名取ひかるという女の子が、教室にメダカを持ってきたのは、雨の翌日だった。
透明なビニール袋に入っていた。袋の中で、水が少し濁っていて、その中を、細い銀色の影が動いていた。
名取ひかるは、大事そうに、慎重に袋を持っていた。
担任の赤羽恭介が教室に来ると駆け寄って言った。
「あの、先生、みんなで飼いませんか? お兄ちゃんととってきて育てたんですけど……けっこう、増えたから」
少しだけ胸を張っていた。
赤羽恭介は、袋を覗き込み、穏やかにうなずいた。
「ひかる、ありがとう。すごくいいアイデアだと思う」
名取ひかるは、ぱっと顔を明るくした。
「どうかな、みんなも。教室でメダカ、育ててみよう」
赤羽恭介の問いかけに、クラスの中から「いいよー」「育てたい」「メダカかわいい」という声が返ってきた。
「じゃあ、みんなで育てよう。これで観察ができるね」
その日のうちに、水槽が教室の後ろに置かれた。
理科室から借りたものだった。表面は少し曇っていた。何人か協力して、洗ってきれいにした。底に砂利を敷いた。水を入れた。
名取ひかるは、袋の口を開けて、水ごと流し込んだ。
メダカは、しばらく底に沈んでいた。それから、ゆっくり泳ぎ出した。小さな群れになった。
クラスで当番を決めた。エサは、名取ひかるが家から持ってきた。粉みたいな、小さい粒だった。
当番を決めたけれど、あまり意味はなかったかもしれない。名取ひかるはいつも、水槽を見ていた。
名取ひかるは、毎朝、数を数えた。一匹一匹名前をつけて数えた。
全部いると、少しだけ笑った。
名取ひかるほどではないが、他の子供たちも、水槽の前に立っていた。
誰かが、「今日も元気やな」と言った。
誰かが、「一匹ちっちゃいのいる」と言った。
エサをあげすぎるなとか、濁ったらまた掃除しなきゃとか、名取ひかるはどこか楽しそうに言っていた。
僕は、当番にならなかった。順番が回ってこなかったのではなく、そもそも人数に入れられていなかった。僕は世話をする必要がないと思われていた。だから世話はしなかった。でも、たまに、みんなと同じように、水槽の前に立った。
理由はなかった。ただ、見ていた。
生きているものが、生きているまま、閉じた箱の中にいる。それが、少し、不思議だった。
それは、唐突に終わった。
名取ひかるが教室にメダカを持ってきてから八日後のことだ。放課後、人がまばらになった教室。どかどかと足音がして、振り返ると、後ろのドアから、木原庸太郎が、バケツを持って入って来た。バケツの中からは水の音がして、泥の臭いがした。
底に、赤黒い影が見えた。
ザリガニだった。
木原庸太郎は、笑っていた。
「なあ、これ入れたらどうなると思う?」
一緒にいた男子が言った。
「ザリガニがメダカ食うやろ」
木原は、ザリガニを指でつまんだ。殻が、ぎしっと鳴った。ザリガニは、尾をばたつかせた。
クラスにまだ残っていた安藤千秋が言った。
「男子、やめえや」
木原庸太郎は、安藤千秋を睨みつけた。
「うるさいなあ」
「なんでそんなことするん?」
安藤千秋の声は震えていた。
「みんなで、当番してるんやって……大事に育てとるんやから……」
木原庸太郎と、他に数人いた男子が笑い飛ばした。
「それが何なん?」
安藤千秋を馬鹿にするように木原庸太郎は言った。
「どうせ魚やん。エサやろ」
安藤千秋の声は、悲鳴に近かった。
「メダカ、生きとるんやからっ」
木原庸太郎は、ザリガニを水槽の上に持ち上げた。
水槽の縁に、影が落ちた。
胸の奥が、強く縮んだ。息が、一瞬止まった。
ザリガニの脚が動くのが、嫌だった。
メダカが、逃げ場がないのが、嫌だった。
木原庸太郎の声が、嫌だった。
体の奥から、熱いものがせり上がった。
初めての感覚だった。
あとから、怒りだと知る。
しかしそのときは、ただ苦しいと感じた。
それでも僕は何も言わなかった。
ザリガニは、水槽に落ちた。
水が跳ね、ザリガニは、底に沈んだ。
メダカは、散った。
一匹、噛みつかれた。
銀色の体が、ねじれた。
尾が、ちぎれた。
黒いものが、水に広がった。
小さい音が、何度もした。ぶつかる音。何度も、何度もした。
木原庸太郎は、笑った。
「うわ、ほんまに食うとるやん」
息がまた詰まった。
やめろ。殺すな。
そう思った。僕はそう思った。
何かが、体の奥で、押し出された感じがした。
でも、何も起こらなかった。
安藤千秋は泣いていた。
ザリガニは生きていて、メダカは死んだ。
次の日の朝、「おっはよう!」と声が聞こえた。名取ひかるだった。名取ひかるが、いつものように荷物を投げて、真っ先に水槽を見た。
一瞬、動かなかった。それから、声を出した。泣き声だった。叫ぶような声。
水槽の前に座り込んだ。
安藤千秋が、飛んできた。
「ひかるちゃんっ」
安藤千秋は名取ひかるを抱きしめた。名取ひかるは、一度安藤千秋を振り払った。それでもまた、安藤千秋は手を伸ばして、名取ひかるの肩を抱いた。
「ごめんね……ひかるちゃん、ごめんね、私、私……」
名取ひかるは、わんわんと声を上げて泣いた。安藤千秋の口からもやがて言葉は消えて、嗚咽だけが漏れていた。
誰かが、赤羽恭介を呼んだ。
赤羽恭介は、水槽を見た。
赤羽恭介は、喉が詰まったように「ぐ」と唸った。そしてすぐに、水槽を運び出した。
朝の会は静かだった。
「皆さん、目を閉じてください」
赤羽恭介がそう言うと、少しだけ教室がざわめく。赤羽恭介は温度の無い口調で、「皆さん、目を閉じてください」と繰り返した。
「先生がいいと言うまで、開けないでください」
教室が静かになった。
「誰にも言いません。だから、水槽にザリガニを入れた子は、手を挙げなさい」
僕は、目を閉じた。
暗かった。何か深いところに、石が置かれている。それは僕を不快な気分にさせている。はやく石をどけたい。それでも僕にはどけ方が分からなかった。
誰も、何も言わなかった。手を挙げる気配もなかった。
沈黙が続いた。
その沈黙の中で昨日と同じ感覚が来た。
石が投げ込まれたのだ、と思う。ずしりと重い、不快な異物。
胸が、震えた。息が、詰まった。
僕は短く息を吐いた。
ぼ、と音がした。
耳を劈くような悲鳴。
木原庸太郎の叫び声だ。
「庸太郎!」
赤羽恭介の声。
目を開ける。
木原庸太郎が、床に転がっていた。
腕が、関節とは逆の方向に曲がっていた。
木原庸太郎は床をはいずり、ぐるぐると回る。子供たちが悲鳴を上げる。それでも木原庸太郎は動きを止めない。痛いという声はなかった。ただ、蠢いていた。
僕は木原庸太郎から視線を元に戻した。
皆が、僕を見ていることに気付いた。
誰も、大きな声では言わなかった。それでも僕は知っている。上も知っている。
彼らは僕を見ていた。
天罰だ、と子供たちは思っていた。
直くんが、木原に天罰を与えた。
メダカ殺しの罪を裁いた。
子供たちは僕を見て、そう判断した。
あなたの声が、頭の中で鳴った。
「ムカつく奴とかいたら、天罰与えたいって思うよね?」
あなたの声を思い出した。胸の震えと、重なった。
ムカつくとは、怒りだ。つまりこれは、怒りだ。
昨日、死んだメダカを見た時の。今、木原を見たときの。
もし。怒りを感じたから、これが起こったのだとしたら。
もし。僕の感情で、木原庸太郎がこうなったのだとしたら。
「天罰与えたい」
そう思ったということなのか。僕が。それとも、上が。
石はどけられていた。何も感じなくなっていた。
それで、考えた。
怒りという感情で、メダカを殺した木原庸太郎は罰され、石がどけられた。
ということは、これは天罰だ。
天罰とは、神が、愚かな罪を犯した人間に与えるもの。
僕が「天罰与えたい」と感じて、これが起きたということは。
事実を話さなければいけない。後で僕自身の思考を話す。先に事実だ。
事実として次の日から、木原庸太郎は学校に来なくなった。
「腕、治らないんやって」
「引っ越すらしいで」
そういう噂だった。それ以上の話は広がらなかった。
数日後、木原庸太郎の席はなくなった。
赤羽恭介は、「転校しました」とだけ言った。皆、「当然だ」と考えていた。僕は畏れられることもなかったし、赤羽恭介も名取ひかるも安藤千秋も僕に何も言わなかった。
それについて、誰も不思議がらなかった。
僕は上から聞いた。
木原庸太郎は、内容が書き換えられた。上がそうした。
何が、どう書き換えられたのかは、分からない。分からないまま、そうなったのだとだけ分かった。
名取ひかるは泣かなくなった。
水槽は片付けられた。
誰も後ろを振り返らなかった。皆、普通に笑っていた。
「直くんって、やっぱり神の子なんやな」
「天罰とか、怖いわ」
昨日の天気の話と、同じくらいの軽さだ。変化はない。
僕の扱いも変わらない。
腫物ではない。敬意。
おそるおそるではあるが、話しかけて来る。
僕の言うことを、皆が聞いた。
僕の言った通りに、皆が動いた。
それは、前からそうだった。
だから、変わっていない。何も変わっていない。そういう感じだった。
変わったのは、僕だ。
「ムカつく奴とかいたら、天罰与えたいって思うよね?」
何かが起こるたびに、考えるようになった。
今のは、僕がやったのか。
上がやったのか。
机の上の花が枯れたとき。
廊下で誰かが転んだとき。
教師が話せなくなったとき。
水道から水が止まらなくなったとき。
考える。
考えても、分からない。
胸が震えたか。
呼吸が詰まったか。
でも、それも曖昧だった。
いつからか、その感覚は、日常になった。
もし。
もし、あのとき。
木原庸太郎の腕が折れたのが、僕の怒りのせいだったとしたら。
それは。
上が僕を通してやったのではなく。
僕が、やったことになる。
その場合。
僕は、神の子ではない。
神の道具でもない。
神と同じ側にいる。
そういうことになる。論理は破綻していないと思う。あなたはどう思う? 率直に言ってくれて構わない。破綻していないよな。続けます。
皆は言う。
「直くんは神の子だ」
でも。
神の子というのは、神と人の間に、線が引かれている言い方だ。繋がりがある。
親と子、という繋がりだ。親は子供に与え、子供は親に従う。
でも。
もし、僕がやっているのだとしたら。
繋がっていない。
上下もない。
だから、これは当然の結論だ。こうなってしまった。合っているかどうかは知らない。ただ、こうなった。僕が出した結論だ。
上は、声の無い神。
ただ、在るだけのもの。
何も語らない。
何も説明しない。
僕は、語る神。
言葉を持っている。
口を開く。
お告げのような形で、言う。
奇跡のような形で、起こる。
そしたら、そう思うのは当然じゃないか。論理は破綻していないと思う。あなたはどう思う? 率直に言ってくれて構わない。率直に言って構わない。あなたの美点は、率直さだ。言ってほしい。
上がいるのか、いないのか。
最初からいなかったのか。途中でいなくなったのか。
そもそも、最初から、上などなかったのか。
なぜ答えない? 言えばいい。あのときの言葉、僕は思い出せるよ。何度も。
「ムカつく奴とかいたら、天罰与えたいって思うよね?」
分からない。ただ、何かは起こるんだ。絶対に起こる。
僕が何かを感じたあと、何かは起こる。それが大きいか小さいかの差だ。
皆は、奇跡と呼ぶ。天罰と呼ぶ。祝福と呼ぶ。
答えてくれ。あなたが言った。最初に言った。天罰と言った。
僕には分からない。だから聞いている。
僕には分からない。
誰の意志なのか。意志があるのかどうか。それすら、分からない。
僕は、もう、分からない。
上がいるのか。いないのか。僕が何を感じているのか。
それで、何が起こってしまうのか。
すべて、分からない。