「あ、あの改めまして、12番のヨシヒロです」
隣の男性がまた手ぬぐいで顔を拭きながら、ぺこっと頭を下げた。
「あ、改めまして。10番の友加里です」さっきバスに乗るとき、最初に隣になった男性が別の席に座っているのを確認していた。その人の首に巻かれていたのは白いタオルだった。
「いやあ、朝早かったからお腹すいちゃってすいちゃって。でもサービスエリアで買い食いするのは我慢しました。まだ昼まで一時間半もあるんですねえ、長いなあ。友加里さんは、豚しゃぶはお好きですか?」
「豚しゃぶ? なぜ?」
「今日のお昼は豚しゃぶなんですよ。僕、お肉が大好きで大好きで、もう目がないんですよ。いやあ、たくさん食べられるといいなあ。少なかったらいやだなあ」
それからの五分間、12番のヨシヒロはひたすら昼食の話をしていた。主にその量の心配をしていた。よほどの食いしん坊のようだった。友加里は作り笑顔で話を聞き続けながら、メモ欄に「手ぬぐい食いしん坊」と書いた。
やがてまた時間がきて、男性たちが席移動する。次が一周目の最後の相手だった。
「ようやくお話しできますね」その人は隣に座るなり、そう言ってにこっと笑った。「どうも、11番のケンスケです」
「あ、じゅ、10番、友加里です」
「朝、席間違えちゃってすみません」
やっぱり真田広之にすごく似てる! と内心で少し興奮しながら友加里は思った。ややハスキーで、優しい声。まるで本物の俳優のようなその声と口ぶりに、なんだか顔が少し、熱くなる。やだやだわたし、やめなさいよ。五十四歳のおばさんが、男の前でドキドキしちゃって、みっともないったらありゃしない。
彼はスマホの画面を熱心に見ていた。友加里のプロフィールを見ているようだった。だから友加里も同じように彼のプロフィールを確かめる。
五十三歳、職業システムエンジニア、趣味は旅行と外食とスポーツ、一人暮らし、たばこは吸わない、好きなタイプは……。
「あ、友加里さんは前の配偶者さんと死別されてるんですね」ケンスケが言った。「僕もなんですよ」
「そうなんですか」
「ええ、妻が乳がんで亡くなってもう五年になります」
わたしも乳がんの経験があります、とつい言いそうになったがさすがに慎んだ。友加里の場合はごくごく初期で、抗がん剤すら必要なかった。配偶者を亡くしている人に言うべきことでは絶対にない。
「友加里さんはどういうきっかけで、このバスツアーに申し込んだんですか?」
「えーっと、友達に誘われて。前と後ろに座ってるのが友達なんです。こういうの、ほとんどやったことなくて、えへへ」何をカマトトぶってるんだと心の中で自分に突っ込む。「ケ、ケンスケさんはどうですか?」
「僕は再婚なんてしばらく考えられなかったんだけど、最近、テレビで元プロゴルフ選手の女性……えっと、なんて名前だったかな」
「あ、ひょっとして隅田道子さんじゃないですか? 五十代で再婚された」
「そうです、そうです。彼女と夫が京都の伊根だったかな? 旅行してる番組を見て、やっぱり夫婦っていいなって思ったんですよ。おいしいものを食べたり、一緒に旅行したり、そういう相手が自分にもいてほしいなあって。それでいろいろ調べてみたら、このツアー会社のホームページを見つけて、思い切って申し込んでみたんです」
「わたしも全く同じ番組を娘と見てました。五十歳も過ぎてこんな相手が見つかるなんて、とてもいいな、うらやましいなってわたしも思ったんです。それで、婚活とかちょっとしてみようかなってぽろっと言ったら、思いのほか娘がすすめてくれて」
「本当ですか? 奇遇ですね、うれしいな」彼は微笑みながら、上半身を少し友加里のほうに向けた。「娘さんと仲がいいんですね。おいくつなんですか」
「えっと、上が夫の連れ子でもう三十代。下は二十代半ばです」
「あ、そうなんですね。うちも二十代の娘がいます。僕らはわりと結婚が早くて……」
ケンスケは二十五歳のときに同い年の妻と結婚したという。妻が病気になる前は、二人で年に一、二回は海外を旅していたそうだ。友加里も夫が自力で歩けていた頃までは、毎年の結婚記念日に二人きりで温泉旅行にいっていたことや、週末は夫のリハビリもかねてあちこち散歩していたことなどを話した。
「温泉はどこが一番よかったですか?」ケンスケが聞いた。
「えっと、わたしたち夫婦が一番好きな宿があって、それが福島県の……」
「もしかして、玉子湯?」
「そうです! 福島県だけでよくわかりましたね! すごい!」
「僕らもそこが大のお気に入りで。いやあ、懐かしいなあ。いつも国内は車なんですけど、そこだけは電車でいくんですよ。なぜかって言うと……」
「あ、待って、のりべん?」
「そう! あののりべんが僕も妻も大好きで。福島駅で買って、山形新幹線に乗って景色を見ながら食べるのが最高で」
「わたしもアレ、大好き! 卵焼きが甘くないのがとてもよくて」
「そうそう、甘くない。やさしい出汁の味がいいんだよね」
「はーい、お時間です。では、男性は最初の席に移動してください」
ミキ姉の声に、二人は顔を見合わせた。
「五分早すぎない? まだ三十秒ぐらいしかたってないでしょ」
友加里はぷっと噴き出した。「三十秒は言いすぎ! 確かに早かったけど」
「ええ、そうかなあ。体感三十秒だったなあ」
自然と、お互い打ち解けた口調になっている。そのことに気づいて、友加里はついにやにやしてしまいそうになるのを、唇を噛んでごまかした。
「じゃあ、またお話ししましょう」
ケンスケはそう言うと、さっと立ち上がり、後ろの席に移っていった。
「はあ、どうもどうも、戻ってまいりました」すぐに、首に白いタオルを巻いた男が隣に座った。「あの、さっき後ろから聞こえてきたんですけど、友加里さんは、前のご主人と死別されてるんですね。何の病気だったんですか?」
「ええ、えっと脳梗塞です」
うわの空で答える。今、翼と何の話をしているんだろう。もしかして、わたしの話をしていたりして。
「へー。脳梗塞だと、介護とかも必要ですよね? もしかして、ご主人の下の世話もしてあげたの?」
「ええ、まあ」
「おむつプレイってやつだね、うらやましいなハハハ。僕もお願いしたい、なんちゃって」
さすがにびっくりして、物思いも中断した。さっき翼が「『うわー変な人』って感じの人が、意外といない」と言っていたが、一人見つけたと思った。
しかし、その白タオルの男のおかげなのか、それから続く男性たちとの二周目の会話は、さっきよりかなり気楽にのぞむことができた。会話中にプロフィールを確認したり、メモ書きする余裕も持てた。友加里にアプリ上でアプローチしてくれていたうちの一人、8番のケミカルは五十九歳、公務員、やや薄毛、未婚。小柄で声も小さく、自分からは何も話さない男だった。5番のフミは五十九歳、大企業の本部長、バツあり子あり、かっぷくのいい体型でやや薄毛。翼たちの言う通り、歯周病の疑い濃厚。しかし、話し上手でとても感じがよかった。2番のクマは五十一歳、経営者、未婚、フサフサ。腹筋が六つに割れている話を二周目でもしていた。
そして今、隣には手ぬぐい食いしん坊こと、12番のヨシヒロが座っている。彼はなぜか二周目の途中で、友加里にアプリ上でアプローチしてくれていた。プロフィールによると、年齢は五十八歳、ラーメン店店員、未婚。
「ああ、もうすぐお昼ですね。これだけ動いたし、お腹いっぱい食べられないと嫌だなあ」ヨシヒロは真剣な顔をして言った。「もし足りなかったら、追加注文とかできるんですかね?」
「どうでしょうね。できるといいですね」
「はーい、みなさま」とユキ姉の声がマイクを通して車内に響いた。「もうあと少しでレストランに着きますので、席の移動はひとまずここで、一旦ストップとさせていただきます」
バスはいつのまにか関越自動車道を降り、緑豊かな田舎道を走っていた。その後まもなくして、目的地の農園レストレランに到着した。
レストランフロアに入ると、すでにテーブルにはしゃぶしゃぶ鍋や肉、野菜、うどんがもられた皿などが並んでいた。四人一組のテーブルが横にくっつけて並べられていて、男女互い違いに座るようになっている。それぞれ四人前の鍋セットが用意されており、それを同じテーブル内で分け合う仕様になっていた。
座席に番号がふられていて、友加里は一番端の席だった。自分の隣の数字を見て、ガーンと頭の中で音が鳴った。
「あ、友加里さんの隣だ、うれしいなあ」
12番のヨシヒロだった。この頃には、心の中で彼を妖怪食いしん坊と呼んでいた。正面は5番のフミ、その隣は翼。友加里は横目でケンスケの様子を探った。ちょうど真ん中あたりテーブルの、友加里のはす向かいの位置に座っていた。
「え? もしかして、お肉ってこれだけ? まだきますよね?」さっそく妖怪はそんなことを言っている。「少なくないですか? 足ります?」
「えーっと……見たところ四人前って感じなので、これだけだと思いますよ」翼が答える。「何か追加注文します? 生ハムサラダとかウインナーとか、有料で頼めるみたいだけど」
「しましょうしましょう」とフミが言った。「よかったら追加した分は、僕が持ちますよ。ささ、なんでもお好きなもの注文してください」
「ええ? いいんですかあ? なんだか悪いなあ」
「大した金額じゃないんで。ここの生ハム、とてもおいしいんですって」
「そうなんだ、食べてみたーい」
二人がわいわい盛り上がっているのを、友加里は少し暗い気持ちで眺めていた。どういった理由でこのグループ分けになったのか考えていたのだ。妖怪もフミもすでに自分にアプリ上でアプローチしてくれている。もしかして、すでに誰かにアプローチしている人は、その相手と優先的に同席できるようになっているのではないだろうか。
友加里はテーブルの下で、こそっとアプリを確かめた。ケンスケの名前の横にハートマークはない。ということは……。
「友加里さん、何かありました?」正面のフミが、心配そうに声をかけてくれる。「なんだか静かですね。さっきまで元気な感じだったのに。この席、嫌ですか?」
「そ、そんなことないです。ちょっと、考え事しちゃった。追加のお料理、ありがとうございます。本当にお代、大丈夫ですか?」
「いやいや。そんなの気にしないで、みんなで楽しみましょう」
「ご飯がないなあ。ご飯って普通ありますよね? あとから出てくるのかな」
「友加里さん、もしかしてバス酔いしちゃった?」翼が聞く。「トイレいく?」
「ご飯食べたいなあ、これじゃあ足りないなあ」
「ううん、平気。ありがとう」
「あ、サラダとウインナー来ましたよ」フミが言った。「ささ、食べましょう食べましょう。僕が鍋奉行させていただきますね」
フミは手際よく肉や野菜を入れながら、趣味の洋菓子作りの話でその場をもりあげてくれた。バレンタインデーに大量のチョコレート菓子を作って社内で配ったり、部下の誕生日にホールケーキを自作したりしているという。さらに最近は娘のウエディングケーキを作ることを目標に、かなり専門的な教室に通いはじめたらしい。
話し上手で、気前もよく、気配りもできる。彼が自分に好意をもってくれていることは、なんとなく伝わった。妖怪に遠慮して箸が停滞しがちな友加里を、たびたび気遣ってくれていた。
しかし、友加里はケンスケの動向が気になって仕方がなく、正直なところ、フミの話はほとんど頭に入ってこなかった。彼の正面に座っている女性が、おそらく今日のバスツアーで一番の美人だと気づいてからは、なおさらだった。
彼女は翼と同じぐらいスレンダーだが、翼より若く見える。五十代にはとても見えない。四十代前半……下手したら三十代でも通じるかも。体にフィットする白いワンピースを着こなす、美しいロングヘアの女性だった。
ずっと笑ってる、そう、友加里は思う。ケンスケは食事がはじまって以来、ずっと笑顔だった。白い歯が象牙のように輝いていた。彼女のほうは横の妖怪が邪魔でよく見えなかったが、きっと楽しそうにしているに違いなかった。
もしかして、二人はもうアプリ上でカップルになっているのかも。そう思ったとき、何日か前に上の娘の桃花が電話で話していたことを、友加里は思い出した。
――お母さん、あのね。婚活パーティとかそういうやつはね、一番人気の男と一番人気の女がまずくっつくからね。二番三番人気狙いがいいよ。
そのときはピンとこなったが、今は理解できる。そういうことか、と。
その後は何を口にしてもあまり味がしなかった。食事が終わったあとは、集合時間までまだ少しあったので、フミと翼と一緒に併設のレストラン売店を見にいくことになった。フミによれば、農園で作っている生鮮品やそれらを利用した加工食品が売られていて、県外からわざわざ買いに来る人もたくさんいるという。
「あ、そうだ、ここはアップルパイが人気だそうですよ」焼き菓子売り場を見て回りながらフミが言った。「僕、買っていこうかな。お二人はどうです? もしよかったら僕が一緒に買っちゃいますよ」
「そんなそんな!」と翼が大げさに言う。「追加のお料理だけで十分です。本当にごちそうさまです」
二人から少し距離をおいてぼんやり歩いていると、冷蔵コーナーの前でケンスケの姿を見つけ、友加里ははっと足をとめた。オーガニックのウインナーを熱心に眺めている。
さりげなく隣にいって、話しかけてみようかな。そんなことを考えたとき、さっきの白ワンピースの女性が彼にかけよってきた。
「プリン、結局買っちゃった」
「おいしそうだったもんね、じゃあいこうか」
ちょうど二人の進行方向にいた友加里は、あわてて背を向け、目の前の商品を熱心に眺めているふりをした。しかし、友加里のことなど一切気に留めず、二人は談笑しながら店を出ていく。腕こそ組んでいないが、五センチの距離で並んで歩くその姿は、もうすでに恋人同士のようだった。黒い細身のパンツを着こなす真田広之にそっくりの五十代男性と、白い細身のワンピースを着こなす三十代後半に見える五十代女性。お似合いだ。誰が見ても、お似合い。
それにひきかえ。出入口の窓ガラスにうつる自分と目が合う。みすぼらしい普段着。十年間同じスタイルのショートヘア。ファンデーションとリップをぬっただけの顔。五十代のおばさん丸出し。
「友加里さん、どうしたの?」翼が声をかけてきた。「ぼーっとして」
「わたし、先戻るね」
バカみたいと思う。いい年したおばさんが、男の人のことで一喜一憂しちゃって。外に出て駐車場に向かって歩き出しながら、友加里は自分の頬を二回たたいた。