年末年始は桃花が友達や恋人をつれてやってきたり、「毎年暇すぎて死にかけている」という翼が年越しをまたいで連泊したり、冨士子もふくめた三人で早朝から初詣にでかけたりと、例年になく楽しくにぎやかに過ごした。二年前まで、年末年始といえば弟家族と同居する父を預かる期間で、家族の間で“修行”と呼んでいた。あの日々を思えば、今年はまさに天国だった。
剣介は娘と母をつれて毎年恒例のハワイ旅行へでかけた。誘われたらどうしようと十月ぐらいから戦々恐々としていたが、一切誘われなかった。
そして一月半ば、友加里はパーティの二日前から有休をとって花梨と福岡入りし、一日目は二人で市街をあちこち観光した。翌日の昼前、剣介が指定した待ち合わせ場所に二人でいくと、彼は一人きりで、涼子はいなかった。
「仕事が、忙しいんだってさ」
レンタカーのエンジンをかけながら、剣介はそう言った。
それから三人で、予定していた通り糸島へドライブに出かけた。人気のパン屋に寄ったり、有名な映えスポットで写真を撮ったりと、定番の観光コースを回っていく。思ったことはなんでもすぐに口にする花梨は、「初対面でわたしのことを嫌わない人は、相当なお人よしだね」などと普段からよくうそぶいているが、その日の彼女は、頭からつま先まですっぽりと猫をかぶっていた。怪しいほどにおとなしく、無口だった。服装もメイクも普段よりずっと地味だった。
たいして、剣介はずっと上機嫌で饒舌だった。服装もいつもよりおしゃれというか、ぴったり目のシャツを着て胸筋をアピールしているように見えたが、それは友加里の気のせいかもしれなかった。
彼は花梨のことを人づきあいが苦手な女の子と思ったようだった。有名な鮮魚店で昼食をとっているとき、退職した理由を聞かれて「人間関係ですかね……」と花梨が答えると、剣介は意気揚々と社会人生活や人生設計にまつわるアドバイスをはじめた。
「コミュ力がない」はなんの言い訳にもならないだの、いっそ海外でも回ってみればどうかだの、その歳で投資信託なんか絶対やるなだの。友加里は黙ってやりすごしながら、内心で、これは娘たちがいつも言っている“クソバイス”ではないかとひやひやしていた。花梨はこのまま黙っていられるのだろうか、そのうち得意のフランス語でまくしたてたりしやしないかと思うと気が気でなく、朝から楽しみにしていた海鮮丼も、味がよくわからなかった。
しかし、花梨は余計なことは何ひとつ口にしなかった。つまらなそうな顔つきではあったものの、剣介の話にじっと真面目に耳をかたむけていた。
「あの、すみません。このあとの予定なんですけど」食事が終わったあと、花梨がスマホを操作しながら言った。「友達との待ち合わせ、ちょっと早まりそうで。このあとすぐ天神にいってもらっていいですか」
予定では、夜まで三人で過ごし、午後八時すぎに花梨を天神に送り届ける予定だった。剣介は心底がっかりしたように眉を八の字にして「もっと連れていきたいところたくさんあったのに、残念だなあ」と言った。
車にのるとお腹いっぱいになった花梨は、後部座席ですぐに居眠りをはじめた。起こしてしまわないよう、友加里も狸寝入りをした。
「おーい、二人とも。もうすぐ天神だぞ」
それからしばらくしてその声に瞼をひらくと、「福岡(天神)駅」の文字が、遠く道の先に見えた。後部座席で花梨は猫みたいに伸びをしている。ああ、なんとか無事にここまできた、そうほっと息をついた、そのとき――
「そういえば、これから大学の友達に会うんでしょ?」剣介がバックミラーに向かって優しく微笑みながら言った。「花梨ちゃん、どこの大学なんだっけ」
「東京大学です。あ、どこか適当なところで降ろしてください。少し歩きたいので」
「……じゃあ、そこで降ろすね」
交差点の少し手前で、剣介は車をとめた。花梨は「今日はありがとうございました。ご助言、参考にさせていただきます」と礼儀正しく言ったあと、母親には挨拶どころか目もあわせず車を降り、風のように去っていった。
「東大なら東大って言えばいいのに」
車を出しながら、剣介が言った。
これまで花梨の学歴について、友加里は「国立大卒」とだけ伝えていた。「一橋とか?」と聞かれて、「うん、まあそんな感じ」と濁したことは一度あったが、それを含めても、噓をついていたつもりはなかった。
はずなのに。
それから約二時間、剣介は無言だった。
福岡市のはずれにある剣介の母親の生家は、三〇〇平米を超える日本家屋の豪邸で、周りを所有する農地に囲まれていた。きっと剣介の機嫌がよかったら、「江戸時代から大地主の家系でね」なんて説明してくれたのかもしれない(実際にそうなのかはしらない)が、剣介は昨日から口数が少なく、広大な駐車場にレンタカーをとめると、さっさと先に家屋のほうへ歩いていってしまった。
昨晩は剣介がとったホテルに二人で泊まった。が、別々のベッドで寝た。いつもは絶対に欠かさないおやすみのチューもおはようのハグもなかった。そのことを思い出すだけで、友加里は悲しさや不安や、よくわからない感情でまた涙が出そうで、相変わらずの自分の情緒不安定っぷりがほとほと嫌になった。本当にこれでコラーゲンが生成できているのだろうか、全くもって信じがたい。
なんとか気持ちを奮い立たせて剣介の後を追い、巨大な玄関土間に足を踏み入れる。出迎える人はおらず、物音もなく、がらんとした雰囲気だった。そのまま彼に続いて室内にあがり、五十畳はありそうな和室に入ると、大きなローテーブルがたてに三つ並べられていた。しかしまだ料理は何も並んでおらず、幼児二人と三十代くらいの女性が一人いるだけだった。
「剣ちゃん、はやいねー。まだ午前中だよ。みんな昼から来ると思うよ」女性があばれる男児を抱きかかえながら声をかけてきた。
「うん、シノブに手伝えって……」と剣介が言いかけたところで、奥のふすまがあいて友加里と同世代ぐらいのふくよかな女性が姿を現した。
「ああ、やっと来た剣坊」と女性は言った。「いきなりで悪いけど、お母さんたち、迎えにいってくれる?」
「どこへ」
「美容院」
剣介は苦笑いした。「バアさんがそんなめかしこまなくても」
「めったにない晴れ舞台だし、いいでしょ」と言いながら女性は友加里を見る。「そちらは……」
「川原友加里さん。前に話したでしょ、俺の婚約者」
その言葉に、妙にドキリとした。そんなふうに言ったら、やっぱり近々結婚すると思われるじゃん、という文句を飲み込みながら「はじめまして、川原です」となんとか笑顔を作って挨拶をした。相手は「どうも」と愛想なく言い、名乗りはしなかった。
「とにかく、ご飯が何もできてなくって。わたしも昨日の夜遅くこっち来て、さっき買い物だけしたんだけど」
「そんなの、寿司でも注文すりゃいいでしょ」
「そういうわけにはいかないの。それにわたしはこれから空港にヨシ坊迎えにいかなきゃいけないし。ああ、ご飯どうしよう」
「あの、何かお手伝い……」と友加里が言うがはやいか、女性はつかつかと近づいてきて、友加里の右の二の腕を強くつかんで引っ張った。
「助かるー、ちょっとこっちに来て」
そのまま強引に連れていかれた台所には、若い女性が二人いた。流しの前にならんで立ち、片方はにんじんの、片方はごぼうの皮を黙々とむいている。中央にある大きなテーブルには、調理前の食材が大量に置かれていた。
それから五分もしないうちに、友加里はこの宴の料理長となっていた。誰も献立を教えてくれないので、食材を見て勝手に友加里が決めた。台所には入れ代わり立ち代わり若い女性が現れたが、誰かどんな立場なのか全くもって不明だった。しかし、そんなことはどうでもいいことだった。
白菜と豚肉のうま煮、ユーリンチー、なすのはさみ揚げ、春雨サラダ……友加里の指示通りに、次々に料理ができていく。途中、謎の中年男性が発砲スチロールのケースを抱えて現れ、中に入っていた魚を黙々とさばいて皿に盛り、居間に持っていった。その後、周囲がにわかに騒がしくなり、ちらっと居間をのぞきにいくと、しらない間に宴会がはじまっていた。
五十人ぐらいの男女が三つのテーブルを囲んで座り、やいのやいのと飲んだり食べたりしている。その中には高齢女性が数名いて、どれが剣介の母で、どれか伯母なのかわからなかったが、それもどうでもいいことのような気がした。剣介は真ん中のテーブルの前に座っていた。似た容貌の男たちと一緒に、大口をあけて楽しそうに笑っている。
友加里は宴には加わらず、台所のテーブルで数名の女性たちと一緒に、あまりものを食べた。女性たちはほとんどがこの家の血族ではないようだった。「酒ぇ―」と声が聞こえたら、誰かが酒を持っていき、「ビールー」と聞こえたらビールを持っていく。友加里はなんとなく居間にいきたくなくて、というより、剣介に会いたくなくて、あえて動かずにいた。
「あー、もうやだやだ、どうしよう」
空の瓶ビールを入れるケースが二つ目になった頃、友加里を台所にひっぱっていった女性があわただしくやってきて、友加里たちの前をいったりきたりしはじめた。
「どうしようどうしよう、困ったわ」
「……どうしたんですか」友加里は聞いた。その場にいる誰も聞こうとしなかったから。
「みいちゃんがね、いや、あの、一番下のおばあさん、みいちゃんっていうんだけど、体が悪いから上で寝てるの。今日はユリちゃんが見る番なんだけど、ユリちゃんが風邪ひいたっていうから……」
誰も何も言わない。すると女性は再び「どうしようどうしよう」犬みたいにウロウロしはじめた。
「あの、何かおて……」
「助かるわ、こっちにきて」
今度は左の二の腕をつかまれ、ひっぱられる。そのまま二階にあがってすぐの部屋に案内された。
八畳ぐらいのスペースの中ほどに介護ベッドがあり、高齢女性が上体を起こして座っていた。高齢女性はこちらを見てニコッと笑った。どことなく剣介に似ている気がした。
「みーちゃん、何日もお風呂に入ってなくて、ご飯もまだだし」
「ああ、じゃあ、まずお風呂に入れましょうか。わたし、仕事で……」
「介護士なんでしょ? お願いしていい?」
「あ、あの食べられないものとか、あとお薬とかは……」
「ないない、なんもない。頼むわねー」
そう言いながら、彼女は逃げるように去っていった。友加里は改めてあたりを見回した。安物のラックや収納ボックスがあちこち積まれた、そっけない部屋だった。大きな窓から明るい午後の日が差している。階下の騒ぎが、はるか遠くから聞こえた。
「どうも」とみいちゃんと呼ばれた女性が、にこやかに言った。「よろしくお願いします」
「川原と申します」と友加里は頭を下げた。「ちょっと先に、お風呂の様子を見てきますね」
同じ階に浴室があった。介助用の椅子や手すりなどが備え付けられている。おそらく近年リフォームしたのだろう。この家に三姉妹だけで住んでいるのだとしたら、誰かが定期的に面倒を見に来ているのだろうか。剣介は母親のことを、今後はどうするつもりだろう。そんなことを考えつつ、軽く掃除して湯を張った。それから部屋に戻ってあちこち漁って、着替えやタオルなどを勝手に出し、みいちゃんのパジャマを脱がせた。
みいちゃんは小柄でおとなしく、扱いやすいタイプの高齢者だった。よごれたおむつの処理も難なくさせてもらえた。浴室につれていく途中、「どっからきたと」とみいちゃんが言った。
「東京です」と友加里は答えた。「剣介さんに誘われて」
「ああ剣坊」とみいちゃん。「あんたはハナさんか。ちょっと太ったねえ」
友加里は否定せず、ただふふふと笑った。そんなふうにおしゃべりしながらみいちゃんの体を洗い、湯船につからせる。入浴介助が終わると、一旦一階に戻り、みいちゃんが食べられそうなものを適当に見繕って皿に盛りつけた。二階に戻って食事の介助をしながら、ふと、今日ここにきて一番ほっと心を落ち着かせている自分に友加里は気づいた。
ああ、ラク。
こういうおとなしいおばあさんのお世話が、一番ラクチン。ラク、ラクだなあ、とてもラクチンだなあと心の中で繰り返す。このまま夜までこの部屋で過ごしたい。みいちゃんが寝たら、部屋の片づけでもしようかな。一階に戻って知らない人たちに混ざりたくない。剣介の不機嫌に気を使うのも、なんだかもう疲れた。
窓の向こうには、冬の農地がどこまでも広がっている。あぜ道を、小さな子供をつれた妊婦がとぼとぼ歩いている。
「あんたは人の世話が好きなんやね」
ふいに、みいちゃんが言った。
「こんないいお天気の日に、遊びにもいかんとって。どっかいきとうなかと」
「どっかって、どこです?」と白菜やなすをこまかくしたものを、みいちゃんの口に運びながら友加里は聞いた。
「例えば、あれ、ゴルフ」
友加里は思わずぷっと吹きだした。「ゴルフ?」
「あんたぐらいの歳の人はみんなやっとーやろ、ゴルフ」
「ゴルフ、好きじゃないです」
「なんが好いと」
「……え?」
「なんが好いと」
「えーっと」と友加里は顎に指をあてて考える。「……何が好きなんでしょう。いざそう聞かれると、わかんないな……」
「わからんと? おかしな人やね」
「そうですよね、ハハ……」
わたしが好きなもの……サッポロ一番塩ラーメン、韓国ドラマ鑑賞、朝の散歩。でもきっと、みいちゃんが聞いているのは、そういうことではなくて。わたしは、何が好きなんだろう。もう一度、自分に問いかけてみる。そもそも今まできちんと考えたことがなかった。なんだか妙な話だけれど。
だって、そうだ。
「ママは何が食べたい?」「ママはどこにいきたいの?」なんて夫や娘たちはときどき聞いてくれたけど、何か言ったところでママの意見が通ることなんてなかったから。自分が何を好きなのか、どこへいきたいのか、何をやりたいのか、ずっとずっと、あえて考えないようにしていた気もする。
でも、何年も前に夫は亡くなって、娘もとうに自立した。もう自分で、なんでも選べるはずなのに。
そのとき、どたどたと階段をあがってくる足音が聞こえた。続いて乱暴にドアが開けられ、数人の赤ら顔の男性が中に入ってきた。
友加里を見て、みんなでにやにや顔を見合わせている。少し間をおいて「おいー、お前らー」と剣介の声が聞こえてきた。
「ああ友加里さん、ごめんね」と剣介は男たちをかき分け部屋に入ってくると言った。「こいつらがどうしても、友加里さんの顔を見たいって」
「きれか人やね」とそのうちの一人が言った。「俺と同い年に見えんね」
「ほら、顔見たらもういいだろう、降りるぞ。友加里さん、本当にごめんね。あ、みいちゃんのお風呂入れてくれたんだって? ご飯も作ってくれて、みんな褒めてたよ。俺も誇らしいよ、ありがとう」
ごちそうさまです、と男たちが相変わらずにやつきながら口々に言う。友加里は「いいえ」と愛想笑いで答えた。
「でも東京の料理ばっかりやったな。次はうちの地元の料理ば覚えなね」
背の低い小太りの男が言った。友加里は心の中だけで「死ねばいいのに」と罵倒した。
「でも、剣ちゃんの彼女さんがいてくれてよかったよ」一番若く見える男が言った。「身内に介護のプロがいるっていうのは、心強いよ。うちのお嫁ちゃんも介護士だから、うちの母ちゃんの面倒見てくれてるもん。剣ちゃん、いつでもこっちに帰ってこられるね」
「まあな。おい、邪魔だから、さっさといくぞ」
男たちはまたわいわいがやがやどたどたとやかましい音をたてながら去っていった。騒ぎ声はだんだん遠くなるが、酒の不愉快な匂いがその場にいつまでもとどまっていた。
友加里はまた窓の向こうのあぜ道に目をやった。幼児と妊婦はいつの間にか姿を消していた。
「わたし、ゴルフ嫌いなんです」
友加里は言った。
「人の世話は嫌いじゃないけど、好きってわけでもないです」
じゃあなんが好いと、とみいちゃんは聞いてくれなかった。ちらっと顔を見ると、すっかり寝入っていた。
「なんが好いと」とだから、自分で言ってみた。わたしは何が好きなの。何がしたいの。本当は、どこへいきたいの。