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 六月半ばの土曜昼、朝からどしゃぶりの雨の中、先月引っ越しを終えたばかりの日出子宅を訪問し、夫の智を含めた三人で日出子が作った味のないペペロンチーノを食べた。その後、わざわざ池袋まで出てルミネのハーブスで三十分近く並び、一番好きなフレッシュフルーツケーキと、二番目に好きなバナナクリームパイを買ってから帰宅した。ハーブスの大きなケーキを、しかも二個食いでもしなければやっていられない気分だったのだ。

 雨はようやくやんだ。ベランダの窓を開けて換気をしてから、しんと静まり返った土曜の午後の自分の部屋を冨士子は見渡す。

――なんだか、いかにも独身おばさんのさみしい住まいって感じ。

 日出子の新居にあったレモンイエローのカーテンを思い出すと、途端に息が苦しくなる。学生時代にインテリアショップでバイトしていた智の趣味らしかった。あの日出子が、ものぐさの極みだった日出子が、今ではあんなに素敵でしゃれた家に住んでいるなんて。

 それにひきかえ。実家から持ってきたちゃぶ台、新婚時代に元夫が組み立てたカラーボックス。あらゆるところにしみったれた生活感がしみついている。とくに鰻のかば焼きみたいな色のカーテンの野暮ったさといったらない。一体、何年使ってるんだか。でも、買い替えるのも億劫だった。一人で暮らすんだし、インテリアなんかに凝ってもしょうがない気がしてしまう。

 この世はいつだって不公平。冨士子はムフーッと鼻息をはくと、台所へいき、粛々とお茶とケーキの用意をした。

「いただきまーす」

 ちゃぶ台の前に座り、自分を元気づけるように声に出した。二つのケーキをぱくぱく食べ進めながら、日出子たちとの会話を思い返す。今日は渉に貸している五百万円について相談するために、日出子に会いにいったのだった。

 渉は再び音信不通になった。気づいたらLINEはブロック、電話も着信拒否されていた。赤羽のマンションをたずねても、渉の母に居留守をつかわれるばかり。こっそり監視していたインスタを見る限り、勤務先をまたやめて東京を離れたことは間違いなさそうだった。しかし、行方は当然わからない。もう自力ではどうにもならないのはあきらかだった。

 翼たちにはああ言ったが、この件について日出子に打ち明けるのは今日がはじめてだった。日出子はあきれつつも、その場であちこちに電話で相談してくれた。が、誰にどう相談しても、回収は無理そうだ、という結論にいきついた。金を貸したのは五年以上前で、その間、二人の間で返済の話は一度もしていない。貸したという証拠はなく、債権の時効もとっくに過ぎていた。

「あんたは相変わらず、悪い奴らに自分から近づいていって勝手に泣いてるのね。悲劇のヒロインでいるのが本当に好きねえ」

 帰り際、日出子にそう言われた。さっきからその言葉とレモンイエローのカーテンが頭にこびりついてはがれない。オキシクリーン液に浸したぞうきんで、脳内を磨き倒したい気分だった。

 しかし、図星は図星。渉だけでなく、元夫の辰哉も、あの調理担当の男も全員、悪い奴ら一派の一員だ。ほかにも心当たりがある。高校時代、まわりにわからないようひそかにいじわるをしてきた同じグループの女子二人。離婚したあと、相談にのるふりをしてしつこくマルチに誘ってきたパート従業員。離れたほうがいいとわかっていても、孤独が怖くて離れられない、いつも。

「別に悲劇のヒロインでいるのが好きなわけじゃないし」

 二つのケーキをほとんど味わうことなくあっという間に平らげたあと、冨士子はぽつりとつぶやいた。もうわたしは五十二歳のどこに出しても恥ずかしくない立派なおばさん。誰かに心理分析してもらわなくたって、自分でとっくに気づいている。別に悲劇のヒロインでいるのが好きなわけじゃない。ただ、不幸せだと安心できるってだけ。

 日出子の劣化版。それが自分だと子供の頃から自覚していた。見た目はそっくりでも、勉強、運動、要領のよさや愛嬌、何もかもが劣っている。なんでも簡単にやり遂げる日出子と、何をやってもうまくいかない自分。大人になっても同じだった。店を大きくしたのは日出子で、自分は店に出て弁当を売っていただけ。おまけに結婚も自分は大失敗。日出子は少し出遅れたものの、結局はあっけなく幸せをもぎとった。

 いつからだろう、夢を思い描くのが怖くなった。だって何を願ったって、かないっこないんだから。だから、自ら不幸の道へ進んで、そして案の定不幸になって、「ああやっぱりわたしはいつも不幸」って泣いて、泣きながら安心している。まあ、そんなところ。自分のことは自分が一番よくわかっている。

「だって、しょうがな~いじゃな~い」とうたいながら食器を流しに持っていき、洗いはじめる。その途中でふと手がとまる。

 勝男の笑顔が脳裏に浮かんだせいだ。紫色の歯茎と色がまだらな大きな歯がむき出しになった、馬みたいな笑顔。

 勝男のことが、忘れられない。

 勝男にもう一度会いたいとか、OKすればよかったとか、そういうことを考えているわけではない、決して。ただ、彼が言っていた言葉の意味が、今になってようやく理解できた気がするのだ。自分のことを、あるいは自分の人生を好きになるために、生涯のパートナーを得たい。まさに自分も同じだったと、冨士子は今さら気づいた。

 一人で生きていきながら、自分を肯定していく道もきっとあるのだろう。習い事や趣味で忙しくしたり、あるいは仕事に熱中したり。

 離婚後、その道を模索したこともある。ピアノ教室、コーラスサークル、宅建の勉強、どれも長く続かなかった。今一つ、熱中できないのだ。人生のどこかに大事な忘れ物をしてきてしまったような思いが、ずっとあった。

 誰かと、幸せを分かち合いたい。忘れ物は、その切なる願い。それをあきらめたままでは、何をやっても自分のことを肯定できない気がする。

 だけどもう、五十二歳。半年後には、五十三歳。恋愛なんて年じゃない。友加里や翼みたいに美しくもない。それはかなわぬ夢? 

「ハハハッ、大丈夫ですよ。あきらめずに続ければ、きっと成果が出ます。努力は実るんです。俺はあきらめませんよ、ハハハッ」

 彼がそばにいたら、きっとそんなふうに明るく励ましてくれる気がした。冨士子は「よし」と小さくつぶやいてから、流しっぱなしだった水を止め、ゴム手袋をはずした。洗い物をやりかけのまま、部屋に戻ってスマホを手に取った。

 婚活バスツアーのサイトを開くのは、友加里と剣介のインタビュー記事を見たとき以来だ。ずらずらと並んだツアーの催行スケジュール一覧を見て、どうせうまくいかない、といういつもの言葉が、つい口をついて出そうになる。

 首をふって、その呪いを振り払う。そうだ、また誰にも言わずに参加すればいい、結婚相談所のときと同じように。そうすれば、たとえうまくいかなかったとしても、すべてなかったことにできるのだから。

 

 その日から、揚げ物は一切とらず、夕食は白米抜きにした。白髪も染めたし、服も買った。ネット通販の安物ワンピースだが、日出子の家のカーテンみたいな、目のさめるようなレモンイエロー色で顔が明るく見えるし、何より体型隠しもばっちりのデザインで気にいっている。

 準備万端で迎えた七月上旬の水曜、朝七時半過ぎに新宿センタービルの出口から外に出ると、バケツどころか風呂桶をひっくり返したようなどしゃぶりの雨が降っていた。思わず「やっぱりね」とつぶやく。この間、「あんたは天性の雨女」と日出子に笑われたばかりだった。

 ツアーガイドは男性で、カッパ姿でバス前に立っていた。受付を済ませると、冨士子は早々にバスに乗車することにした。

 渡された番号カードには11番と書いてある。ガイドによれば、平日にもかかわらず男性二十二人女性二十二人で満席、キャンセル待ちも多数という人気ぶりらしかった。

 座順は前回参加したときと同じ。右側前方から1番がはじまり、ぐるっと一周する。男性が通路側で女性が窓側。11番はおそらく最後尾に近いあたりだろう。奥に向かって歩いていきながら、冨士子ははっと足をとめた。

 勝男がいる。

 人違いではないかとすばやくその男の全身を検分する。あの綿パン。よそいきのパンツはあれしか持っていないのか、デートのときに毎回はいていた。勝男で間違いない。

 奥から一つ手前の、通路側の席に座っている。何か悩み事でもあるのか、あるいは宇宙の起源についてでも考えているのか、ずいぶん険しい顔をして窓の向こうをじっと見ている。しかし、冨士子はもう気づいていた。彼のほうが先に気づいていながら、気づかないふりをしているということを。

 思わず、バスの天井を見上げた。前のツアーの参加者と鉢合わせしないよう、わざわざ休みをとって平日にしたのに。よりによって、もっとも会いたくない人と一緒になってしまうなんて。でも、ここで逃げるわけにはいかない。何より参加費16000円がパーになる。冨士子は小さく息をつき、覚悟を決めて奥へ向かって進みはじめた。問題は座っている位置的に、彼も同じ11番かもしれないということだった。

 勝男が10番とか12番でありますように。祈りながら、ゆっくり、ゆっくり進んでいく。そのとき、彼の一つ前のシートの肘かけに、10番と書かれた丸いシールが貼られているのが視界に入った。

「……こんにちは」冨士子は腹をくくって明るく声をかけた。「奇遇ですね」

 勝男は大げさに目を見開き、今気づいたというようなクサい芝居をうった。「わあ、びっくりした。どうも、どうも」

「さらに奇遇なことに、わたしも11番なんです」

 渡された11番のカードを見せる。勝男は数秒の間をおいて、あわてて立ちあがった。

「ありがとうございます」と礼を言って窓際の席に座った。まだ出発時間まで二十分近くあり、座席は半分も埋まっていなかった。

 勝男のほうを、ちらっと見る。

 腕を組んで、目を閉じている。

 話しかけるな、ということだろうか。そのまま、待てど暮らせど勝男は目を閉じたまま微動だにしなかった。三分ほど過ぎて、この人はわたしと話す気が一切ないのだと冨士子は悟った。

 その後、続々と参加者が乗り込んできた。今日のツアー参加者は男性が五十二歳から七十歳、女性が五十歳から六十八歳までと、前回より年齢幅がかなり広い。しかし、男性は上限に近い人が八割ほどをしめ、女性も六十歳前後が多いように見えた。平日でも満席になるわけが理解できた。

 やがて、出発時間になった。ガイドがマイクを通して挨拶すると、盛大な拍手がわいた。バスが雨のカーテンを切り裂くように走り出す。勝男と冨士子の周囲だけ、どんよりと気まずい空気が結界のように張りつめていることを、参加者の誰も気づいてはいなかった。

 

(つづく)