トラブルにも、よう巻き込まれる子でした。
理不尽なこと言うお客さんが、増えてきて。
「水が冷たすぎる」
「笑い方が腹立つ」
「ぼーっと立ってるのが不気味や」
理不尽でしょう。笑顔やから、舐められやすいんかな。
ほんまに理不尽なんやけど、あの子は謝るだけでね。
あんまりにも大人しく謝るもんやから、余計相手がヒートアップすることもありました。私らも一緒に謝ることになりますし、忙しさもあって、心の余裕がなくなっていって。
それでもあの子は変わらんのです。
他のバイトの子が疲れてたら、「代わりますね」って笑うて、何も言わんで手伝って。
ご飯食べられへんまま帰る子には、「余計なお世話やったら悪いんですけど」って、小さいおにぎり持たせて。あんときは、まかないなんて余裕はなかったですから、自分で作ったんでしょうね。そんでも、あの子が食事してるところなんて、見たことなかったですけどね。
本当に、感謝はしてましたよ。ありがとう、という気持ちはあった。でも、なんでそこまで優しいんやろって。
そう思たら、胸が痛なるような、いや、息苦しいような……そんな気持ちも、ありました。正直、正直ね……なんやろ、感謝よりもね……。
その頃はもう、忙しさと理不尽なクレームで、私らの神経はすっかりすり減ってて。
バイトの子らの間でも、妙な空気が漂うようになってました。
そういう悪い雰囲気、誰もなんも言わんけど、ずんと重い感じの。ふつう、分かるやないですか。でもね、あの子、やっぱり笑顔でおった。
怖なってくるんですよ。
なんでこの子だけ、こんな平気な顔していられるんやろ。
そう思たら、自分の器の小ささを突きつけられてるみたいで。
もちろん、誰もはっきり口に出したりしませんよ。でもね、
「ユリちゃんのせいで何かおかしい」
そんな空気が、もう全員の中に、あった。
一番、それを隠さないのは、高瀬君でした。
うちの店のバイトの子らの中で、特に真面目で働き者やったんが、彼でした。
家も近所で、昔から顔も知ってましたしね。ちょっと暑苦しいくらいの性格で、
「この店、もっと良くできますよ!」
なんて言うて、余計なこともようするんですけど、根はほんまにええ子なんです。いわゆる、バイトリーダーというやつですね。みんな、お兄ちゃんみたいに頼りにしてましたよ。面倒見が良くてね、あの子が入ってきた後も、何かあったら一番にフォローしてくれるのは、高瀬君でした。
「分かんないことは俺がやっとくから」
あの子との関係も、悪なかったですよ。お互い、リスペクトいうんかな、そういうのがあるように思いました。
でもね、やっぱり、分かるんですよ。ああ、この子、気に入らんのやなって。
ユリちゃんの全部が、気に障るんやなって。
段々、無視するようになっていってね。ユリちゃんはそれでも声をかけてましたけど、「口より手を動かして」って冷たく言うて。
でも言うたでしょ、店の空気は、ユリちゃんのせいで何かがおかしい、というふうになっていったと。だからみんな、高瀬君に倣って、どんどん、そういう空気が強くなっていったんです。
いつ頃かなあ。
レジの金額が、大きく合わん日が出てきたんです。
私も主人もおかしいなあ、と首をかしげました。
もう長いこと店やっとりますから、たまに、やったらなんも気にしません。でも、何日か続いたんです。
ある日、閉店後、高瀬君がみんなの前に立って、言いました。
「俺、気づいたんです」
声は震えてました。
「誰も言い出せないなら、俺がちゃんと言います」
その視線の先に、おったんが、ユリちゃんでした。
「この日もこの日もこの日もおった人……レジ、触れる人は限られてます。だから……」
その場の空気が、すうっと冷たなったのを覚えています。
あの子は、何も言いませんでした。
ただ立って、うつむいて——それだけ。
私も主人も、慌てて止めました。
「証拠もないのに、そんなこと言うたらあかん」
けど、もう遅かったんです。
他の子らまで、妙に納得したような顔をしだして。
ああ……誰かひとり、悪者が必要なんや。
そう気づきました。
だから私は、祈るしかなかったんですよ。
ユリちゃんは、ちゃんと否定するって。そうするしか、ないって。
そやけど、あの子は、「すみませんでした」って、ただ、そう言うただけでした。
泣くわけでもない。
怒るわけでもない。
ただ、静かな声で。
それを見た瞬間、胸がぎゅうっと締め付けられて。絶対にユリちゃんは何もしてませんよ。間違いなく。いかん、違うんやろ、はっきり言わな、そう声をかけなくてはと、考えました。
でも、同時に思ったんです。これで、終わるかもって。
終わるって何が……いや、分かりません。でも、終わるとき、安心するでしょう。そうなるとええなって。
言葉が出てこんかった。
そのまま、ユリちゃんは、黙ってバイトを辞めました。
その後のことは……ねえ。
忙しさは変わらん。妙なクレームはどんどん増える。でも、お客さん自体は減らへん。
もう、みんな口に出してました。喧嘩、喧嘩、喧嘩です。
些細なことで。不満ばっかり。どこ行っても陰口、悪口。
私ら夫婦も、いつも小言ばっかり。
それでも、なんとか回してた、ある日のこと。
それが起こったんは、閉店後のことでした。
いつものように戸締まりしてましたらね、バックヤードのほうから、しゃくりあげる声が聞こえてきたんです。
のぞいたら、高瀬君が床にへたり込んで、子どもみたいに泣いとりました。
「……すみません、すみません、すみません……!」
頭を床すれすれまで下げて、震えながらそう繰り返すんです。
「ど、どしたん?」
慌てて声をかけたら、顔を上げたあの子の顔は、涙と鼻水で、もうぐちゃぐちゃでした。
「俺、悪くないですよね……? 俺、頑張ってましたよね……?」
第一声が、それやったんです。
困惑しましたし、何より、ぞわっとしました。言葉を選ばずに言えば、その……醜かったんですよ。
でも、言えないでしょう。私はなんとか言葉を呑み込んで、何を言ったらええんかな、と迷ってましたけど、
「……どういうこと?」
主人が静かに聞き返しました。
高瀬君、唇を噛んでしばらく黙ってから、
「レジ……俺がやりました」
そう言いました。
「でも! 違うんです!」
続けざまに叫ぶんです。
「全部、全部、俺が悪いわけじゃないんです! あいつが悪いんです! ユリが! あいつ、偉そうに、あれがよくない、こうしたらいいって、指図ばっか。なんで俺ばっかり。俺が教えていた立場やろ。俺に何を言うねん。おかしいやろ。俺は……俺は、店のために頑張ってたのに!」
早口で捲し立てて。
「ちゃんと戻すつもりやったんです! 盗んだのとは違います! でも、誰も言わないから、だから……それに……俺、この店をよくしたでしょ!? 俺が、どれだけ……」
「落ち着き」
主人が低い声で言いました。
でも、高瀬君は止まらへん。
「俺、責められる筋合いないですよね!? だって俺、誰より働いてましたよね!? 助けてましたよね!? 俺は、間違ってないですよね!? なぁ!」
こっちに縋るような目で、問い詰めてくるんです。
気持ち悪い。でも、可哀想。でも……。
ぜえぜえと、高瀬君の粗い息が、耳を汚していきました。
「そもそも……あいつが、人気者みたいな顔してたから悪くないですか? あいつが、何をしてたって言うんですか? おかしいでしょ? あいつのせいで、変な客ばっかきて、迷惑だったでしょ? よう分からん気色の悪いことも言いよるし、食器の配置とか、スピってて気持ちの悪い……それなのに、可愛いだの、優しいだの、おかしいやろ! 俺だけ……俺だけ損してた!」
歪んだ恨み言が、止まりません。
確かに、ユリちゃんが来てから、高瀬君の存在は「二番手」のような感じやったかもしれません。ユリちゃんは、背中にも目ぇがあるみたいになんでも気付くし、見た目も可愛いし……そういう、バイト同士の人間関係を調整できんかった私らが、一番悪いんやと思います。それでも、高瀬君には、がっかりやった。でも、情もある。私らは、黙って彼の「告白」を聞くしかできんかったんですよね。
「俺は……俺は悪くない……ただ、ちょっと……ずれただけで……ちゃんと反省してます。だから赦してください……」
私は許すとも許さんとも言っていないのに、最後には土下座して。
「ええよ」
と主人が言いました。
「君、真面目やもんな。頑張りすぎて、壊れてしまったんやろ。ほんまはええ子なの、おじちゃん、よう分かってるよ」
主人が高瀬君の肩に手を置くと、彼はその手をゆっくりどかして、厚みのある封筒を差し出しました。
「全部、返します。本当に、一銭も使ってないんです。こっそり返すつもりやった」
「高瀬君」
「俺悪くないんです、俺、盗んでないんです。俺、ただ」
私は、「あっ」と声を上げました。主人も、何か声を出しているのが聞こえました。
高瀬君が二重に見えたんです。輪郭が、じゅわっと溶ける……まるで、熱気の中の景色みたいに。
「俺……赦されないんですよね……でも、俺だけじゃないですよね……」
私は、悲鳴を上げていたと思います。だって、声が、なぜか背後から聞こえて来て。
高瀬君は、じゅわじゅわ、どろどろ、溶けていきます。弱々しく笑って。
「俺、ちゃんと頑張ってましたよね。俺がいて、よかったですよね」
何もできませんでした。
私も主人も、変な声を出して、見ていただけ。彼はずっと、悪くない、赦されたい、そういうことを言いながら、消えた。
何も、なくなりました。
そこには封筒だけが残りました。
私、思わず言ったんです。
「高瀬君、悪くないと思うわ」って。「高瀬君、頑張ってくれてたわ」って。誰に聞かせたかったんか、分かりません。
それでも、と聞こえました。
「それでも、取り返しはつかんのや」
主人が、震える声でそう言いました。
私らは、何もできなかったです。彼がどうなったかも、誰にも言えなかった。ただ、高瀬君がいたところを、見ていました。
しばらくして、ね。「あの家、最近おかしいで」と聞くようになりました。
顔見知りの奥さんが、買い物帰りに小声で言うんです。
「ほら、裕理ちゃんの家やんか。あんたんとこでバイトしてはった。あの子の親、朝から晩まで、人の顔見いひんのやて。挨拶しても返事ないらしいわ」
奥さん、気味悪そうに体を震わせてました。
「なんや、あいさつしても壁に向かって喋ってるみたいやねん。生返事しかしよらへん。娘さんのこと、誰も話題に出されへんで」
「あの子、どうなってん」
「はあ? あんたが一番よう知っとるやろ」
「知らんけど……」
奥さんは信じられないというように目を見開いて、
「レジの金、抜いたって話やんか」
心臓が跳ねました。本当のこと——つまり、高瀬君が嫌がらせで、レジの金を隠して、あの子のせいにしていた——そんなこと、言っていいものかどうか。
私の言葉を待たずに奥さんは言いました。
「恥ずかしい娘ですんませんって言ってたわ」
「えっ」
「最近の話ちゃうよ。だって、最近は顔すらよう見ないし。結構前ね。みんなに謝っとった。恥ずかしい娘ですんませんって」
私は信じられませんでした。だって、あの子が——ユリちゃんが、そんなことをしない子なのは、親が一番よく分かっているでしょう。私だって、分かるんですよ。
「娘やのに……信じてへんの……」
「そら体裁悪いしなあ。『あの子はよそ行かせました』て言い切ってしもたらしいわ」
そのあと、奥さんは何か知りたそうに、あれこれ聞いてきましたけど、何も覚えてません。だって、私、何も知らないんですから。言えないんですから。
ただひとつ、分かるのは、ユリちゃんは、両親に庇ってもらえへんまま、町から出された。それだけ。
どんどん、噂に尾ひれがついていっても、何も言えなかった。