい天気だしね。おいしくなかったら捨てていいです」

「そんな、ありがとうございます」

 それでも作り笑顔で答えて、冨士子はランチボックスのふたをあけた。タマゴサラダ、ハムとレタスなどの数種類のサンドイッチと、こぶりの唐揚げがとてもきれいに詰められていた。

「わあ、おいしそう」と冨士子は思わず言った。「お上手なんですね、料理」

「五年前にちょっと体を壊して、酒とたばこをやめて自炊をはじめたんです。そしたら楽しくなっちゃって。とくに唐揚げはものすごく研究しました。よかったら一口、召し上がってください」

 言われるまま、一つ食べてみる。「……あ、おいしい。下味しっかりめだ。お弁当にぴったり」

「わあ!」と勝男はますます目尻の皺を深くする。「サンドイッチもよかったらどうぞ。とくにタマゴサンドに自信ありです」

「はい、いただきます……あ、もしかして、チーズ入ってる?」

「そうなんですよ。タマゴサラダも結構研究しましてね。試しにとろけるチーズを入れてみたら、ばつぐんにうまくなって」

「ブラックペッパーがアクセントになって、いいですね。本当においしい。うちで真似したいぐらい」

「ぜひぜひ、商品化してくださいよ。名前はカツオサンドで……それじゃダメか、ハハハ」

 確かに、と続けてハムとレタスのサンドイッチをつまみながら改めて思う。勝男とは妙にウマが合う。あのバスで最初に話したとき、まるで昔からの友達のようだと思ったのは事実だ。しかし、それだけと言えば、それだけ。また彼に会いたいとは一切思わなかったし、そもそも友加里から話があるまで、存在自体忘れていた。

「最近、思い切って圧力鍋を買ってみたんですよ。なんでかって言うと、今年はおせち作りに挑戦してみたくて」

「え、すごい」

「男一人で、そんなもの食べきれるのかって話なんだけど、へへっ。今、豆を煮たり肉を煮たり、いろいろ練習してます。この間はローストビーフに挑戦したけど、失敗しちゃいました」

「あら、どうして?」

 ときめき。それがない。ローストビーフが生煮えで食べたら腹をこわしたという色気のない話を聞きながら、冨士子は考える。ときめき。色気。五十も過ぎた男女にそんなもの、必要なのだろうか。しかし、ただ気の合う友達というだけならほかにいる。彼でなければならないという理由が、今のところ見つからないのだ。

 ……というのはすべて、勝男を断る口実に過ぎないと、自分でもわかっていた。けれど、はっきり断る勇気も持てずにいた。たいして美しくもない自分に対し、これほどまでに熱心にアプローチしてくれる同世代の男性が、この先、現れるのか。勝男にしておけばよかったと、いつか後悔はしないか。そもそも、この歳でときめかないだのなんだのと、世間知らずの女子大生みたいなたわごとを言っていていいのだろうか。

 でも……。

 この歳だからこそ、適当な相手で妥協すべきではない気もするのだった。若い時分のように、なんらかのタイムリミットに迫られているわけではないのだから。

 ていうか……。

 そもそも、なんでわたしはこの歳で婚活なんてはじめたんだっけ? 考えているうちに、なんだかよくわからなくなってきた。結婚なんてこりごりだったはずなのに。今思えば、日出子の電撃結婚で気が動転してしまっただけのような気もする。

「……退屈ですか?」

 ふいに勝男が言った。物思いにふけるあまり、彼の話を聞き流してしまっていたようだ。

「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事しちゃってた」

 勝男の眉毛が少し下がる。飼い主に怒られた犬みたいだ。

「へへっ。俺、話し下手で、いつも話題が少なくて、すみません。剣介といると痛感するんですよね。あいつは多趣味で読書家で……」

「勝男さんは、どうしてこの歳で結婚しようと思ったんですか」

 話を遮って冨士子は聞いた。勝男の小さな目が、ぱちぱちと瞬きをする。

 身の回りの世話をしてくれる人がほしくて。突然の大病を患ったときに備えて、誰かそばにいたほうがいいと思って。老後の面倒を見てくれる人を今のうちに確保しておきたくて――そんな、ありがちなことを言ってくれたらいいのに。そうしたら、断る理由になるのに。

 勝男はずいぶん長く黙っていた。口を真一文字にして、今まで見たことのない真剣な顔で考え込んでいる。「……じ、自分を……」

「え?」声が小さくて、聞き取れなかった。「なんて?」

「自分を」今度は、妙にはきはきと言った。「自分を、自分のことをいい加減、好きになりたいから、です」

 そのこちらを見つめるまなざしがあまりにまっすぐで、とっさに冨士子は「あ! そういえば、この間、長野にいかれたんですよね?」と無理やり話を変えた。

「ええ、そうです。ちょっと仕事でね」と勝男もニコッといつもの優しい笑顔に戻る。「そうだ、お土産があるんですよ」

 そう言って勝男がリュックから出したタッパーには、大粒のシャインマスカットがつめられていた。それをつまみながら、旅行や温泉の話をした。草津がいかに優れた温泉地であるかについて語り合ったり、本当に日本で一番おいしい駅弁はどれなのかについて真剣に議論したり。この人と話していると、楽しいな。そう、素直な気持ちでまた思う。気づくとどんどん時間が過ぎて、陽がとろとろと傾いていく。野球場で試合を終えたらしい一団が、礼儀正しく挨拶をしている。そのわきのジョギングコースを、視覚障碍者とロープを握り合って伴走ランナーが走っていく。勝男と結婚したら、こんな週末を何度も過ごす。それは決して悪くないような……だけど……。

 ちらっとスマホを見る。渉からの返事はない。

 三日ほど前に、明日の日曜に飲みにいこうと誘ったが、未読のまま。最近はいつもそうだ。そして大半は「寝てた」「気づかなかった」でかわされる。

 一回ぐらい、返事を催促してもいいのかな。それってやっぱり、ウザいのかな。けれど催促しないと、また週明けまで待ちぼうけを食らわされた挙句「寝てた」で終わってしまう。

 はっと気づくと、勝男が眉を完全なハの字にして、こちらを悲し気に見ていた。

「あっ、ごめんなさい。わたしってばまた……あの、なんの話でした?」

「さっき話してた来週の駅弁フェア、よかったらいきますかって……でも、興味なければ結構ですんで」

「ああ、新宿のデパートでやるやつですね。えーっと、来週は……」

 すみません、ちょっと予定があって。その言葉をあわてて飲み込む。勝男は配慮のできる男だ。二度目のデートの誘い。断ったらもうそれ以上は誘ってこないかもしれない。つまり、彼とはここで終わる。

 それで、いいの? 五十過ぎのおばさんが、ときめかないだの笑顔が少し気持ち悪いだのと、そんな理由でフッていいの? こんなにもいい人を。

「……土曜日だったら大丈夫です。駅弁フェア、いきたいです」

「本当ですか! うれしいなあ」

 勝男は口を大きくあけてそう言った。下側奥にびっちり並んだ銀歯が丸見えになる。思わず視線を逸らした。

 

 渉から返信があったのは、週明けの火曜の午後だった。たった一言、「気づかなかった」それだけ。

 あのとんかつ屋で再会してしばらくは、多いときで週に三日か四日のペースで飲みにいっていた。渉は今年春に北海道で会社をやめ、無職になって東京に戻ってきていた。何に使ったのか知らないが、とにかく金がないようだった。タダ飯タダ酒目的で自分と会っているのだと、冨士子はもちろん承知の上だった。しかし七月末にようやく再就職が決まると、徐々に連絡が途絶えがちになった。単に忙しいのか、女ができたのか、それはわからない。

 かつて貸した金のことは、一度も口にしていない。だから、嫌われたわけじゃないとは思う。

「全然気にしないで、また誘うね」と冨士子は、オフィスのデスクで伝票チェックしていた手を止めて渉に返信した。少し迷って、KIRIMIちゃん.のスタンプまで追加で送った。そんな自分が、さすがに少し情けなかった。

 けれどどんな内容でも、渉とやりとりしていると思うだけで、うれしくて胸がいっぱいになる。こんな感覚は久しぶりだった。渉と再会して以降、更年期の症状が不思議と落ち着いていた。恥ずかしくて誰にも言えないが、実際、渉のことを考えるだけで女性ホルモンがあふれてくるような感覚がするのだ。日出子とK―POPアイドルの推し活にはまっていたときさえ、こんなことはなかった。

 「今週はどう?」とさらに追加でメッセージを送った。もちろん返事などすぐにはこない。わかってはいるけれど、つい何度も何度も確認してしまう。向かいのデスクにいる経理パートの清水が、不審そうな目でこちらを見ていたが、気づかぬふりをした。

 送信から三十五分後のことだった。ふいに、既読のマークがついた。

 思わず「きゃっ」と声をあげてしまい、あわてて口を押えた。清水の視線を額のあたりに強烈に感じたが、無視した。何日たっても未読のままのことのほうが多いのに、今日はどうして? 冨士子は一度トーク画面を閉じてから、通知をオフにした。そのことになんの意味があるのか自分でもよくわからなかった。ただ、スマホが鳴るのをじりじり待つのが嫌だった。

 一旦スマホをデスクの端に置く。茶を飲む。スマホを見る。返事なし。また置く。茶を飲む。スマホ見る。返事なし。伝票チェックを再開してみる。スマホを見る。返事なし。伝票を見る。スマホを見る。返事なし。

 それを日が暮れるまで続けて、結局返事はなく、仕事も終わらず、いつもより二時間余分に働いた。

 

(つづく)