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 室内は荒れた様子は全くなく、それどころかダイニングテーブルにはこれ見よがしにるるぶ沖縄が置かれていた。当然、事件性があるとは判断されず、不動産会社の担当者には「はた迷惑な老人」とまで言われた。

 しかし、それから一週間たっても、千草とは連絡がつかなかった。翼は再度マンションを訪問したがやはり不在で、郵便受けの中身もそのままだった。

 京子と相談し、地元の警察に行方不明届を出した。が、もちろん沖縄まで捜索にいってくれるわけはなく、警察の見解は事件性なしのままだった。

 

 なんの進展もなく、四月になった。千草がいなくなって以来、ずっといろいろな感覚があいまいで、今が春なのか秋なのか問われても、きっとすぐにはわからない。仕事だけはなんとかこなしていたが、毎日家に帰ってくると心身ともにくたくたで、何も食べないで寝てしまうこともざらだった。土日はどこへも出かけず、ずっと寝ている。三月の土曜の集まりは見送った。寛人とも何週間も会っていなかった。でかけるのも彼の前で何もないふりをするのもおっくうに感じて、毎回ドタキャンしてしまう。ときどきこちらを気遣うメッセージが送られてきたが、返事はしないことのほうが多かった。

 警察から連絡があったのは、ゴールデンウィーク前最後の平日の午後だった。

 千草は本当に、沖縄にいた。二月の終わりから、沖縄本島で暮らしている元弁護士仲間の家に滞在していたようだ。その人は現代テクノロジーに頼らない“自然派”主義で、それにならったのか、千草のスマホは沖縄にわたってすぐ充電が切れて、そのままにされていた。

 その弁護士仲間によれば、三月の終わり頃、千草は一人で竹富島にわたった。一週間ほどで戻ってくるはずが、そのまま消息不明になった。その後どのような経緯をたどったのか不明だが、四月の半ばに、那覇市内の路上で倒れているところを通行人が発見、救急搬送された。本人は素性を自分で説明できず、病院が警察に問い合わせて、ようやく翼のところにいきついたのだった。

 連休直前だったが、この物価高と航空運賃費高騰のおかげでチケットは難なく取れた。京子と二人ですぐに沖縄にわたり、千草と面会した。

 そこには、飛行機内で何度も何度も想像した通りの千草がいた。

 衰弱して、顔は土色で、京子のことも自分のこともわからない。栄養失調気味ではあったものの、幸い大きなケガはなく、命にも別状はなかった。しかし病院の認知症専門医によれば、かなり進行の早い認知症を発症していて、もう家には帰さず、このまま施設へ入れたほうがいいとのことだった。

 途方にくれる翼たちの前に、まるでスーパーヒーローのように現れたのが、幸雄だった。幸雄とは二月に和解していた(突然、菓子折りを持って翼の職場に現れて土下座した)。千草のことを相談すると、その豊富なコネを利用して、横浜にあるとてもきれいな施設に、連休明けてすぐに入居できる手筈を整えてくれたのだ。

 翼はその前に一旦、東京に戻り、千草が持っていた鍵を使って、再度マンションの室内に入った。同行した幸雄が、洋服タンスの一番上の引き出しの中から、通帳やら印鑑やら保険会社の書類やら一式そろったファイルを見つけ出した。その場でさっと見分した幸雄によれば、保有資産は十分にあり、もう少し豪華な施設に移っても問題ないほどだとのことだった。

 幸雄は施設入居の際にも沖縄まで一緒に来て、最後まで付き添ってくれた。そればかりか、送迎の車や荷物の配送の手配も引き受けてくれた。おかげで年内中に最低三回は見合いをセッティングしなければならなくなったが、そんなものはお安い御用だった。

 五月の半ばの金曜の午後、幸雄に紹介された司法書士との最初の打ち合わせもがあった。マンションの処分や後見人の手続きなどやることは目白押しだが、翼はようやく一息ついた気分だった。帰りに久しぶりにオトワフジヤに寄り、散々迷ってモンブランとミルクレープを購入した。

 店の外に出てはじめて、今日の陽のまぶしさに気づいた。なんてあたたかくてさわやかな風なのだろう。なぜかわからないけれど着ているウールのアウターを脱いだ。それでもまだ暑い。なぜかわからないけれど薄手のニットを着ているせいだ。今朝、何を考えてコーディネートを決めたのか、全く思い出せない。

 家までの道を、少し、本当にほんの少しだけ浮わついた気分で歩く。ここ数日、あまりにあわただしくて、まだいろいろと整理がつかない。千草のこと、自分のこと。じっくり考える必要がある。でもその前に、丁寧に淹れた紅茶とおいしいケーキを食べながら、久しぶりに一人でゆっくりくつろぎたい。

 最後の角を曲がる。そして、すぐ気づいた。マンション前で野良犬みたいにぐるぐるまわりながらうろついている不審者。寛人だった。

「つーちゃん!」

 翼に気づくと、子供みたいに言ってこちらに駆け寄ってきた。髪の毛はいつも以上にぼさぼさで、無精ひげも伸び放題。着ているTシャツはいつも部屋着にしているものだった。

「ど、どうしたの」

「どうしたじゃない! 何日も連絡ないし、すごく心配したんだよ。連休中、どこにいってたの」

「あ、えっと……」

 どう説明しようか迷う。しかし迷っているうちに翼はもう何も言えなくなった。寛人がその場でしくしく泣き出したのだ。

 何はなくとも、道端で軽く説明できる内容じゃないのは確かだった。寛人を家の中に案内し、とりあえず紅茶を二人分淹れてから、これまでの経緯を話した。

 翼は無自覚だったが、千草が沖縄で見つかったと連絡があって以降、寛人からのメッセージを全件未読スルーしていた。翼を案じた彼は、連休中は何も手につかずやきもきして過ごし、連休明けに翼の会社に直接問い合わせて、今日まで休暇をとっていることを確認したという。しかし、その情報で翼の無事が確約されたわけではない。それで今日、昼過ぎに仕事を終えるとすぐここへやってきて、ずっと外で待っていたらしかった。

「何かあったんじゃないかって、もう心配で心配で、気が気じゃなかったよ」

 寛人はまた涙目になった。翼は思わず笑ってしまった。ここ数カ月、ずっと千草の安否が気がかりで生きた心地がしなかった。まさか自分がほかの人に同じような心配をかけているとは夢にも思っていなかった。

「笑い事じゃないよ」と寛人は口をとがらせた。「でも、何にもなくてよかった」

 ようやく落ち着いたらしい彼は、翼が出したミルフィーユ(本当は翼もミルフィーユのほうがよかったが今日は彼にゆずった)を三口で食べ終えた。鼻水が少し出ていたので、お母さんのようにティッシュで拭ってやる。

 その後、なんだか二人ともぐったりと疲れてしまい、翼はベッドで、寛人はソファで仮眠することにした。翼が起きたとき、夜の八時を過ぎていた。寛人は先に起きて、ソファにぼんやり座っていた。電気もつけずに、暗闇の中で。

「散歩いこう」彼は言った。

「うん」と翼は答える。

 寝ている間に少し雨が降ったのか、アスファルトはしめっていた。寒くもなく、暑くもなく、歩くにはちょうどいい風と夜空の半月。二人で夜の散歩をするなんて、もう何年振りだろうと思ってすぐ、我ながら間抜けな発想に笑う――まだ付き合ってから、二年もたっていないじゃない。寛人が翼の手をとって、ぎゅっと握る。

「さっき寝ながら、考えた。俺は自分が倒れたときの備えとしての結婚はしたくない」妙にはきはきとした口調だった。「というか、結婚はやっぱりしたくない。誰とも一緒に暮らしたくない」

「わたしでも?」と翼は彼の顔を見上げて聞いてみた。「わたしとでも、結婚したくないの?」

 すると、寛人はバカにするようにハハッと笑った。「冗談は吉田照美。そもそも、つーちゃんのほうが嫌なんじゃん。結婚も同棲も」

 そうなのだ。翼も今になって、しみじみ感じていた。

 たとえ老後が怖くても、自分が全く違う自分になってしまう日が来るとしても、やっぱり今の生活は変えたくない。毎日一人で寝たいし、好きなときに好きなものを食べたいし、二人分のお皿洗いも洗濯もしたくない。ときどき不安で、ときどき無性にさみしいけれど、でも、今の自由が何より愛しく大切だった。

 それは、無計画で身勝手な願望なのだろうか。いつか破綻する可能性が高い。そのとき、他人に迷惑をかけることも十分ありうる。それがわかっていても、一人でいることを選ぶのは、悪いことなのだろうか。間違っているのだろうか。

「俺はでも、つーちゃんが倒れたら、面倒見てもいいと思ってる」

「え?」

「もしケンカ別れとかしちゃって、お互い大嫌いで憎みあっちゃってたら、別だけど。もしもう付き合うとかじゃなく、友達同士になっても、つーちゃんに何かあったらできるかぎりのことはするつもり。だから、心配しなくていいよ」

「どこまで信頼できるの? それ」

「信頼なんて、結婚で保証されるものでもないでしょ」

「そりゃそうだ」

「俺らは、俺らのやり方で支え合っていけると思う」

 なぜだかふいに泣きそうになって、だから翼は「つわものどもが夢の跡だね~」とうたった。千草の十八番だ。

「ねえ、その昔にアン・ルイスが起ち上げたファッションブランドの名前、なんていうか知ってる?」寛人が言った。

「知るわけないでしょ」

「当ててみて。三文字で、表記はアルファベットで、女性にまつわること」

「ははーん、何か卑猥なこと言わせようとしてるでしょ」

「アン・ルイスがそんな単語、自分のブランドにつけるわけなくない?」

「えーっと……うーん、あ、わかった! そのままズバリ、オンナ!」

「おしい! 正解はオナゴです。やったぜ、晩飯つーちゃんのおごりね」

「そんな約束した覚えないけど」

 そう言いながら、またなぜか泣きたくなって、翼はああ、やだやだと思う。最近、妙に涙もろい。年をとるって本当にイヤだ。

 

(つづく)