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 佐伯直の語りが終わったあとも、何も変わらない。体が重い。耳が痛いくらい、鼻を通って、脳に刺さるくらい、空気が重い。攻撃されている、と普通なら思う。きっと、それは違う。これは環境だ。現象だ。彼がいると、こうなる。

 無音の膜で包まれているのに、少しも安心しない。自分が世界から切り離されていると思う。息を吸うたび、胸の奥で何かが軋む。

 喉がひくひくと震えているのが分かった。

 目の前に立っているのは、ただの少年のはずだ。顔が綺麗なだけの男の子。無視してくる。生意気。そんなもの、ずっと変わらない。最初に見た時から。

 それは私が間違っていた。ずっとずっと間違っていた。だから視覚が正常に働かない。直を見ているのに、直の向こう側も同時に見えているようだ。焦点が合わない。

 緊張とは違う。怒鳴られたときとも、失礼なことを言われたときとも違う。

 間違ったものを見てしまった。こう言い表すしかない。

 本来、人間が向き合う前提になっていないものと、正面から向かい合ってしまったときの感覚。

「何も言わないのか」

 心臓が早鐘を打つ。

 言葉を出さないと、押し潰されそうになる。

「わ……」

 口を開こうとして、失敗する。

 唾を飲み込む。必死に、声を出す。

「それ、全部……その」

 声が、かすれている。

「全部、本当なんですか」

 直は、頷かない。

「嘘の話は作らない」

 どこに目を逸らしても、目が合う。見ている。

 シャツがぐっしょりと濡れ、不快に背中に張り付く。

「私は……」

 舌が絡まる。

「じゃあ……」

 瞼が痙攣する。

「もしかして……」

 喉が詰まる。

 それでも、無理やり吐き出す。

「もしかして、全部の原因は……私なんですか」

 言った瞬間、心臓が掴まれたように痛みが走る。呼吸が難しい。

 頭の中で、言葉が暴走する。

 違う。そんなはずない。私はただの記者だった。仕事で行っただけ。変な質問はしたかもしれないけど。でも、誰だってするでしょう。記者ってそういうもの。報道は知る権利。だから私のやったことは記者として正しいこと。それに相手は子供だった。子供相手の取材なんて、軽口も出る。みんなそうだと思う。生意気な子供。自分を無視する子供。馬鹿にしたみたいな態度。それを見たら、みんな、誰だって。

 私の責任ではない。

 必死で、理屈を積み上げる。

 壊れそうな足場を、手当たり次第に補強する。それが無駄だと分かっている。彼は私に質問した。天罰かどうか。私が彼にきっかけを作った。「天罰」という概念を与えた。私は何一つ答えを持っていない。そんなこと知らなかった。そんなつもりじゃなかった。彼は普通の子供だと思っていた。だから。

「いま、あなたは、自分が悪くない理由を考えている」

 彼と目が合う。合い続けている。

「責任の範囲を小さくして因果関係を薄くして自分を外側に置こうとしている」

 ごめんなさい、という言葉が出る。謝罪ではない。反省もない。この場をやり過ごそうとしているのでもない。ただ、助命の嘆願。情けない声。ごめんなさい。

「謝られても困ります。これは上がそう知らせている」

 彼は淡々と言う。

「あなたに対する僕の感想じゃない。上は、あなたをそう認識している」

 奥歯を噛みしめる。羞恥心はない。純粋な恐怖だけがある。

「上……神様は、私に、怒っているんじゃないですか」

 声が裏返る。

 直は、少しだけ首を傾げる。

「知らない」

「は……?」

「知らないことは言えない。今は僕の話をしている」

「どういう、ことです、か……」

 言葉が喉から、ばらばらと、零れる。

「だって……今、私の話……私の話、ですよね? 私があなたに、その、ひどい態度を取って、それで、あなたの……あなたの、考え方に、雑音を交らせて、それで、だから……あなたが」

「上があなたに怒っているかは知らない。僕もあなたに怒ってはいない。僕はただ、僕の話をしている」

 直の形の良い上唇が、機械のように動く。

「あなたの罪の話じゃない」

 心臓がどこまでも早く脈打ち、酸素が送り出され、私の喉からは絶えず喘鳴が聞こえる。

「わ、た、わた、しの罪では……ない、なら……」

「これは、僕の罪の話だ」

 彼は即答する。逃げ場がない、とでも言うように。

 彼の言葉は解体しても理解できない。これは私が今、恐怖に晒されているから? 違う。分からない。彼が「仮に」、私の「せいで」、「天罰」という概念を知り、そして「自分が神」なのかどうか、そういう「発想」に至ったとして、なぜ。

「この町は終わった。雷鳴が鳴った時点でもう終わっていたのかもしれない。それは、町には必ず人が住んでいるからだ」

 彼は歩く。音はしない。

「人が住む。人が在る。解釈が生まれる。神の沈黙を人は沈黙と解釈しない。理解できない。沈黙に言葉を重ね、赦しを口にし、創りかえ、死を受け入れず、終われば良いと思い、信じる者を裏切る。そして」

 理解してはいけない。

「神になろうとする」

 喉が渇く。どこまでも渇く。声が掠れる。でも彼は聞いている。私は尋ねる。

「あなたは」

 彼以外には聞こえない声で尋ねる。

「あなたは……結局、何者なんですか」

 佐伯直は初めて微笑んだ。微笑んで、告げた。

「境目」

 音が消えた。耳鳴りすらしない。先程まで感じていた異様なまでの重力もない。世界が止まったように感じる。

 それでも、彼の声だけは聞こえる。

「いま、僕がすることは誰の意志でもない。ただの現象だ」

 視界が右下からぼろぼろと崩れる。景色が、層になって剥がれていく。

 佐伯直。夜道。車。自分の手。全てが、薄い紙のようにめくれていく。

 彼の声が、言葉になる前の音に戻る。

 自分の声も、同じように崩れる。

 これまで聞いてきた町の人間の声。重なり、溶け、区別がつかなくなる。

 思考がほどける。

 意識が、底のない水に引きずり込まれる。

 

 目を開ける。仰向け。天井の白が視界いっぱいに広がっている。

 蛍光灯は消えている。

 カーテンの隙間から、街灯の橙色が細く差し込んでいる。

 ここは、寮の部屋だ。狭いけれど清潔で、現代的な。

 体は動く。指も、腕も、足も。

 まだ生きている、と頭の中で繰り返す。まだ生きている。まだ生きている。まだ生きている。まだ——とは?

 判断しているだけで、実感は伴わない。

 喉の奥が詰まっている。乾いているのに、渇いてはいない。

 呼吸はできる。音も聞こえる。

 息を吸いこもうとしていて、何かに気付く。おそらくどうでもいいこと。しかし、確実な欠落。脳の大切な機能を失っているかもしれないという危機感を、寝起きの気だるさで塗りつぶす。

 ゆっくりと瞬きをする。天井の染み。カーテンの影。ベッド脇のテーブル。全部、見慣れた配置。

 しかし、それらの「向こう側」に、薄い層が一枚挟まっている気がする。

 見えているのに、遠い。触れられるのに、実在していない。

 そろそろ誤魔化せなくなる。何かの欠落。

 起き上がる。

 床に足を下ろす。ひんやりと冷たい。その冷たさすら、どこか一段階遅れて伝わる。

 洗面所へ行く。蛇口をひねる。水の音がする。手を濡らす。顔を洗う。

 鏡を見る。

 自分の顔が映っている。

 輪郭も、目も、口も、確かに自分のものだ。触る。触れる。

 しかし、どうしても気付いてしまう。それで、覗く。鏡の中の空間が、少しだけ奥行きを持ちすぎている——ような、気がする。

 鏡の奥に、何かがいて——それが、映り込んでいないのに、存在している。

 目を凝らしても、何も見えない。それでも、「何もない」と言い切れない。

 全て気のせいだ。本当に?

 こんなにも、喪失感があるのに?

 視線を逸らす。

 佐伯直の声を思い出そうとする。思い出そうとした瞬間、頭の奥がきしむ。

 痛くはない。言葉になる前に、思考が潰れる。

 表情のない目。年齢の定まらない輪郭。

 それ以上は続かない。声も、台詞も、再生されない。

 顔だけが、残っている。

 ベッドに戻る。

 腰掛ける。

 横になる。

 天井を見る。

 白い天井。

 その白の中に、薄く混ざっているものがある気がする。

 壁を見る。

 床を見る。

 カーテンを見る。

 空気の層を見る。

 どこを見ても、同じ。

 そこに「何かがある」と言えるほど明確ではない。

 でも、「何もない」とも言えない。

 あ、と声が出る。理解してしまったからだ。

 現象。

 これは確かに、そうだ。彼の意志でもない。上の意志でもない。

 部屋全体が直という存在で希釈されている。そう理解する。直感的に——もっと言えば、原始的に。

 気配ではない。視線でもない。重さでもない。

 存在の割合が、変わった。

 水にインクを一滴落としたあと、完全には元に戻らない水のような。

 胸に手を当てる。規則的に心臓は動いている。

「環境の一部」として動いている。

 佐伯直は、どこに行ったのか。

 その問いが、途中で崩れる。

「行った」という概念が、合っていない。

「消えた」も違う。

「残っている」でもない。

 代わりに浮かぶのは、満ちた。という感覚。

 個体が溶け、

 輪郭が消え、

 境界がなくなり、

 この町の構成要素の一つになった。

 天井と同じ。

 壁と同じ。

 空気と同じ。

 床と同じ。

 水分と同じだ。そしてそれは、私の中にも存在する。

 外と内の区別が、意味を失った。

 目を閉じる。

 暗闇そのものが直の形を許容している。

 言葉は出てこない。

 声も聞こえない。

 それでも、在ることだけは否定できない。

 誰かとして話すこともない。

 誰かとして歩くこともない。

「あっ」

 声が出る。気付いてしまったから。

「沈黙に、なったんだ」

 この町の沈黙になった。

 声を持たないまま、在り続けるものになった。

 それより深く考えようとしてもどうしても、「どうでもいいか」と思ってしまうのだ。

 彼は「在る」「在って在る」。それ以上考えることはない。

 布団を少し引き上げる。体を丸める。眠気は来ない。起きている理由もない。

 目を閉じたまま、じっとしている。

 

(つづく)