……というのは、全くの思い違いだった。
開始前の練習ではそこそこうまくできた。しかし、いざプレーがはじまるとしょっぱなのティーショットから空振りの連続、その時点でたまらないほど家に帰りたくなった。やっと当たったと思ったら次はバンカー地獄。それをなんとか抜けて、いろいろなズルを見逃してもらいようやくグリーンにのせたら、比較的得意だったパターが何度やっても外れる不思議。その上、自分と同じ初心者だと思っていた友恵が、はるかに上手だったのもショックだった。それでも、気のいい和樹夫妻はずっと友加里を明るくはげまし続けてくれた。しかし――
「あ! もう!」
「なーにやってるんだよ!」
「そうじゃないって言ってるだろう!」
剣介の苛立った声が飛ぶたびに、二人は気まずそうに言葉少なになっていき、いつしか友加里のほうをあまり見てくれなくなった。
怒られるごとに、友加里は正常な思考力を失っていった。とにかくひたすら耐えてこのくそみたいに重い鉄の棒を振りまわしつづけていれば、いつかは家に帰れる、そうしたら一人でゆっくり、サッポロ一番塩ラーメンを食べられる、次第にそのことしか考えられなくなった。それで余計にうまくいかず、空振りを繰り返し、剣介の苛立ちはつのるばかり。「あー! もう!」「あー! もう!」「あー! もう!」という剣介の声が、何かのサイレンのように繰り返し響いた。途中の昼休憩は全員、ほぼ無言だった。
もはや自分が何を目的に鉄の棒を振りまわしているのかいよいよわからなくなった頃、ようやく終わりを告げられた。自分のスコアも聞いたが耳から耳へすり抜けた。クラブハウスに戻ってからは、剣介との今後に思いをめぐらせ、必死に涙をこらえていた。
別れるしかない。
彼がこんなにも怒りっぽい人だとは思わなかった。ゴルフがうまくできないぐらいで、あんなにもイライラして声を荒らげるなんて。ときどきちょっとバカにされたり、見下すような態度をとられたりするのは、まだ許せる(いや、多少はむかつくけれど)。怒鳴られるのはどうしても耐えられない。
今でこそ八十を過ぎてすっかりおとなしくなり、入居している施設の人気者らしい友加里の父は、昔は気が短くて怒鳴ってばかりいた。とくに母に対してやたらと厳しく、シャツに皺が寄っているとか、箸を出し忘れたとか、そんなちょっとしたことで怒り、ときにはたたいたりもしていた。母が六十七歳のときに脳出血で突然死したのも、父のせいでたまりにたまったストレスが原因に違いなかった。だから友加里は、気が短い人とだけは絶対に結婚したくなかった。父のあの、しらない国の謎の鳥みたいな奇怪な怒鳴り声を思い出すだけで、吐き気がする。あんな人と暮らすなんて、とても無理。
クラブハウスのシャワールームで汗を流し、着替えを済ませると、和樹たちとは駐車場で別れた。帰りの車の中で二人きりになってしばらくの間、友加里は言葉を探っていたが、意を決して切り出した。
「わたしもう、あなたとは……」
「ねえ夕飯、どうする?」
「……えっ」
「どこか寄ってもいいけど、道が混むかもしれないし、とりあえず先に都内に戻ろうか。そうすると夕飯遅くなるけど、友加里さんそれでもいい?」
まるでなんにもなかったかのような口ぶりに、友加里は戸惑いつつも「うん」とだけ答えた。すると剣介は左手をこちらに伸ばして、友加里の右のふとともにそっと置いた。
「今日は疲れたでしょう。やっぱりハーフにしとけばよかったかな。和樹がそれじゃ物足りないって言うからさ、ごめんね」
友加里はまた「うん」とかすれた声で答えて、窓の向こうを見た。日はもうかなり落ちて、秋の山々が朝とは違う暗い顔つきをしている。
彼は本当に、何もなかったことにしようとしているのだ。ただちょっとイライラして、いつもよりきつく声を荒らげただけ。もし友加里が何か文句を言ったら、こんなことですねているそっちのほうが大人げないと笑うかもしれない。
……でもきっと、彼が正しいのだろう。だって。五十もすぎたおばさんがほんのちょっと怒られただけでめそめそ泣いて、誰が同情してくれるというのか。若い女の子じゃあるまいし。
それにしても、仕事で利用者に怒鳴られたり文句を言われたりしても平気のへっちゃらなのに、なぜ剣介相手だとささいなことでこうも情緒不安定になってしまうのか。そう思ったところで、いつだか翼が言っていたことが脳裏によみがえった。
「友加里さん、男のことで泣いたり笑ったりできるって、間違いなくいいことよ。だって感情が揺れ動くって、まさに若さよ。年取ると、たいていのことはどうでもよくなっちゃうでしょ。それじゃあダメ、ますます枯れるばかり。我々中高年女性からしたら、男と付き合うって同時にコラーゲン生成してるようなものよ」
その独特な言い回しに、つい思い出し笑いをした。友達のおかげで、悲しい気分もすぐにどこかへ飛んでいってくれる。
……のだとしたら。
この年で男と付き合うって、本当に必要? 好きでもないゴルフを我慢してまで、キープする価値ある? 友達とおしゃべりに興じているだけでも、十分に感情の起伏がある。
それなら、友達さえいれば……でも、一人はやっぱりさみしい気も……。
そのときふいに、ふとももをつかむ彼の手の力が強くなった。こちらの思いを、テレパシーで読み取ったのかと友加里はぎくりとした。
気づくとさらにまた日は落ちて、周囲の景色は夜のわびしい色に塗りつぶされつつあった。途中、渋滞に巻き込まれはしたが、七時過ぎには都内に戻ってこられた。剣介のマンションの近くにある二人がお気に入りのブラッセリーで食事をして、そのままその日は彼のところに泊まることになった。
夜、行為のとき。普段よりも彼のしぐさ、言葉、手つき、息遣いに情熱のような、そんなようなものがこめられている気がして、でも、友加里は自分でもよくわからなかった。彼の火照った肌はうれしくて、けれど一方、自分の体はどこか冷えていて、その最中、頭の中には明日帰宅してから食べる予定のサッポロ一番塩ラーメンのことばかりが浮かぶのだった。
翌朝は案の定、全身筋肉痛に見舞われた。「次の日に出るなんて、友加里さん、若いね。さすが仕事で体を動かしているだけある」と剣介は妙に感心していた。一緒にランチはどうかと誘われたが断り、這う這うの体で帰宅するとサッポロ一番を作る気力もなく、ソファに横になった。
あっという間に眠りに落ち、約二時間後、剣介からの電話で起こされた。
「大丈夫? なんだかとても疲れてる様子だったから気になって。起こしちゃったかな、ごめんね」
寝ぼけつつもつい頰をゆるめてしまいながら、「うん、大丈夫」と答えた。昨日は泣いたり悲しんだり感情がせわしなかったが、少し休んで心身が落ち着くと、彼の優しい声が素直にうれしかった。昨日は少し緊張していたし、疲れていたのかも。そういえば一昨日は利用者が脱走したり便をまきちらしたりで、いろいろ消耗していたっけ……ってわたし、ちょっと単純すぎ?
「ところでさ」と剣介。「今朝、話した件なんだけど」
「ああ、そうそう。さっき和樹さんからLINEあったよ。花梨の車検のこと、頼んでくれたんでしょ? ありがとう、たす……」
「そうじゃなくて、一緒に福岡にいく件」
友加里は口をつぐんだ。内心、そっちの話だろうと気づいていた。今朝、帰り際に突然言われたのだ。彼の母親が住む福岡に、今度一緒にいかないか、と。
剣介自身は東京生まれ東京育ちだが、まもなく七十八歳になる母親は、剣介の父親が亡くなったあと郷里の福岡に帰り、同じくすでに夫を亡くした姉と妹の三人で暮らしているという。この冬、母親の姉の傘寿と母親自身の喜寿のダブルお祝いパーティが催されることになり、それに二人で出席したいと彼は言うのだった。
――逃げ道がなくなる。
話を聞いて、友加里はとっさにそう思った。別に剣介から、逃げ出したいわけじゃないのだけれど。
「もしかして、親族に会ったら結婚しなくちゃならなくなると思ってる?」そう言って、剣介は笑った。「そんなことないから、もっと気楽に考えてよ。うちの弟なんか、毎年違う女連れてくるんだから。一回挨拶したぐらいで結婚するなんて、誰も思わないって」
彼の弟は成功した美容外科医で、五十前にしていまだに派手に遊んでいるという話だった。友加里は「うん、わかった」と小さな声で答えた。
「それで、涼子も一緒にいきたいって言ってるんだけど、同行していいかな。一日、三人で観光とかしない?」
「もちろん、全然大丈夫」
彼の娘の涼子とは、まだ一度も会ったことがなかった。薬剤師の資格を持ち、大手ドラッグチェーンの正社員である彼女は、今は転勤先の大阪で暮らしている。
「今日か明日には日程決まると思う。また連絡するね」
剣介との通話が終わってすぐ、下の娘の花梨から電話がかかってきた。出るなり花梨はこう言い放った。
「ママ、わたし仕事辞めたー」
「……え!」
五十を過ぎてこっち、一番の大声が出た気がした。この一回の叫びで、喉に激痛が走ったほどの。
花梨は国立大学を卒業後、超大手デベロッパーに新卒で入った。誰もがうらやむ高給取りというやつだったはずだ。
「なんで? ねえ、なんで? うそでしょ? 辞めたの? これから辞めるの?」
「もう辞めた。実はもうだいぶ前に退職届出してた」
友加里は思わず天井をあおぎ、手で顔を覆った。この子ったら、二十五歳も過ぎてまだこうなの? 相談もなく勝手に大きな決断をして、いつも事後報告。高校入学前日にピアスの穴を五つも開けたときも、二十歳の誕生日に尻にタトゥーを入れたときも、大学三年の夏に出家すると言い出したときも(親族一同で全力阻止し、ぎりぎりで回避)全部そうだった。特に変な子育ての仕方はしなかったはずだ。偏った政治思想を植え付けたり、極端にリベラルな本を読ませたりもしなかった。友加里も夫も、ごくごく平凡な庶民だったのだ。自分で産んだ唯一の子なのに、花梨のすべてが友加里はずっとわからない。
「辞めてどうするの?」
「決めてない」
決めてはいるけど、言う気がないのだ。もうため息すらでない。起業するのか、あるいは政党でも立ち上げる気か。もしくは、すでに妊娠していて臨月であっても全くおかしくない。それが花梨だった。
「ねえママ、わたししばらく暇だから、二人で旅行いこうよ」
その言葉に、ほっと小さく息をつく。少なくとも、臨月ではなさそうだ。妊娠していないとは限らないが。
「あ、じゃあ、一緒に福岡いく? 実はね……」
剣介のことを話すと、花梨は二つ返事で了承した。これまで多忙なエリートサラリーマンだった花梨は、まだ一度も彼に会ったことがない。いい機会になるかもしれなかった。
その晩、剣介から再び電話があって、傘寿&喜寿パーティの開催日が年明け一月半ばに決定したと告げられた。友加里が花梨のことを話すと、なぜか剣介はしばらく黙り込んだ。
「……どうだろう。人数はもう増やせないかもしれないなあ」
「あ、お祝いパーティにまで呼んでくれなくても大丈夫。一緒に福岡いくってだけ。あの子ね、最近、会社辞めて暇してるんだって。せっか……」
「えっ辞めたの?」
「そうなの。あんな大手に受かるなんて奇跡みたいな……」
アハハハ、と剣介は笑った。あまりに高らかな笑いに、今度は友加里のほうが驚いて黙り込んだ。
「そうなんだ、アハハハ。そういうことなら、はやく言ってよ。そうだね、まあ、しらないバアさんの長生き祝いなんてしたくないよな。じゃあ、みんなであちこち観光しよう。楽しみだね。チケットやホテルはこっちで手配するから、リクエストがあれば言ってね」
剣介は上機嫌のまま電話を切った。
――完璧おじの本性を、ついにこの目で確かめられるわけね。
花梨がさっき、電話で言っていた言葉。友加里は小さく首を振り、スマホをテーブルにおいた。