帰りのバスでは席移動のペースがゆるやかになり、中には寝てしまっている人もいた。ケンスケと隣になることがないまま、最後のサービスエリアに到着した。
「さてみなさん」とユキ姉が改まった口調で話しはじめた。「ここで最後の休憩を十五分とります。休憩が終わったあと、新宿まで残り一時間、車内は完全自由席となります。ですので、隣に座りたいなと思ったお相手がいれば、この休憩の間に『一緒に座りませんか』とぜひ、ぜひともお声をかけてください。気になるお相手に自分をアピールできる、最後のチャンスです。ではいってらっしゃい」
もう三十分近く尿意を我慢していた友加里は、ユキ姉の合図とともに急いでバスを降りてトイレに向かった。出てくると案の定、男性たちに取り囲まれた。
ケミカルと妖怪とフミと、あとは名前も覚えていない男が二人。五人が同時にあれこれ話しかけてくるので、何をどうしたらよくわからなくなった。「とりあえず、順番にお願いします」とつい大きな声を出したとき、男性トイレのほうからケンスケが出てくるのが見えた。
「友加里さん、よかったら僕と隣に」
「友加里さん、よかったら僕のハンカチで手を拭きます?」
「友加里さん、よかったらこれを」
妖怪が自分の白手ぬぐいを友加里に渡そうとした。さすがにそれははっきり「いらないです」と拒否した。
そのときだった。
白ワンピースの女性がどこからともなく現れ、ケンスケにかけより、その腕をつかんだ。
瞬間、脳裏にチャララララーラーン! と音が鳴った。それは八十年代に一世を風靡した恋愛ドラマ『男女7人秋物語』の主題歌のイントロだった。
古っ、と心の中で自分で自分につっこむ。
けれど。
見つめ合って妙に深刻そうに何事か話しはじめた二人の様子は、本当にドラマの一場面みたいだった。一番人気と一番人気がくっつく。要するに、そういうこと。
「じゃあ、えっとフミさん、一緒に……」
友加里は二人から視線をはずして、そう言った。すると、ずいっとケミカルが前に出てきて「ちょっと待った!」と声をあげた。
「友加里さん、僕はあなたに一目ぼれしたんです! 今まで誰とも付き合ったことがありませんが、あなたこそ人生最後の相手だと思ってます。よろしくお願いします!」
ケミカルは頭を下げて、友加里に手を差し出した。友加里はただ茫然と、彼の後頭部を見つめることしかできなかった。誰かが「ねるとんかよ」と言って、別の誰かが「古っ」とつぶやいた。
結局、友加里はフミと隣に座ることにした。ケミカルを断るのは心苦しかったが、残り一時間、彼と隣同士はさすがに厳しかった。
「友加里さん、お疲れですよね。静かにしてますね」とフミは言って、本当に話しかけてこなかった。ありがたかったし、この人は本当にいい人なのだと思った。きっと職場ではいい上司なのだろうし、離婚しているとはいえ、娘とも良好な関係を築いている。顔の汗をふくとき、手ぬぐいやタオルではなく、きちんとアイロンのかけられたハンカチを使っていた。よって、身だしなみも問題なし。おまけに大企業勤めで役職付き。五十代の再婚相手として、これ以上の相手はいないのかもしれない。そんな人が自分に好意を持ってくれている。もしわたしがわたしじゃなく、わたしの友達だったら。「断ったら後悔するよ」なんてことを言うのだろうか。
窓に映る自分を見る。その顔が、さっきのケミカルの顔に変わる――あんなこと、とても自分は真似できない。けれど、彼の勇気がまぶしかった。
このまま、フミの好意を受け入れて終わる。それで本当にいいのだろうか。このバスに乗ることにしたのは、新しい人生をはじめたかったからにほかならない。それなのに、やっていることはいつもと同じ。誰かをただ待っている。十代二十代の女の子ならまだしも、五十代の未亡人おばさんがそれでいいわけ?
友加里はスマホを持ち、アプリを開いた。ケンスケの名前の横にハートマークはない。でも、せめて気持ちだけでも伝えるべきなんじゃないか。もう彼は別の誰か――三十代に見える五十代の彼女――を相手として決めているかもしれないけれど。現に二人は今、隣同士で座っている。けれど、もし今、彼にアプローチして、彼が気づいてくれたら、もしかしたら……。
心の中でやれ! と誰かが叫ぶ。やれ! やるんだ友加里! 何をそんなに恐れることがあるのか! もう失うものは何もないでしょ!
第一希望の欄をタップして、ケンスケの番号を選択した。ぎゅっと目を閉じ、内心で「えいやー!」と叫びながら登録ボタンを押した。
目を開ける。それからまもなく、窓の向こうに見慣れた都内の景色が見えてきた。さらにしばらく走ったあと、バスは朝と同じ場所に停まった。
「ねえ、元気出しなって」きしめんをすすりながら、冨士子が言った。
友加里は注文したおにぎりに手をつける気にもならなかった。再びアプリを開いて、「結果」のところをタップする。
今回はカップル成立になりませんでした。
と、表示される。何度やっても同じ。
バスを降りたあと、翼と冨士子と三人で、新宿センタービル内のおかげ庵に入った。翼は2番のクマさんと、冨士子は6番のダイスケとカップルになり、それぞれ連絡先を交換して後日会う約束をしているようだった。
ハアと友加里は深くため息をついた。自分からアプローチしてふられると、こんなにも傷つくのだ。五十四歳にしてはじめて知った。
結局、注文したおにぎりは口に入らず、ふたつとも冨士子にあげた。「そろそろ会計しようか」と翼が言ったとき、友加里はまたアプリを開いて、結果ボタンをタップした。
今回はカップル成立になりませんでした。
「ねえところでさ、間違って別の人を第一希望にしてるってことは、ないよね」翼が言った。「一応、念のための確認だけど」
「そんなことは……」とつぶやきつつ、トップページに戻る。そして友加里は「あ!」と声をあげた。
「なんで? 第一希望が10番の人になってる! あ、目をつむってやったから……」
「ほらあ」と翼。「なんかそんな予感がしたのよねえ。ねえ、ちょっとスマホを貸して」
友加里は素直に翼にスマホを渡した。翼は片手でなんらかの操作をしたあと、友加里に戻した。
「何をしたの?」
「ねえ友加里さん、最後のユキ姉の説明、ろくすっぽ聞いてなかったでしょ。あのね、男性のプロフィールの下にメッセ―ジを送るってマークがあるの、わかる? それをタップすると、相手に個別にメッセージが送れるの。LINEのIDとかも送れるわけ。実際ほら、友加里さんに何人かからメッセージきてるよ」
「ええ? そうなの?」
「見てみる?」
「いい、ほかの人は興味ない」友加里はきっぱり言った。「それで、今何したの?」
「『操作を間違えて別の人を第一希望にしちゃいました。よかったらお友達になってもらえませんか』って送ったの」
「誰に」
「ケンスケさんに決まってるでしょ。あの大食いおじさんに送るわけないでしょ」
「返事は?」
「そんなすぐあるわけないでしょ。落ち着いて。一応、メールアドレスを相手に伝えてもOKっていう設定にしたから、ひょっとしたらメールにあるかもよ」
それからは気が気じゃなく、帰りの電車も山手線に乗るところを誤って埼京線に乗ってしまう始末だった。いつもより倍の時間をかけて帰宅し、寝支度を整えているうちに日付がかわった。
アプリにログインできるのは、二十三時五十九分までだった。今のところ、メールアドレスにも返事はない。
テレビもつけず、リビングのソファにぼうっと座ったまま、もう何度目かわからないため息をつく。つい数年前まで、朝だろうか夜だろうがつねにやかましい家だったのに、今はいつだって洞窟のように静かだった。サイドテーブルの三つの写真たてになんとなく目をやる。一つは花梨が成人したときに家族四人で写真館にいって撮ったもの。一つは結婚直後に夫婦二人で旅した伊豆で撮ったもの。一つは五年前に入院した際に見舞いにきた娘たちと――
友加里はとっさに、その写真たてを手に取った。病室のベッドの上で、二人の娘に囲まれてうれしそうにダブルピースしている自分。花梨が差し入れてくれたクマちゃん柄のパジャマがかわいくて、はしゃいで撮ったのだ。あのとき、同じ病室の隣のベッドに、友加里と同世代の女性がいた。同じ乳がんだったが、彼女のほうがはるかに進行しているようだった。友加里が退院する頃、緩和ケア病棟に移る話し合いをしていた。
その彼女のもとに、毎日のように見舞いにくる夫がいた。いつも時間いっぱいまでそばにいて、彼女を笑わせようとよく思い出話をしていた。かつて二人で出かけた海外のさまざまな国や地域、そこであったできごと、食べたもの。いつも、付き合いたての若いカップルみたいな笑い声を二人であげていた。彼女はまもなく死んでしまう。けれど、こんなふうに愛されていることを実感できて、それが少し、いやとてもうらやましかった。
いつもカーテンを閉めていたので、二人の姿はほとんど見られなかった。が、何度か、帰り際の夫と廊下ですれ違った。
すらっと背筋が伸びて、髪の毛がいつもさらさらとなびいていて。挨拶をするとにこっと子供みたいな笑顔を返されて――まさか、本当に、彼なの?
友加里は写真たてをおき、スマホを手に取った。アドレスボックスを確認すると、見知らぬアドレスからのメールをあらたに一件受信していた。
そのアドレスの最初の三文字は、ken。その瞬間、頭の中でチャララララーラーン!と、『男女7人秋物語』の主題歌のイントロが鳴り出した。