第三話 創りかえてしまったこと
寮の机にノートと録音機、紙コップのコーヒー。まずは予習。再生ボタンを押すと、冒頭に白テロップが出た。
〈原作:加納晋一郎『声なき神』〉
この時点で、なんとなく嫌な予感がする。
金栗に「次はこの人の話を聞いてください」と渡されたリストをじっと見る。
作家だというその人の名前は、正直、聞いたこともない。検索しても大手の文学賞の受賞歴は見当たらない。金栗は、別に予習をしろなんて言ったわけではない。でも、私はノートを開く。一応、一応の準備だ。
空撮ののち、スマホ縦撮りの揺れる画。CMで数回見たことのある俳優が演じる主人公は「作家からYouTuberに転身した」と紹介され、古い井戸の前でカメラへ向き直る。
「今日は■町に伝わる神様を検証していきたいと思います」
地名のところだけピー音。リアリティを出そうとしているのだろうな、と思いつつ、要点を写す。
【視聴メモ『♯神サマ見てるよ』(加納原作の映像化)】
・伝承のモチーフ:声なき神。
・舞台装置:古井戸。
・キーワード:逆さ言葉で祈ると届く。
・主人公設定:作家→動画配信者。「検証」と称して祈る。
前半、主人公は小さな願いから始める。スーパーの値引き弁当の入手、編集機材の不調改善、他のYouTuberとのコラボ。井戸へ顔を寄せ、囁きを逆さにして落とす。ほどなくして、それらは叶う。コラボ動画の配信画面に数字が躍り、主人公の動画は再生数と登録者数がじわじわ上がる。
・逆さ祈り①〜②:小さな願い→即叶う
・数字:再生・登録とも増。模倣する視聴者も出る。
中盤から空気が変わる。主人公の部屋で電話が鳴り、家族に良くないことが続くと示唆される。事故、急病、突然死。直接は映さず、報せと反応で積む。カットの合間に、画面隅で死者カウントが増えていく演出。私は数字を丸で囲む。
・代償としての死亡:合計10人と明示(内訳は親族、仕事関係、配信参加者らしき人の断片)。
・主人公:配信をやめない/やめられない。投稿継続。
井戸のまわりにも異変が演出される。供え物が伏せて置かれていたり、地面に小さな逆向きの足跡が続いたり。低いノイズとともに、画角の端を影がかすめる。合間にノートの写真のようなカットインが入り、作中の伝承メモが示される。
〈声を持たぬ神は、裏返しの型に反応する〉
これは原作からの引用かもしれない。とりあえず線。
・伝承の要点(作中説明):
── 神は声ではなく型に応じる。
── 祈りは逆さで届く。
※ 出典の明示なし(→明日、本人に確認)。
後半、数字は跳ねる。コメントとタグが雪崩のように流れ、〈#逆さ祈り〉〈#神サマ見てるよ〉の動画が連鎖的に生成される。主人公は井戸の前に戻り、虚ろな目のまま、カメラへ向かって言う。
「神サマ、次も頼むよ。見てるから」
背後、井戸の向こうに人の形をした何かが一瞬立つ。顔は映らない。ここで十人目の死亡がナレーションで告げられ、主人公は投稿ボタンに親指を重ねる。暗転。エンドロールは軽い楽曲に合わせた出演者たちのダンス。タグが降り続く。
・最終盤:主人公、再投稿。
・決め台詞:「神サマ、次も頼むよ、見てるから」
・模倣拡散:タグ経由でUGC化。
停止。疲れた。
私はノートの余白に明日の質問を箇条書きで作る。あくまで、会社の業務として聞く。気は進まないけれど、仕事は仕事だ。
作家、とはいえ、名前も聞いたことがないし動画がこの体たらくなら、原作小説も推して知るべし、と心の中では思っている。それでも、この間のように、話を聞くだけの業務で、心が乱されるのは嫌なのだ。だから、準備をする。
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【質問事項】
1)声なき神の伝承:出所はどこか(家族の口承/地域の資料/神社)。
2)逆さ言葉の祈り:実在する伝承か、あなたの創作か(経緯)。
3)古井戸:モデルの有無と場所(実在するなら取材時期)。
4)死者10人:原作にも同数か。根拠/取材源/時系列の有無。
5)作中の「見てるよ」が指すもの:神/視聴者/数字など、原作での定義。
6)あなたの周辺で似た事例は本当に起きたのか(起きたなら、いつ、どこで、誰に)。
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「本当に、くだらない。真面目に作ってこれなの?」
独り言が部屋に響く。
ゴミのような動画に時間を奪われたという怒り、そして、いよいよ何の話を聞かされるのか、という不安。
この町が、予想外に迷信深く、声なき神という信仰対象がいることは分かっている。しかし、それが、みつば文具となんの関係があるのか。
直くんとやらの、整った顔を思い出す。あの仏頂面に尋ねれば、子供らしくない口調で教えてくれるのだろうか。どうせ、父親の金栗を真似ているだけのくせに。
私は深呼吸をしてから、メモを閉じた。
明日は十時、役場の小会議室。録音機のバッテリーを確認し、予備をポーチに入れる。机の上の紙コップはぬるい。飲み干して、ゴミ箱に落とす。
準備はした。話の主導権は私が握る。長引かせなければいい。
録音機の赤い点が正しく点くか、もう一度だけ確かめて、私は部屋の灯りを落とした。
役場の小会議室は、蛍光灯がやけに白かった。四角いテーブルの表面は薄くざらつき、壁時計の秒針が一定の速度で空気を押す。私は録音機の赤い点を確認し、ノートを開いた。十時ちょうど、ドアが音もなく開いて、男が入ってくる。灰色のジャケット、膝で落ち着かない指。
私は立ちあがり、形式通りに会釈する。
「千家彩音です。記録係です」
「……加納です」
椅子がきしみ、ペットボトルが机に置かれる。私は最初のページに視線を落とす。短く済ませる。
「早速ですが、質問させていただきます。まず、『♯神サマ見てるよ』は加納さんの原作を映像化したものですね。この町の伝承、声無き神がモチーフということで合っていますか」
「合ってますよ」
「作中に出てくる逆さ言葉の祈り、古井戸、それから十人の死者。これは、本当にあったことですか?」
ペン先が紙を擦る音が、やけに大きい。顔を上げると、加納は笑っていた。目はじっとこちらを見ている。
「本当にあったか、って?」
「はい、本当にあったことなんでしょうか」
加納はペットボトルを指先で一度だけ押す。水面が揺れ、すぐに静まる。次の瞬間、彼の声が跳ねた。
「あんなもんで済むわけねえだろ!」
反射的に背筋を伸ばし、録音機の赤い点を横目で確かめる。
加納は肩で息をしながら、未だに口元だけに笑みを張り付けている。指先が震える。それが、全身に伝わる。
話を聞くしかないのか。喉が渇く。紙コップの水はぬるいに決まっている。
「すみません。急ぎすぎました。先に、伝承のことを伺いたいです」
加納はそれ以上大声を出したり、ものを投げて来るようなことはなかった。ただ、粘着質な笑みを浮かべたまま、淡々と答える。
「ばあちゃんから聞いた。子どものころ。声のない神の話だ。喋らない。喋らないから、型で返す、って」
「なるほど……逆さ言葉の祈りは、伝承に実在しますか? それともあなたの創作?」
「創作だ。でも、元はある。ある。ある」
「ある」を三度、同じ音量で言った。私はページの余白に丸を打つ。
「井戸は実在しますか」
「ある。でも関係ない、と言われている」
「誰にです?」
加納は窓を見ないまま、窓の方向を指さす。指の先は、壁。私はペンを持ち直す。早く終わらせることを最優先にする。
「映像では十人の死者を出した、とあります。事実の有無だけ答えてください」
「知らないよ。死んだ」
「実際に、亡くなられた方もいるんですね。報道や記録は?」
「ねえよ。出るわけねえだろ。出たら、お前はここにいない」
先程までは恐ろしかったが、なんだか、あまりの迷信深さに滑稽な気もしてくる。
私は一度咳払いをしてから続ける。
「作中の『見てるよ』とは、誰にかかる言葉ですか。神か、視聴者か、数字か」
「どれでもいい。見てるやつは、見たいもんしか見ない……お前もそうだろ。見てるだけ、見てただけって言うんだろ」
「私は見ていないので、お話を伺っています。今は、事実を確認しています」
「確認。いい言葉だな」
加納は爪で机を軽くこすった。きゅ、と乾いた音。その音に彼自身が小さく身を震わせる。私は項目を進める。端的に。
「原作の儀式の部分。これは資料からの引用ですか。あなたの創作ですか」
「俺の。でも俺のだけじゃない。言葉を並べ替えただけだ。向こうのを」
「向こう?」
「向こうだよ。ページの裏側、上、もっと上はるか上」
一瞬、動揺が顔に出そうになる。上、という言葉で、何かを思い出した。でも、それには気付きたくない。私は早口で続ける。
「最後に。その、伝承があったというおばあさまの家は」
「行くな」
「……はい?」
「行くな。録るな。書くな。笑うな……笑ったろ?」
俳優陣のダンスシーンで噴き出した。あまりにも、バカバカしいから。
「あの、加納さん……」
録音機を触ろうとした手を掴まれる。
加納は、私の目をまっすぐに見ている。
「俺が話す。それを、お前は聞け。最期まで」
手のひらが汗で滑る。空調の風が急に弱くなり、蛍光灯の高い唸りがはっきり立ち上がる。