今日はお疲れさま。明日、午前中に娘が荷物をとりにくるので、いつもより三十分遅れの十二時集合でお願い。バスツアーの話、楽しみにしてる!

 

 明日は友加里宅での恒例のランチ会、おそらく年内最後になるだろう。あまりに楽しみすぎて、翼は思わず路上の隅に立ち止まってすぐに友加里に返信した。

 

 おやつは各自で用意の約束だけど、今回はわたしにまかせて。バウムクーヘンもらったの! 時間は了解です。

 

 それでも、こんなふうに婚活の成果を報告し合ったり苦労をねぎらい合ったりする仲間ができたわけだし、あと二、三回ぐらいやってみてもいいかも、と思う。大きなバウムクーヘンが重くて、四十肩ならぬ五十肩がきしきし痛みだした。お土産をくれるなら、もっとかさばらないものにしてほしかった。「気が利かないな」と思わず独り言をつぶやきつつ、寛人の眠たげな顔を思い浮かべる。

 

「許せない! こんなの名誉棄損だよ! 抗議する!」

 と最初に怒りの声を発したのは、当人の翼ではなく、冨士子だった。

「噓ばっかりなんて、ひどい。そもそも翼ちゃん、全然四十三歳じゃないし」

 全然四十三歳じゃないし、という表現もわたしの何かを棄損しているのでは、と少し思ったが翼は口をつぐんでいた。自分でも自分の感情にどう折り合いをつけたらいいのかわからず、勝手にリモコンを操作してテレビを消した。

 放送日が一月最後の土曜夕方とわかってすぐ、友加里宅で集まってみんなで一緒に見ようという話になった。いつも通り昼前に集まり、さんざんおしゃべりをしたあと、お茶とお菓子を用意して、準備万端でそのときを待った。そして番組がはじまり、自分の顔が画面に映し出され、その下にテロップで「瞳さん(仮名)43歳、未婚、結婚相手の希望条件:身長百八十センチ以上、年収一千万円以上、年齢三十八歳以下」と表示されたのを見た瞬間、血の気が一気に引いた。

 年の割には見た目が老けているうえに、身分不相応な条件を掲げて必死の形相で相手探しをする痛いおばさん、それが番組の中の自分の姿だった。翼は5番の弘というその場の最年少の男性を狙っているという設定にされていた。食事中もつねに弘の動向に気を配り、弘と車内で隣同士になると浮かれて相手の反応にかまうことなくしゃべりまくる。もちろん、実際は弘のことなど全く気に留めていなかったし、そもそもそんな男がいたのかさえ記憶がはっきりしない。しかし、編集でいくらでも工作できるのだ。

 特集の終盤、修善寺散策では弘と同じグループになり、なんとかツーショットに持ちこもうと彼に近づくも、気のない彼に巻かれて翼は一人ぼっちになってしまっていた。確かに当日、修善寺で翼は一人行動をしていた。誰とも話したいと思わなかったからだ。それでもせっかくここまで来たのだからと、一人であちこち見て歩き、それなりに楽しんでいた。しかし、番組の中では別の女性と二人で歩く弘のあとをハイエナのように尾行し、その後、二人を見失うと走りながら探し回っていた。確かに、修善寺で翼は走った。集合時間を間違えて、バスに乗り遅れそうになったからだ。寛人はミキ姉とともに迎えにきて「気をつけてくださいよー」なんて優しく言ってくれていたのに、実はその前にこっそり翼の姿を盗み撮りしながら、あとで笑いものにしようと画策していたということだ。

「ねえ、そのディレクターだかに文句を言うべきよ、翼さん」冨士子がそう言いながら、すでに冷めたお茶をカップからすすった。「なんだったら、わたしが代わりにそいつに電話する、本当に許せない」

「まあまあ、テレビなんてしょせんこんなものよ」翼は二人に向かってそう言った。「気にしないで」

 強がってそう言ってみたものの、胸に小さなとげみたいなものが刺さって、ため息すらもつっかえる。友加里宅を辞したあとも、もやもやした気分にとらわれたままだった。寛人に裏切られたような気持ちになっていた。彼のことを信用していた。それだけでなく、うっすらと好感を抱いてもいた。そのことを、こうなってはじめて自覚した。

 だからこそ、わざわざ抗議するのもためらわれた。すげなくあしらわれたら、きっとますます傷ついてしまう。そう思ったが、帰りの電車の中で何気なくSNSを見てみたところ、視聴者たちからの罵詈雑言が洪水のようにあふれてきて、一気に怒りに火が付いた。

 番組での自分のさまざまな表情が切り取られ、バカにされ、嘲笑われているのだった。とくに食事中に、他の女性と話している弘の様子をじっと見つめる(翼の記憶が確かならば、実際はそのとき、二つ隣のテーブルにいた男性が食事中に鼻をほじっている姿を凝視していた)翼の顔のズームアップ画面を切り取り、「このおばさんかわいそう、婚活うまくいかなすぎて眉毛がナイキのマークみたいになってるじゃん」というコメントがついたポストは、すでに千件以上もリポストされていた。

 帰宅するとすぐにパソコンの前に座り、バスツアーの日の朝にもらった寛人の名刺に記載されていた会社のアドレス宛に長文の抗議メールを送った。それでも怒りは収まらず、トレーニングウエアに着替えて家を飛び出した。むしゃくしゃは、走って押さえつけるに限る。

 ――外はどしゃぶりの雨だった。さっきまであんなに晴れていたのに。自分の機嫌は自分でとる。それが、一人で生きるということ。その難しさを、今夜ほど思い知ったことはなかった。

 

 週明け、出社すると社内中の人に声をかけられ、ほめちぎられた。

「さっすが翼さん、演技派だわ」

「テレビ見ながら、ずっと腹抱えて笑ってたよ」

「あの服装も受け狙いでやったんでしょ?」

「元演劇部だっけ?」

「今後は仕込みエキストラとして飯食っていけるんじゃない?」

 みんな口々にそんなことを言った。社内の誰もが、番組は真実ではないとわかっているようだった。一番仲のいい同期に聞いてみたところ、彼女は「だってえ」と訳知り顔で笑いながらこんなことを言った。

「あんたが振られてた相手、何あいつ。あんなだっさい服着た変な男のこと、あんたが好きになるわけないじゃん? 仕込みバレバレだよ」

 さらに直属の上司と営業部門の本部長からも直接呼び出され、番組内のでふるまいを同じく絶賛された挙句、寛人の制作会社による新番組のデザインチームのリーダーに任命したいとまで言われた。夕方帯の新番組らしく、かなり大掛かりなプロジェクトになる。

 まさに、雨降って地固まる。なんだが拍子抜けし、怒りがへなへなとしぼんだ。あんなに怒っていた昨日がバカみたいだった。世間に対し大恥をさらしたことには違いないが、そもそも知らない人になんと思われようと、どうだっていいことだった。本名がさらされたわけでもない。そんな小さなことにいちいち傷ついていたら、五十路の独身なんてやっていられないのだ。

 上司たちとの話が終わったあと、翼はスマホで自分が寛人に送ったメールの文面を見直した。これを書いた者は大層ぶちぎれている。小学生が読んでもそれがはっきりわかる文面だった。問題は、抜いた刀をどうおさめるかだった。

 

 待ち合わせ場所の渋谷TSUTAYA前で対面するなり、寛人は深く頭をさげた。

「この度はほんっとうに申し訳ございません!」

 彼の後頭部の髪は逆立っていた。もう夜の七時過ぎなのにまだ寝ぐせをつけているんだと、どうでもいいことを翼は考えた。

「実は年末から今月にかけて、僕、二回もインフルエンザになっちゃって。編集作業も人にまかせることになってしまい……言い訳なんすけど、本当に本当に申し訳ないです」

 寛人に抗議撤回のメールを送信する前に、彼から丁寧な文面でつづられた返信があった。一度会って直接謝罪したいと書かれていた。そこからとんとん拍子に話が進んで、その週の金曜の晩に会うことになった。

 インバウンド客の大波をかき分け寛人が案内したのは、小さなタイ料理屋だった。カウンター席に座り、各々好きなものを注文したあと、寛人は番組のこともバスツアーのことも一切口にしなかった。

 かわりにずっと、格闘技の話をしていた。世界最高峰の護身術として名高いクラヴマガについて、あるいは身近な文房具や生活用品を利用することで知られる韓国の特攻武術の強さの秘密、カポエイラの興味深い歴史。寛人は過去に世界の格闘技を紹介するドキュメンタリー番組の仕事をしたことがあるらしかった。しかし、単に自分の得意分野の知識をひけらかして気持ちよくなっているわけではないと、翼はわかっていた。最初に出会ったバスツアーで、翼がムエタイ教室に通っていること、けれど最近飽きてきたのでほかの格闘技を習ってみたいと話したのを、覚えていてくれたのだ。

 ただただ、楽しかった。翼が何に関心を持ったか察して適宜話題を変え、翼の間抜けな質問にも丁寧に答えてくれる。婚活で出会った男性と一対一で会話をして楽しいと思うことなんて、めったにない。天気や食べ物など当たり障りのない話しかできない男、こちらからの質問をひたすら待っている男、仕事と収入自慢男、そんなのばっかり、枚挙にいとまがない。

 でもたまに、こういうおもしろ男がどこからともなくあらわれる。たいてい既婚者、もしくは彼女持ち、あるいはまじめに誰かと付き合う気も結婚する気もない、絶対に手に入らない男。

 あっという間に閉店時間を迎え、やがて追い出しの声がかかった。会計は寛人が済ませた。食事がはじまる前に「今日は僕の払いなので」と彼が言ってくれていたので、翼は財布を出すふりはせず、「ごちそうさまです」とお礼をした。

 店を出ると、彼は翼の顔をまっすぐ見て言った。

「まだ一緒にいたいので、僕のうちで飲み直しませんか」

 一緒にいたい、そのストレートな表現にときめいたとか、きゅんと来たとか、そんなんじゃない。彼の後に続いて歩きながら、自分に言い聞かせるように思う。だってわたしは五十路のおばさん。そんなうぶさは百年前に枯れた。ただ、わたしももう少し一緒にいたいと思っただけ、本当にそれだけだ。

 

 ずいぶん歩かされた。彼のアパートの最寄り駅は三軒茶屋だった。タクシーどころかまだ終電もあったはずなのに、なぜ徒歩で押し切ったのかよくわからなかったが、とにかくさんざん歩き、アパートに着くと一缶ずつ第三のビールを飲んだ。1DKの部屋は片付いているが、色味がなく殺風景だった。それからそれぞれ風呂に入り、性行為をした。

 そして今、セミダブルのマットレスに、男と並んで寝ている。

 びっくりしている。本当にびっくりだ。ことが済んでもう三十分はたっているのに、いまだにびっくりがおさまらない。自分の身に、こんなことが再び起こるなんて想像もしていなかった。ただバスに乗っただけで、とんでもないところまで連れてこられてしまった、そんな気分。

 借りたTシャツの首元から、男の体臭と柔軟剤のまざった匂いがする。バスルームの扉が開けっ放しになっているようで、換気扇の音がぶーんと聞こえる。左腕の肌に、寛人の少しがさついた右腕の肌が当たっている。今、自分が感じているすべてが、まるで前世の記憶のようだった。

「あのー」ふいに寛人が声を発した。「明日、何時に帰ります?」

「えっと、起きたら……」

 そう答えると「えっ」と戸惑うような反応があった。翼は笑いだしそうになった。だらだら朝寝坊して長居する気だと思ったのだろう。だから早口で「あ、大丈夫、わたし最近年なのか、早朝覚醒しちゃうの。だからはやく起きて、そのまますぐに帰ります」と言った。

 反応がなかった。年とか早朝覚醒とか、余計なこと言わなきゃよかったと思う。少し寛人はみじろぎをして、触れていた腕と腕が離れた。

「あのー」とまた彼は言った。「もし嫌じゃなかったから、朝ごはん一緒に食べませんか」

 驚いて、思わず彼のほうを見た。すると彼は寝返りをうって背中を向けた。そして「翼さんさえ、よかったら。じゃあおやすみなさい」と言った。

 え……一体、何事?

 朝ごはんとか、正気?

 こんなふうに、付き合う前に男の家に泊ってしまったことは、かつて何度かある。そんなに多くはない。三度か、四度、いややっぱり三度だけ。とにかく、朝食を誘われたことなど皆無だった。ほぼ全員が、一秒でもはやく帰ってくれという態度だった。真剣交際を迫られるのだけは回避したい、という彼らの心情は容易に推し量れた。

 おばさんになった途端、こうなのか。五十過ぎのおばさんは一回関係もったぐらいでマジにならないだろうし、今更結婚にもまして出産にも焦ってないから、ちょっとぐらい優しくしてやっても大丈夫、そんなことを思っているのだろうか。

 翼は黒い天井を見つめて、声を出さずに「男って……」と独り言をつぶやいた。どこまでも身勝手なんだな。やっぱり、まじめに取り合うだけ無駄だ。

 間もなく眠りに落ち、宣言通り三時間ほどで覚醒した。スマホで時間を確かめると五時前だった。のそのそとマットレスを抜け、荷物を持って忍び足で洗面所へ行き、身支度を済ませると、そのまま寛人のアパートを出た。

 朝はまだ遠く、外は真っ暗だった。ああ、この感じも懐かしい、と思う。まだ暗いうちに男の家を出て、よく知らない街を歩く。激しい後悔にさいなまれつつ。ああ、やっちゃった。ダメだとわかっていたのに、やっちゃった。素敵だったから、もっと親しくなりたかったから、だからやっちゃった。でももう絶対、二度目はない。二十四時間営業のドラッグストアの明かりを見上げて、翼は思わずふっと笑う。あの頃のわたし、本当にバカだったな、まさにバカ丸出し。婚活失敗して当然だ。

 やがて、田園都市線三軒茶屋駅の入り口が見えてくる。家に帰って少し寝て、そのあとどうしようと考える。お気に入りのカフェでブランチでもしようかな。そのあとは、ずっと気になっているカポエイラ教室のオンライン体験レッスンをやってみてもいいかも。地下への階段をうきうき気分で下りる頃には、寛人のことなどすっかり忘れていた。

 

(つづく)