「十七、十八、十九……」と数えつつ、レクリエーションフロアの外の廊下から揉めるような声が聞こえてきて、友加里は意識をわずかにそちらにむける。
「二十! 篠田さんは四十四ね。わあ、今日も負けちゃった」
オセロの盤面の向こうで、篠田は微笑みながら腕を組んだ。
「また勝たされちゃったな。先生、今日もいいところで手を抜いたね」
「そーんなことないですよ」と言いながら、さりげなく立ち上がる。「篠田さんがお強いだけ。三回もやったし、少し休憩しましょうか」
引き留められないようすばやくその場を離れて廊下へ出ると数名の職員が深刻そうな顔で話し合っていた。
「ああ、川原さん」とサブリーダーの園田が、友加里に気づくなりいきなりガシッと右腕をつかんできた。
「例の佐藤さんが、入浴介助やりたくないってまた駄々こねて、ロッカーに逃げちゃったのよ。ただでさえ、今日は当欠二人もいるのに。わたしはほら、この場を離れられないしさ。どうしたらいいのかしら、困ったわ」
新人の佐藤は毎日のようにあれはイヤこれはイヤ、誰それは怒るから関わりたくない、臭いから触りたくないなどと駄々をこねてはロッカー室に逃げ込み、泣きながら自分の父親に電話をかけるのだった。困ったことにその父親は、このリハビリセンターを擁する総合病院の副院長だった。
「わかった」友加里は言った。「わた……」
「助かる、お願いね。レクはわたしが見るから、じゃあ頼むわね」
そう言うなり園田はくるっと背を向け、ばたばたとやかましい足音を立てながら離れていった。気づくとほかの職員たちもいなくなっている。またか、と友加里は小さくため息をついた。こうなることを予見して、自分がいるレクリレーションフロアの近くで話し合っていたのに違いなかった。
でもすべて、いつものこと。別にかまわない。自分がやれることをやる。ただ、それだけのこと。
八年前、夫が亡くなってすぐに友加里はヘルパーの資格を取得した。その後、介護施設で働きながら介護福祉士の資格も取得し、三年ほど前、土日休みがとれる今のリハビリセンターに転職した。
結婚前は大手企業で経理職についていた。商業高校時代に日商簿記二級も取得しているし、再就職には困らないだろうと生前の夫や娘たちによく言われていたが、あの手の仕事には絶対に戻りたくなかった。
丸一日デスクに座り、ただひたすら確認作業の繰り返し。ミスの予感がするたびに肝を冷やす。精神的負荷が多い割に、誰かの役に立っているという感覚に乏しかった。数字を扱うゲームやパズルが子供の頃から得意で、両親に勧められてその道に進んだが、性格的にあきらかに適性がなかった。
介護も介護でもちろん大変だ。決して楽そうだと思って選んだわけじゃない。しかし、次々とやってくる困難やトラップを除けたり倒したりしながらなんとか一日終えればゲームクリア、翌日に持ち越すものは何もないというルールが、自分の気性に合っている気がした。気難しい利用者の扱いに苦慮することはもちろんあるが、気難しい上司や先輩社員と比べたら、ずっとたやすい。利用者は怒ったら、怒鳴ったり暴れたりしてくれる。対処方法は明確だ。上司や先輩社員は怒っているのにときに笑いかけてくる。どうしたらいいのかわからず、ただ胃が痛くなるばかりだった。
その日は結局、新人の佐藤はロッカー室から出てこなかった。友加里は午後に彼女が担当する予定だった作業をおおかた引き受け、三十分ほど残業になってしまったが、上の娘の桃花との待ち合わせ場所にちょうどぴったりの時間に着けたので、むしろよかったと思うことにした。
今夜は桃花が半年前から交際している女性と、はじめて会うことになっていた。その彼女のたっての希望で、剣介も同席することになった。
店は剣介が予約してくれた。池袋駅で桃花とその恋人(『赤木です』と名乗った彼女は、身長が百八十センチ近くあった)と落ち合い、三人そろってスマホをぐるぐるまわしながら、グーグルマップによれば歩いて五分のところを迷いに迷って結局十五分近くかけてようやくたどりついたのは、こぢんまりとした古民家風の店だった。
横で桃花がぽつりと言った。
「場所がわかりにくいことをのぞけば、百点の店選びね。相変わらずの完璧おじだわ」
奥の席ですでに剣介は待っていた。三人を見つけると、さっと立ち上がって笑顔になった。黒のポロシャツとチノパン――そのチノパンにはセンタープレスがぴしっと入っている。整えられた豊かな黒髪。白い歯。桃花がまたこそっとささやいた。「やっぱり、寸分の狂いもない完璧おじだわ」
その後の彼のふるまいもそつがなかった。よどみなく自己紹介し、よどみなく飲み物をすすめ、よどみなく赤木の好みを聞き出し、アラカルトメニューを決める。サラダが運ばれてくると、率先してすぐに人数分とりわける。
会話のリードもさりげない。はじめは赤木の仕事について二、三質問し、彼女があまり乗り気でないとわかるとすぐに趣味方面へ切り替えた。そのうち赤木が大学時代に映画サークルに所属し、自主映画創作に熱中していたことにたどり着くと「僕も大学時代、蓮實重彦をよく読んでたんですよ」の一言で、それまでどことなく居づらそうにしていた彼女の興味関心を一気に引きつけた。そこから同じく芸大で脚本の勉強をしていた桃花もくわえて、映画談義でもりあがりはじめた。
ネットフリックスで流行っている韓流ドラマを見る程度の友加里には、パナヒだのパルム・ドールだのベルトルッチだの何もかもがチンプンカンプンだった。しかしふと、ヴェンダースという単語が耳に入った。友加里は反射的に「その名前、聞いたことある!」と口にした。
「あの、あれでしょ。バッドマンとかやってる人でしょ」
「全然違うけど」と正面に座る桃花が冷たく言う。「誰と間違えてるの」
「えーそう? ママが好きな人じゃない?」
「ママが好きなバッドマンなんて知らないけど。で、わたしはやっぱり『ミリオンダラー・ホテル』が彼の作品で……」
何よその態度、と友加里は内心でふてくされながら、目の前のカルパッチョをもそもそ口に運んだ。ちらっと隣の剣介を見ると、こちらを気に留めることもなく、桃花の語りに真剣な様子で耳をかたむけている。
友加里はまたしばらく黙って三人の話を聞き続けた。するとふいに「デミ・ムーア」と誰かが言った。はっとした。今度こそ知っている名だ。間違いない。
「その人ならわたしも知ってる! あのー、あれでしょ。あのさ、そうだ! 『プリティ・ウーマン』に出てた女優」
「それ違う人だよ」とまた桃花が即座に冷たく答える。「『プリティ・ウーマン』はジュリア・ロバーツだよ」
「いやデミ・ムーアだよ。昔、すっごく流行ってて、レンタルビデオ屋で何日も待ってようやく借りられたんだもん。その時代のこと、君たち知らないでしょ」
「だからそれ、ジュリア・ロバーツだって」
「ええ? デミ・ムーアだよ。あの彼氏が死んじゃって……」
「それ『ゴースト』でしょ」
「違うよ、『ゴースト』って……どんな映画だっけ?」
「彼氏が死ぬやつだよ。もういいよ、その話。でね、わたしはさ、あのデミのすべてさらけだすような演技が……」
仕方なく友加里は口をつぐんだ。そしてまた剣介をちらっと見てみたが、やはりこちらを気にする様子はない。そのときになって、自分の誤りにようやく気づいた。『ゴースト』が彼氏が死んじゃうやつで、『プリティ・ウーマン』がお金持ちと……。
「ああ、そっか。ママ間違えてたわ。へへへへ」
桃花が語りを止め、友加里をまっすぐに見る。
「やだわ、もう最近、物忘れがはげしくって」
「で、わたしは二人が争いつつも、よりそうような演技を……」
桃花は母親をはっきりと無視して、話を再開した。喉が渇いていたわけでもないのに、友加里はグラスを手に取って水を飲んだ。そうしながら剣介を横目で見ると、今度は目があった。
しかし無表情のまま、さっと視線をそらされた。
その後、三人はワインを何杯もおかわりしながら、映画の話に花を咲かせ続けた。友加里はただ笑顔でいた。他人の前で笑顔でいることほど、自分が得意なことはないからだ。
電話を終えてリビングに戻ると、翼が袋から弁当を出しながら「娘ちゃん、なんだって?」と言った。
それには答えず、友加里は「あら、翼ちゃん、今日はパンじゃないの?」と聞き返した。
「そうなの。今日ね、ここに来る前に冨士子ちゃんちにいって、お化粧の練習してたのよ。で、そのあと一緒にお弁当みうらに寄ったんだよね。これ見て、オムライス弁当。いいでしょ」
「お化粧の練習って何?」と聞くと同時にタイマーが鳴った。カップヌードルシーフードのふたをぺりぺりとあける。今日はいつものサッポロ一番を切らしていた。
ふふふと冨士子が照れくさそうに笑う。「ほらわたし、こんな歳して眉毛の描き方もわからないからさ。それで、翼ちゃんに相談したら、わざわざうちまで教えにきてくれたの。いろいろ道具も譲ってもらって助かるわ」
「あら、親切ね」
「そうよ、わたしは優しいの」と翼はひょうひょうと答える。「普通はね、お化粧のやり方を教えてあげるなんて言うやつは、大抵マルチとかその手のアレで、変なもの売りつけてきたりするんだからね。冨士子ちゃんも用心しなきゃダメよ」
ふふふと冨士子はまた機嫌よさそうに笑う。翼は暗に、例のとんかつ太郎のことをほのめかしているのだ。二人ですばやく目くばせをする。
「本当よ。わたしたちぐらいの年齢をターゲットにしている連中って、いっぱいるよ」友加里は言った。「ロマンス詐欺とかさ」
「知ってる。テレビで見たことある」冨士子が言う。「いい年のおばさんが、どっかの国のあやしい奴にフェイスブックでナンパされて、最終的に何千万ととられたってやつ。あんなのによく騙されるよ」
「いやいや、意外と手口が巧妙なのよ」と翼。「周りの人に相談できないように、周囲から孤立させようとするみたい。だからね、何かあったら相談できる相手がいることが大事なのよ。わたしたち、せっかくこうして仲良くなったんだし、困ったことがあったら言い合いましょう」
「そうねえ」
と言いながら、冨士子は一つ目のタレカツに大口でかじりつく。全く興味がなさそうだ。また友加里は翼と目くばせをする。あまりしつこくしても逆効果なのは明白だった。翼も同じことを考えたのか、口をつぐんで弁当のふたをあけた。
とんかつ太郎とは、六月に冨士子が新宿のとんかつ屋で運命の再会を果たしたという昔なじみの男のことだ。七月の集まりで冨士子からその話を聞いたあと、すぐに翼からLINEがきて、冨士子ちゃんの件はあやしいよね、変よね、その男は冨士子ちゃんのお金でもとろうとしてるんじゃないかしらね、と二人でやりとりした。とんかつ太郎というのは、その際に翼が適当につけた二人の間の秘密の呼び名だ。
しかし本人に「そいつ、あやしいよ」などとストレートに指摘するのはさすがにためらわれた。もし疑惑が濡れ衣だったら、いや濡れ衣でなくても、三人の仲は今まで通りとはいかないかもしれない。二十代や三十代同士とはわけが違う。若い時分なら、互いの人生にときにぶしつけに踏み込み合いながらも、絆を深めていける。しかし、自分たちは押しも押されもせぬ五十代。築き上げてきたものの大きさも重さも違う。尊重し合わなければ、友人関係など続けられない。
「で、娘ちゃんからの電話、なんだったの」翼が話題を戻して言った。
「ああ」と友加里。「ほら、昨日さ、上の娘とその彼女と剣介さんとで食事したって言ったでしょ。そのときの話よ」
「あら、浮かない顔ね」と冨士子。「何か問題?」
「ううん」と友加里は首を振る。「問題なんてなんにも。本当になんにもないの。娘の彼女がね、剣介さんのことを絶賛してたんだって。二人の関係について、いいともよくないとも評価しなかったの。そこがよかったんだって。あとはまあ、身だしなみのこともほめてたみたいだし、お店選びもよかったって」
「さすがのパーフェクト太郎」翼は言った。なぜか翼は剣介のことをそう呼ぶのだ。
「ほんとにそう。友加里さんは宝くじを当てたのねえ」
「え!」と友加里は思わず声をあげた。「娘も全く同じこと言ってた。剣介さんは宝くじって」
二人はとくに驚くこともなく「だってそうなんだもん」「そうよね」「本当よね」と口々に言って頷いた。
「何よ、その顔」と翼が言う。「何か不服なことでもあるの」
「そうじゃないけど。ただね、わたし自身は、なんだか昨日の食事会で失敗した気がしてるのよ。なんだか的外れなことばかり言っちゃって、その場をしらけさせてばかりだった気がして。下の娘に最近よく言われるのよね。『そういうおばさんブーム、うざいからやめて』って」
「おばさんムーブよ、ムーブ」と翼。「おばさんブームじゃおばさん大流行になっちゃうよ」
「ああ、そうなの。とにかくね。若い女子二人と無理なく会話ができる彼を見て、引け目を感じたっていうか。本当にわたしなんかでいいのかしら、彼」
頰杖をついてため息をつく友加里を見て、二人は顔を見合わせてから、そろってふんと鼻で笑った。
「こんなにものろけ全開でこられると、逆にすがすがしいわね」
「本当ね。宝くじ当てたけど使い切れないって悩みを聞かされてるようだわ」
「そんなんじゃないってばあ、本当に落ち込んでるの」
そのとき、テーブルの端に置いてあった友加里のスマホがブブッと震えた。画面に通知されたメッセージを見て、友加里はすばやくスマホをテーブルの下に隠した。
「パーフェクト太郎からでしょ。なんだって?」
仕方なくスマホを出し、あらためてメッセージを読んだ。
「……昨日、娘たちがたくさんお酒飲んでたから、体調大丈夫かって。あと、明日うちの洗濯機の分解清掃にきてくれるんだって」
「かーっ!」と冨士子が天井を仰いだ「まったくもって、ごちそうさまです」
「もう、やめてよ」
「友加里さん、顔真っ赤。中学生みたい」
翼が言って、三人で笑い合う。本当に、わたしたちはいい年して男の人の話ばかりして、中学生みたい、と友加里は思う。
思って、そして少し、胸のあたりがもやもやする。それは中学生のときみたいな、恋の痛みとは全く違う。剣介と付き合いだして、まもなく一年。はじめの三カ月は、幸せいっぱいだった。今だって十分幸せだ。
けれど。
自分でも、わけをきちんと説明できない。彼といると、あるいは彼のことを考えると、なぜかふいにうっすらと不安な気持ちになる――いや違う。不安なんて生易しい言葉でごまかせない。うっすらと、不快なのだ。