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 ノートに今日の日付を書く。

 昨日と、一昨日と、一昨昨日と、その前の日と——とにかく、ずっと書いてきたことを書く。

 なぜ、出られない。

 翌日も、同じ。

 なぜ、出られない。

 文字は増えていくが、答えは増えない。

 私だけが、どこにも接続されていない。

 それでも何度か、同じことを試した。同じことというのは、この町を出ようとすること。

 電車はもちろん、車でも。

 地図アプリを開き、ナビ通りに進む。橋を渡る。トンネルを抜ける。

 でも、トンネルを抜けると、寮の前にいる。

 エンジンはかかったまま。シートベルトも締めたまま。

 深く息を吐く。

 悲しみはなく、驚きもない。

「またダメだったか」

 そう思う。

 別の日は、高速道路に乗ろうとした。

 料金所で財布を出す。係員に手渡す。

 硬貨が指先を離れた瞬間、自分の部屋の床に落ちる音がした。

 硬貨が、足元に転がっている。

「そう」

 またダメだった、が増える。座り込んで泣いたり落ち込んだりもしない。散らばった硬貨を拾う。

「また、ダメ」

 不思議なことに、金は尽きない。口座残高は減らない。会社からの給与振込は続いている。明細を見ると、「史料編纂課 特別手当」とある。

 だから、支払いはできる。ガソリンも入れられる。寮費も引き落とされる。

 生活は成立する。

 町を歩く。

 店主は挨拶をする。

 子どもたちは走り回る。

 老人はベンチに座っている。

 話しかければ、返事はある。

 それら全てが、私と接続しないだけ。

 いつの間にか、誰もいない夜が救いになった。静かだ。

 その夜も、帰れないことを確認した帰りだった。

 橋の上で車が止まり、次の瞬間、寮に戻る。

「はいはい」と呟く。

 徒労だけが、積み重なる。車を降りて、歩く。

 夜風が冷たい。

 道端の草を誰かがむしっている。

 しゃがみ込んだ、小さな背中。

 足を止める。分かっている。確認しなくても分かる。彼がいると、ぞわっとするから。

 佐伯直だ。

 直は、こちらを見ない。

 ただ、草を一本ずつ、静かに抜いている。

 その仕草は、あまりに普通だ。

 あまりに人間らしい。それが、救いのように思えた。

 喉が詰まる。

「直くん」

 声が震える。

 直は振り向かない。

 一歩、近づく。

「ねえ」

 返事はない。

「お願い」

 声が裏返る。涙が出る。突然、制御が外れた。

「お願い、もう許してっ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ」

 喉が焼ける。

「私が悪かったの! あなたを神みたいに扱った! 煽った! あんなこと言った! 天罰とか、面白半分で!」

 地面に膝をつく。

「ごめんなさい、ごめんなさい、帰してください、反省してる、反省してます、お願い」

 直は、草を抜く手を止めない。

 月明かりの中、その横顔は、以前と同じだ。美しくて、静謐で、神みたい。

「聞いてください、お願いです」

 絶叫に近い声。

「聞いているよ」

 直はこちらを見ない。少し高い声が、鼓膜を撫でる。

「でも、あなたがいくら僕に何か語っても、意味がない」

「なんで……?」

「僕は、もうなんでもないから」

 淡々とした声。

「それに、あなたが謝っている相手は、僕じゃないから」

 千切れるくらい首を振る。

「違う、違う、違います! あなたが、あなたが全部の中心だった!」

「きっと、中心だったことはある」

 直は草を一本、抜く。

「でも、今は違う」

 呼吸が乱れる。体温が下がって、発汗が止まらない。

「じゃあ誰なの? 誰に謝ればいいの? 誰が罰してるの?」

 直はそれには答えない。独り言のように言う。

「あなたは、話を聞いた」

「き、聞いた、色んな人の、話、町の人の、罪の話。だって、それは仕事で」

「仕事ではない」

「仕事だったっ! 町の人の話を聞いて記録しろって言われて」

「いいえ」

 その否定は、柔らかい。

「あなたは探していた」

「何を……」

「あなたより、悪い人」

 言葉が脳に刺さる。

「違うっ」

「違わない」

 直は初めて、私を見る。

「赤羽恭介も、藤野幹久も、加納晋一郎も、金栗宗久も、谷田部美嘉も、田村和重も田村理恵子も。あなたは、全員の罪を数えた」

「だって、あの人たちは」

「あなたは、自分の罪と比べた」

 言葉が出ない。

「自分はそこまでじゃない、と確認した」

「そんなことない。記録に必要だったから聞いただけです。解釈はしたかもしれない、でも」

「誰も、あなたに記録しろとは言っていない」

 直の瞳が、うすく光っている。

「話を聞け、と言われただけだ」

 そんなことない、と否定しようとして、唐突に思い出す。

 ただ、話を聞いてこい、と言われただけだ。

 書いたのは、自分だ。

「私は……」

 声がかすれる。

「あなたは何を畏れているのか」

 草の匂いがする。風の匂いも。

「罰か?」

 喉がひゅう、と鳴る。

「前も言ったかもしれない。あなたが、かつて僕にしたことは、あなたの罪ではなく、僕の話だ。あなたの言葉を受け取り、そうなった僕の罪だ」

 草が風に揺れる。直の身体が、風景と同じくらい、希薄になる。

「あなたが僕に何を言っても、意味はない」

 声が遠ざかる。

「もう、この町に境目はない」

 手を伸ばす。指先は、空気を掴む。

 直の姿は、月明かりの中に溶けていく。

 残るのは、草の匂い。風の音。

 

【月刊魑魅魍魎】

 地方怪奇紀行 Vol.12

 “声なき神”と現人神の町——さつき町を訪ねて

 文・千家彩音

 奈良県某所。山と田畑に囲まれた小さな町、さつき町。

 この町には、ちょっと変わった伝承がある。

 “声なき神”。

 神は言葉を持たない。

 だが、沈黙によって意思を示す——。

 と、書くといかにも神秘的だが、要するに「何かあったら神様のせい」という、地方にありがちな民間信仰のひとつである。

 実際に町を歩いてみると、神社はあるが特別立派というわけでもない。

 観光地でもない。

 むしろ、どこにでもありそうな、静かな田舎町だ。

 だがこの町が近年、オカルト界隈で注目を集めている理由は別にある。

 “現人神”の存在だ。

 町には今、“天罰を与える少年”がいるという。

 名前は『直くん』。

 小学生男子だ。

 驚くほど整った顔立ちで、転校してきた当初から噂の中心だったという。

 町の人々は彼を畏れ、敬い、そしてどこか期待している。

 実際、彼の周囲では“奇跡”が起きる。

 怪我、事故、不可解な出来事。

 それらが起きた後、必ず彼が近くにいた、という証言がある。

「直くんは神の子ですから」

 町の人は当然のようにそう言う。

 なるほど、閉鎖的なコミュニティでカリスマ的な少年が生まれる構図は珍しくない。

 信仰は、孤独な場所ほど強くなる。

 取材中、私は本人にも話を聞いた。

 確かに、年齢に見合わないほど落ち着いた少年だった。

「上から聞いただけ」

 そう言って、にこりともしない。

 “上”とは何か。

 神なのか。

 それとも、彼自身の想像上の産物か。

 正直なところ、私は後者だと思う。

 というのも、彼には両親の姿が見当たらない。

 町の人に尋ねても、言葉を濁す。

「ご両親は……ちょっと事情が」

 “事情”。便利な言葉だ。

 ショックな出来事があったのかもしれない。

 孤独や喪失が、神の声という形をとって現れたのだとしたら。

 思春期の少年が、自分の存在価値を神格化によって補強する。それもまた、決して珍しい話ではない。

 町の人々は彼を疑わない。

 望んでいる。天罰を。

 誰かが悪いことをしたら、神が裁いてくれる。自分の代わりに。

 便利で、清潔な暴力だ。

 私は『直くん』にこう尋ねた。

「天罰という言葉は便利ですよね。でも、あなたが怒った瞬間に起きた出来事を、町の人が『神の意思』と解釈しているだけ、という可能性もあるのでは?」

 彼は少しだけ、こちらを見た。その視線には、大人びた冷やかさがあった。

 答えはなかった。

 だが、その沈黙こそが、この町の核心なのかもしれない。

 声なき神。

 語らぬ意思。

 沈黙は、ときに最も雄弁だ。

 ……もっとも。

 私は神よりも、人間の方がずっと怖いと思うけれど。

 

※編集後記※

 地方取材は毎回体力勝負ですが、今回はなかなか刺激的でした。

 “現人神”くん、都会に出てきたら芸能界で売れるかも?

 オカルトよりアイドル向きかもしれませんね。

 次回は“人を食べる祭り”の真相に迫ります!

 

(了)