集合場所の新宿センタービル前に着いてすぐ、川原友加里は手のひらに「人」の字を書いて呑み込んだ。

「ああ、緊張するなあ」

 そうつぶやきながら、友加里はあたりを見渡す。ざっと十五人近くの中高年層の男女が、新宿センタービル前のあちこちで所在なげに立っている。そのとき、ビル側の植え込みの前で、自分に向けて手をふっている二人組の女性を見つけた。

「友加里さん、こっちこっちー!」手をメガホンのかたちにして翼が呼びかけてきた。

「おはよう、二人とも早いわね」

「あの緑色のジャケットを着た人がガイドさんよー」と冨士子が教えてくれる。「先に受付してくるといいよ」

 友加里は言われるまま、ガイドの女性に声をかけにいった。身分証の確認などを済ませると、女性は「バスがまだきてないんですよー。なので、このあたりでお待ちくださいね」と感じのいい笑顔を向けて言った。

「友加里さん、どう思う?」二人のところへ戻ると、冨士子がちょんちょんと腕をつつきながら声をかけてきた。

「何が?」

「翼さんのお洋服よ」

 そう言われて、気づいた。上はピンクのアンサンブルニットで、下はショートパンツだった。

「ええ! 脚出してる!」

「いいじゃない」と翼は唇を尖らせる。「タイツ履いてるし」

「いや、タイツとかそういう問題じゃなくて、ごじゅ……」

「どういう問題?」

「ううん、なんでもない。素敵、とっても似合ってる」

 友加里は「五十歳過ぎて」という言葉を呑み込んで、代わりにそう言った。お世辞ではなく、本当に似合っていたし、すらっと伸びたまっすぐの脚は美しかった。いいじゃないか、五十歳がショートパンツを履いたって。すぐに年齢を気にしてしまう自分が、少し恥ずかしくなる。

「だって、わたしはあんまりやる気ないって、この間は言ってたのに」と冨士子は口をとがらせる。

「やる気ないとは言ってないよ。期待してないって言っただけ」翼が言う。「でも、何が起こるかわからないからね。横浜流星にそっくりの五十代に出会えるかもしれないし」

「冨士子ちゃんだって、そのワンピース、かわいいよ」と友加里は言った。「ワイン色が秋らしくてとってもいい」

「これ、ネットで買って二千円、ぐひひ。このゆったりシルエットがさ、中年太りの腹と尻をうまく隠してくれるんだよね」

「うん、いいチョイス。わたしなんて……ジーパンなんか履いてきちゃった。上もパーカーだし」

 よくよく周りを観察すると、ほとんどの女性がスカートかワンピース姿だった。今日はくだもの狩りをしたり、滝や寺を散策したりすると聞いていた。だから、動きやすく汚れてもいい服を選んだのだ。しかし、動きやすさなんかより、優先すべきことはほかにあったということ。よく考えたら、いや考えるまでもない当たり前のことだった。

 何せ、自分たちはこれから“婚活バス”に乗るのだ。

 友加里にとってははじめての体験だ。そもそもつい先週、齢五十四にして、人生初の婚活パーティに参加したばかりだった。

 それは男女とも四十五歳から六十歳まで参加可能のパーティで、下の娘の花梨が「年齢幅が広いほうが、いろんな人と出会えていいんじゃない?」とすすめてくれたものだった。しかし、実際は参加者の年齢層がかなり低いほうに偏っていて、カップルになれないどころか、誰からもアプローチされずに終わってしまった。意気消沈しながら会場を出て乗ったエレベーターで、同じパーティに参加していた翼と冨士子と一緒になり、そのままなんとなく三人で駅まで歩く道中、誰からともなくお茶しませんかと誘い合った。そして目の前にあった椿屋珈琲に入って約三時間、それぞれ初対面にもかかわらず、互いの恋愛や結婚、婚活にまつわるヒストリーをすべて把握し合うほど意気投合した。その結果、次は三人で、今、メディアで話題の婚活バスツアーに参加してみようという話になったのだった。

 翼と冨士子は、ともに友加里より四歳年下の、ちょうど五十歳。デザイン会社に勤める翼は三十代前半から四十代半ばまで長く婚活をしていたらしいが、結婚歴はなく、恋人も五年以上いないという。姉とともにお弁当屋さんを営んでいる冨士子は、バツイチ子ナシ。三十五歳で別れた前夫は、酒も女もギャンブルもやる上に借金持ちと、本人いわく「クズの数え役満男」。友加里自身は十五歳年上の夫と八年前に死別した。子供は夫の連れ子と実子の二人。

 三人とも、境遇も性格も見た目の印象もまるで違う。しかしどういうわけか、椿屋珈琲のテーブルを囲んだときから、なんでも気兼ねなく話せる昔からの仲間のように友加里には感じられ、それがとてもうれしかった。二十六歳で結婚してすぐ子育てがはじまり、夫が脳梗塞で倒れてからは介護にも追われ、自分の時間などほとんど持てない暮らしが続いた。いつしか、友達付き合いも完全に途絶えてしまっていたのだ。

「あ、わたしたちのバスがきたみたい」

 冨士子が言った。道の向こうから、メタリックな銀色に塗装された大きな観光バスがやってくるのが見えた。

 ガイドの女性が、腕を振りながら周囲の人に乗車を呼び掛けはじめていた。友加里はバスのそばまで近づき、改めてそのギラギラきらめく車体を見上げた。どことなく巨大な虫のようでもあり、妙に不気味だった。今日は一体、こいつにどこへ連れていかれるのか。なんだか少し恐ろしいような、それでもどこかわくわくするような。

 夜、この場所へ帰ってきたとき、自分はどんな気持ちでいるのだろう。

「友加里さん、ぼーっとしてないで、早く乗って」

 翼に言われて、二人に続いて急いでバスのステップに足を乗せながら、友加里はまたこそっと手のひらに「人」を一つだけ書いて、呑み込んだ。

 車内の座席には番号がふってあり、女性は自分の番号の窓際の席に座るよう指示されていた。友加里は10、冨士子は9で翼は11。

 10の通路側の座席には、まだ誰もいなかった。なんとなくほっとしながら着席する。その後、続々と人が乗り込んできた。

 ややハゲ、帽子、ややハゲ――乗り込んでくる男性たちの頭髪の様態を、心の中で分類していく。花梨に「出会いを求める五十代男性たちのフサフサとハゲの割合を知りたい」と言われていたからだ。二十代半ばの女の子がなぜそんなことに興味があるのかは、よくわからなかった。正直、友加里はどうでもよかった。五十も過ぎて、今更、男の髪の量なんて……。

 そのときだった。

 ひときわ毛量の多い男性が乗り込んできた。つやつやの黒髪が車内の空調になびいて、きらめくようにそよいでいる。背はそれほど高くない。けれど、すらっとしていて腹も出ていない。黒の細身のパンツをきれいに穿きこなしている。誰かに似ているような……と考えてすぐに気づいた、真田広之だ! わ! そっくり! 心の中で叫び声をあげた次の瞬間、その男性が友加里に向かって笑いかけてきた。

「おはようございます」

「あ、おは、おはよう、ございます」

「ここ、11番ですよね」 

「あ、違います、10です」

「失礼」

 彼はさっと目の前から消えた。続いて現れたのは、額の生え際が頭頂部まで後退した小太りの男性だった。

「どもども」

 首に巻いた白いタオルで額をぬぐいながら、彼は友加里の隣にどかっと座った。

「いやあ、もう十月なのに、毎日暑いですねえ」

「え? そうですか? 最近、だいぶ涼しいと思いますけど……」

「僕、暑がりの汗っかきで。すみません、どもども」

「みなさん、おはようございまーす」

 そのとき、ガイドの女性の元気な声が、マイクを通して聞こえてきた。

「今日はなんと、全員時間通りに集合していただきました。素晴らしいです! ありがとうございます。その上、こちらのバスは、男性十二名、女性十二名の満席となりました。わたくし、今日一日みなさまとお付き合いさせていただきます、山田美紀と申します。ミキ姉と呼んでいただければ幸いです。では、最初の目的地のレストランまで、出発でーす」

 やがて、バスが走り出した。

 

 発車後すぐ、今日の行程や車内での進行についての説明があった。最初の目的地である群馬県沼田市の農場レストランには昼前に到着予定で、その後、シャインマスカット狩りや周辺の観光名所散策へと続く。移動中の車内では男性が五分ごとに席を移動しながら、男女一対一で会話をしていくのを、新宿帰着まで可能な限り繰り返すという。互いのプロフィールは事前登録した専用アプリで確認できるようになっていて、相手へのアプローチなどもすべてアプリを通して行う仕組みになっていた。

 今、バスは関越自動車道を走っている。出発から数十分過ぎ、すでに十人の男性と話をした。アプリのそれぞれのプロフィールページにメモ書き欄があり、ミキ姉が「今日は一度にたっくさんの異性と出会うことになりますのでね、ぼーっとしてると誰が誰だかわからなくなっちゃいます。ですので、話した内容や印象などこのメモ欄に書き込んだりして、ぜひ活用してください」と言っていたのだが、席移動があわただしすぎるのと、アプリの操作方法がいまいちよくわからず、友加里は一言もメモを残せていなかった。

 よって、もうすでに誰が誰だかわからない。

「終了でーす! では男性は席を移動してください」

 今まで話していた男性(趣味はトレーニング、五十代にして腹筋が六つに割れていると自己申告アリ)に「ありがとうございました」とあいさつをしたあと、スマホを両手に持って人に見られないようにしながらアプリを開こうとしたが、なぜかアプリの画面がどこかにいってしまってすぐに見つからない。そうこうしているうちに、次の男性が隣に着席した。

「どうも、12番のヨシヒロです」

「あ、えっと10番の友加里です。は、はじめまして」

「はじめまして。いやあ、なんだか座ったり立ったりまるで屈伸運動ですよ。デブにはきついっす。ていうかこのバス、暑くないですか?」

 彼は首に巻いた手ぬぐいで、てかてか光る顔をぬぐった。あれ? この人、すでに一回話してないっけ? ていうか最初に隣にいた人じゃない? と混乱しかけたとき「みなさーん」とミキ姉の声が車内に響いた。

「席を移動していただいたばかりですが、ちょうどサービスエリアに到着しましたので、ここで先に休憩十五分、お時間とらせていただきます」ミキ姉がマイクを通して言う。「その前に、ちょっと大事な話をさせてください。アプリのトップページに戻っていただくと、第一希望から第三希望まで、カップルになりたいなーっと思ったお相手を選択する欄があります。お相手とうまくマッチングすればカップル成立となりますが、これ、旅の最後にやると決まってるわけじゃありません。今すぐやってもらって全然大丈夫です。ぜひぜひ積極的に行動してください。ではいってらっしゃーい」

 みんなでゾロゾロとバスを降りる。手洗いを済ませ、少し売店を冷やかしたあと、外のたこ焼き屋の前で翼と冨士子と落ち合った。

「なんだかお腹すいちゃって」どこで仕入れてきたのか、冨士子はすり身あげのようなものをむしゃむしゃ食べている。「で、今のところ、二人はどんな感じ?」

「うーん」と翼は腕を組む。「思ったよりいいかも。『うわー変な人』って感じの人が、意外といない。この手のイベントって、大抵一人か二人はいるものだけど」

「あ、わかる」と冨士子。「やっぱりさ、若い子目当ての人がいないのがいいんじゃない? 翼ちゃんの判断正解だったね」

 椿屋珈琲で翼は「募集年齢が幅広すぎるやつはダメね。年下狙いの変な人が多すぎ。同世代の相手を探してるまともな人が集まりそうなイベントを探さなきゃ」と言っていたのだ。その結果、この五十代限定のバスツアーに申し込むことになったのだった。

「で、友加里さんはどう?」翼が聞いた。

「わたしも、思ってたよりいい人が多くてほっとした。ただ、次から次に人がくるから、もう誰が誰だか……」

「ちゃんとメモ書きしてる? ユキ姉が、書いてくださいって言ってたでしょ」

「いや、それが使い方がよくわからなくて。わたし、スマホのこういうの、苦手なの」

「ダメダメ。今どきは五十代でもデジタルデバイスを使いこなさなきゃ、再婚もできないのよ? わたしはちゃんと一人一人、話した内容とか書いて忘れないようにしてるから、ほら」

 翼は自分のメモ書きをいくつか見せてくれた。「温泉 酒飲み」「Eサッカー」「軽井沢別荘 うそかも」「6パック 毎日走る イケメン」「口臭い でもえらい」などとそれぞれ書いてある。

「このEサッカーのEって何?」冨士子が聞いた。

「ヨーロッパのEよ。ヨーロッパサッカー見るのが趣味だって話してた人、いたでしょ?」

「いたいた。この口臭い人って、グリーンのシャツ着てる人?」

「あ、そうかも。えーっと、5番のフミさんね。大企業の本部長やってるって言ってた人。まあ、歯周病はね、そういうお年頃だからね。歯磨き指導してあげればいいからね」

「あ、この熊本県出身のクマさん、わたしもイケメンだって思った」

「腹筋割れてる自慢のクマさんね。あの人は一番人気候補だねー」

 二人の話を聞きつつ、友加里は誰一人ピンとこなかった。サッカーの話をしていた人がいたような気がするし、体を鍛えているスレンダーな人とついさっき話したような気もする。が、はっきり思い出せない。初対面の人と会話するとき、感じよくしよう、その場をいい雰囲気にしようとそればかりに必死になって、相手の話にきちんと耳を傾けられないのは、長年の自分の悪い癖だった。

「ねえ、翼さん。そのメモ書き、どうやるの?」友加里は言った。「教えてくれる?」

「えーっとね、アプリ開いて、見せてみて」

 友加里はそのままスマホを翼に渡した。翼は数回画面をタッチしたあと、「わ!」と声をあげた。

「ねえ、友加里さん、もうすでに三人からアプローチきてるんだけど」

「ええ?」

 画面には男性参加者の名前の一覧表が出ていて、横にハートマークがついている人が、確かに三人いた。

「これ、この人があなたを第一希望から第三希望のどれかに登録してますよってサイン。2番のクマさんと5番のフミさんと8番のケミカルさん」

「クマさん?」と冨士子。「わ! すごい」

 友加里はなんと言ったらいいのかわからなかった。何かの間違いとしか思えなかった。

「まあ、想定内ではあるね」と翼が訳知り顔になる。「わたし、後ろから見てたけど、友加里さんって本当に感じがいいの。たくさん笑って、リアクションもいいし」

「あ、わかる」と冨士子。「友加里さんの笑い声、後ろからすごく聞こえてたよ。そうかー、やっぱり女は五十過ぎても愛嬌なのね」

「ねえ、友加里さんってさ、若いときもすごくモテたでしょ?」

「いや、そんなことは……あ、ユキ姉が呼んでる。もう三分前だよ」

 バスの乗車口の前で、ユキ姉がこちらに手を振っていた。三人でいそいそと乗車すると、すでに全員揃っていて、すぐにバスが再出発した。

 

(つづく)