十月の集まりは、冨士子の都合で見送りになった。が、のっぴきならない事情が勃発、十一月一週目の日曜に緊急開催されることになった。

「ごめんなさい」

 テーブルに三人そろうなり、翼が深く頭をさげた。「本当に、本当にごめんなさい」

「翼ちゃん、もういいの」冨士子が言う。「あやまらないで」

「うん」と翼は相変わらずつやつやの髪を耳にかけながら、顔をあげる。「でも、本当に心から申し訳ないと思ってます。冨士子ちゃんのスマホを盗み見たのもそうだし、勝男さんにべらべらと……」

「いいのいいの。あのときはよく考えもせず翼ちゃんに怒って電話しちゃったけど、もとはと言えば、全部自分で蒔いた種。あのあと、何日も一人で考えたの。そうだよな、翼ちゃんが面白がって勝男さんに話したわけはないよなって。本当に心配してくれたのかもしれないって」

「もちろん」と翼は言ったあと、また少しうつむいた。「面白がってなんて。でもやっぱり、話すべきじゃなかった。うかつだった。もしどうしても真相を確認したいなら、自分で聞くべきだよね。わたしはずるいから、勝男さんならさりげなく聞いてなんとかしてくれるかなー、なんて考えちゃって」

「ぜーぜんさりげなくなかったよ、ハハハ」と冨士子は明るく笑った。「でも、本当に気にしないで。こんなつまらないことでこの三人の関係を壊したくないって、わたしは心から思ったの。今は月一回のこの時間が本当に楽しみなんだから。あ、でも誤解しないで。友達を失いたくなくて、無理して許すとか、そういうんじゃないから」

 冨士子の晴れ晴れした表情を見る限り、噓をついているようには見えなかった。友加里は「勝男さんのことは、どうするの?」と聞いた。

「謝って、で、断った」と冨士子。「このことがなくても、やっぱりいずれ断ってたと思う。いいの、これですっきり。お金のことも心配しないで。別にたいした額じゃないし、うちの姉が弁護士に頼んでくれるみたいだから」

「ああ、よかった」と翼は胸をなでおろす。「で、今日はお詫びとして、こちらを買ってきました」

 翼は脇においた紙袋から、長方形の弁当を三つ取り出した。包装紙の「うなぎ」の文字を見て、友加里は思わず「ええ!」と声をあげた。

「ていうか、わたしの分も? そんな悪いわ」

「緊急開催することになっちゃったし、いつも場所を提供してもらってるお礼もかねて、ね? ささ、いただきましょう」

「やったね~」と冨士子は子供みたいに体をゆすっている。「いただきます」

 鰻弁当はご飯が見えないほど特大のかば焼きがのっていて、豪華だった。箸を割る前から口内によだれがあふれ出してきた。

 二人がもめごとを起こしていたとは、つい昨日までまったくしらなかった。が、こうして円満に解決し(多分)、いつもどおり一緒にお昼が食べられて、友加里はとてもうれしかった。剣介と会うより、二人といるほうがずっと楽しいような気も……。

「あ、そういえば」とさっそく茶色の米粒を唇の端につけて、冨士子が言う。「友加里さん、例の件どうなった?」

「例の件って?」と翼。「ひょっとして……ケとツとコとンがつくやつ? ついに決めたの?」

「違います」と友加里はきっぱり言った。「結婚の件は、一旦保留。指輪はいただいたけど、九月が誕生日だから、誕生日プレゼントとしていただくことにしました。別のプレゼントもすでにもらってたんだけどね。そうじゃなくて、前に話したインタビューのやつ、記事ができたの」

 バスツアーから一カ月ほど過ぎたあとのこと。ツアーの運営会社からアンケート回答依頼のメールがきたので、友加里は律儀にすべての質問に回答して返信した。もちろん、剣介とカップルになったことももれなく記入した。すると先月になって、顔出しで二人のことを記事にさせてもらえないかと連絡があったのだ。

 友加里は自分のスマホでバスツアーのサイトをひらき、インタビューのページを表示させた。

「わあ、すごい」翼がスマホをのぞき込んで言った。「ほんとに顔出しでのってる。仮名・花子さん(55)と仮名・太郎さん(54)だって、おっかし。これ、どこで撮ったの?」

「みなとみらい。初デートでいったから。彼が意外と乗り気で、びっくりしちゃった」

「お洋服も、ネイビーのジャケットとネイビーのワンピースで色を合わせてて、とっても素敵。これ、剣介さんのコーディネート?」

「もちろん。わざわざ銀座までいって買いそろえたんだから」

 冨士子は自分のスマホで同じページを開いて、熱心に記事を読んでいる。ふいに眉間にしわをよせて「ええっ」とうなった。

「ねえ、ちょっとこの発言……友加里さんは、剣介さんが言ったことについて、なんとも思わなかったの?」

「どの発言?」

「この『五十代で再婚を考えた理由は?』って質問のところ。『……それに、年も年だし、突発的な体調不良に見舞われることもあるかもしれない。そんなとき、誰かそばにいてくれたほうがいいんじゃないかと考えるようになりました』」

 冨士子は剣介の口調を真似て言った。それがあまりに特徴をとらえていて、友加里と翼は同時にぷっと噴き出した。

「『まわりにいる独り身の男たち、こぞって不健康なんですよ。彼らを見ていて不安になったっていうのもあります』って……」

「アハハ、やだ、ちょっと似すぎなんだけど」翼が笑いながら手をたたく。「似すぎて全然頭に入ってこなかった。ちゃんと読ませて」

「わたしも。えーっと、どこの部分?」

「ここ、この箇所よ、五十代の再婚がうんたらのくだり」

「……へっ」と友加里はすっとんきょうな声をあげた。「とくになんとも思わないけど、何か、変?」

「変ってわけじゃないけど。なんていうか、自分のお世話をしてくれる人がほしい、みたいなそんな感じがして、ちょっとわたしはやだなっていうか。……あ、気を悪くしたらごめん。あくまでわたしはそう感じるってだけで、友加里さんがいいなら、いいんだけど」

 友加里はとくに気を悪くしてはいなかった。ただ、冨士子が言っていることに、いまいちピンときていなかった。

「うーん。でも、わたしも彼と同じことを思ってたしなあ。このまま一人で老後を迎えるのはやっぱりいろいろと不安だから、誰かにそばにいてほしいって。それって変なことなの?」

「ぜーんぜん、変じゃない。いいの。気にしないで。ねえ、わたし、奈良漬け苦手なんだけど、誰かいらない?」

「食べる!」と翼が元気よく言った。「奈良漬けって子供のときからだーい好き」

 それから話題は、各自の好きな漬物から昨今の物価高について、さらにはお得な株主優待情報から学生時代の就活の思い出話へと、いつものように次々に移り変わっていった。剣介のことはもう誰も口にしないまま、あっという間に六時を回ってお開きになった。

「ねえ、今日は本当にありがとうね」玄関でスニーカーのひもを結び直しながら冨士子が言った。「そういえば、剣介さんとの約束、延期してくれたんでしょ? 大丈夫?」

「いいのいいの。来週に延期できたし、気にしないで」

「あら、どこにいく予定だったの?」翼が聞いた。

「……ゴルフ場」

「えー、いいなあ。わたしも昔やってたの。でも、ゴルフ仲間が次々結婚しちゃって、誰も一緒にいってくれなくなって、用具一式、メルカリで売っぱらっちゃった。うらやましいなあ。最近はじめたの? 楽しいでしょ」

 友加里は何も言わず、ただ笑みを浮かべた。いつものように「じゃあね」「またね」「バイバイ」「ありがとう」とバカみたいに何度も繰り返し言い合いながら二人を見送り、ドアがばたんとしまった瞬間、そこで世界が終わったかのようにしんと静まりかえる。友加里は深く、長いため息をついた。

 二人が帰ってしまってさみしいからじゃない。

 ゴルフが、全然楽しくないからだ。

 

 昔から、体力と脚力には自信があるほうだ。中高と陸上部に所属し、中三のときには800メートル走で埼玉県の代表として国体にも出場した。しかし、運動が得意かというと全くそうではなく、いまだにカナヅチだし、何より球技が大の苦手だった。バレーボールのレシーブは明後日のほうに飛んでいくし、ドリブルと名の付くものは三秒と続かない。運動会はリレー選手筆頭の友加里にとって何よりの晴れ舞台、しかし、球技大会は恥さらしの場でしかなかった。

 だから、初デートで剣介からゴルフに誘われたとき、やりたくないとはっきり断った。それで振られるなら、この人とはもうご縁がないということだと思った。振られはしなかったが、剣介はしつこかった。会うたびにゴルフの話をするのだった。夫婦でゴルフをやるのが、何よりの憧れだったのだというのだ。

「ゴルフは沖縄とかハワイとか、いろんなところでやれるんだよ。長期の休みはリゾート地にいって、一日はゴルフにあてる。いいでしょう。旅行の幅が広がるし、何より健康にもいいんだよ。亡くなった妻ともそれがやりたくて、二人で一緒にはじめたんだけど、すぐに彼女の病気が発覚してね……」

 そんなふうに悲し気な顔で語られると、友加里は弱かった。それに、断るたびに彼が少し不機嫌になるのも、だんだん怖くなった。夏のはじめ頃、とりあえず練習だけでもやってみようという彼の誘いについに応じ、二人でシミュレーターのある練習場にいった。

 思っていたよりは、うまくできた。最初は空振りばかりだったが、次第にコツがつかめてきて、「ナイスショット!」と彼や店員さんに褒めてもらえもした。しかし、楽しくなかった。心底楽しくないのだった。理由は自分でも、よくわからなかった。球技に対するネガティブな思いが、頑固な油汚れのように脳裏にこびりついてはがれないせいかもしれない。今後も続けたいとは少し思えなかった。

 けれど、その日の剣介の笑顔が見たこともないほど輝いていて、それはもうクリスマスの朝の子供みたいで、友加里は口が裂けても「もうやりたくない」とは言えなかった。

 それ以来、デートの合間にたびたび練習場に連れていかれるようになった。「ダラダラやっても意味がない」というのが剣介のスタンスで、毎回三十分から一時間ほどで切り上げてくれるのが救いだった。元来、生真面目な性質である友加里は、できるかぎり懸命に取り組んだ。次第に自分でも上達が感じられるようになった。教えてもらった通りのフォームが再現できて、きれいな軌道を描いてボールが飛んでいくと、素直にうれしかった。

 しかし、楽しくない。

 どうしても、楽しくない。

 練習中、その言葉ばかりがぐるぐる脳裏をかけめぐる――楽しくない、全然楽しくない、家に帰ってサッポロ一番塩ラーメンを食べながらテレビを見たい、楽しくない。

 本心を打ち明けられないまま練習場に通う日々が続き、そしてついに十一月、ラウンドデビューすることになったのだった。

 

 当日朝七時過ぎ、剣介がレクサスで迎えに来てくれた。向かう先は茨城県の人気のゴルフ場、車内では高低差がどうのフェアウェイがどうのと剣介が夢中になって話していたが、どうでもよすぎて眠気をこらえるのに苦労した……というか気づいたら居眠りをしてしまい、はっと目が覚めたら、窓の向こうに秋の色に染まった美しい山々が見えた。

「もう和樹たちはついてるみたいだよ」

 知らぬ間に左肩下にできていた巨大なよだれ湖をあわててタオルで拭いている友加里に、剣介はそう言った。

 もともとは二人きりの予定だったが、スケジュールが変更になったおかげで剣介の友達夫婦と一緒に回れることになったのだ。夫の和樹は勝男と同じく中学時代の同級生で、妻の友恵も同世代だという。

「前も言ったけど、二人とも本当にうるさいから覚悟しておいてね」駐車場にレクサスをとめると、剣介は言った。「あいつらのこと、基本無視でいいから」

「そんな、初対面の相手だし……」

「いやいや、会ったらすぐに俺の言ってる意味がわかるから」

 果たして、クラブハウスのラウンジに到着するなり、一組の中高年カップルが「あ! 来た来た!」「おはよ~」「やだ~」「お似合いカップル~」と大はしゃぎしながら小走りで近づいてきた。さらに二人は友加里を見て、「え、かわいい」「顔ちっさ」「ほんとに五十代?」「女子高生にしか見えないけど?」などと矢継ぎ早に言いはじめた。友加里はあっけにとられてなんの反応もできなかった。

「ねえねえ、友加里さんは、ゴルフはじめて一年ぐらいなんですよね」と夫の和樹がピカピカの笑顔をこちらに突き出してきた。小柄でスレンダーな男性だった。「こいつに教えてもらってるなら、かなり上達したでしょう」

「わたしも実はまだはじめて三カ月なの」と友加里が答える前に、隣の友恵が言う。こちらは身長が百七十センチほどのぽっちゃり体型で、ノミの夫婦の見本のような二人だった。

「足ひっぱっちゃったらごめんね」

「ママはちっとも上達しないよね。このあいだなんて、ようけ飛ばしたな~っと思ったら、隣のホールまでいっちゃってね」

「アハハハ! そうそう、あわててパパと一緒に謝りにいったら、なんだかきれいな女の子四人組でね。あの子たち、本当に何者だったのかしらね。銀座のホステス?」

「今どきホステスなんて言わないよ、ママ。ラウンジ嬢とかって言うんだよ」

「なんでそんなこと知ってるの?」

「うるさいな、お前たち!」と剣介が学校の先生みたいにぴしゃりと言った。「周りの迷惑を考えなさい。受付してくるから、静かに待ってろ」

 夫妻は声をあわせて「はーい」と返事をした。いやいや、愉快で楽しい二人じゃないか。少なくとも軽井沢のときのような目にはあわずにすみそうだ。それに、友恵とはそんなに実力差もなさそうで、心強かった。今日はいい一日になりそうだと、友加里はほっと息をついた。

 

(つづく)