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 駅まで走りきってから、ホームの端で膝に手をついた。喉が焼けるように痛い。息を吸うたび、胸の奥が細かく震える。緊張でも恐怖でもない。単純に走ったせいだ。

 さつき町の駅は、小さい。ここに来た時と同じ。

 二両編成しか止まらないようなホーム幅、雨よけの屋根の薄さ、ベンチの木目の剥げ。自動改札は一台。無人のくせにICカードにも対応している。改札口の横には窓口。誰もいないくせに、綺麗。

 掲示板があった。透明なアクリル板の奥に、手書きのポスターや町内会の回覧が几帳面に並んでいる。古臭くて嫌だ。もう見ることはない。

「資源ごみ回収日変更のお知らせ」

「さつき町夏祭り(中止)」

「落とし物は駅員まで」

「迷惑駐車はご遠慮ください」

「防犯カメラ作動中」

 文言まで一昔前のものだ。黒々とした油性ペンの文字に、紙の角を留めるホチキスの針。

 時刻表も貼ってある。薄いプラスチックの板に印刷された、細かすぎる文字。次の電車は。時計を見る。駅の柱にぶらさがっているアナログ時計。いや、信用できない。腕時計の秒針を確認する。同じ。ちゃんと進んでいる。ずれていない。少なくとも、今は。

 気を抜くと、食堂の光景が思い浮かぶ。ぐるぐると無秩序に回って、何もかもおかしい時計。

「時計だけじゃなくて全部おかしかったけど」

 口に出すと、舌が乾いて音が割れた。妙な話ばかり聞いた。妙なものばかり見た。頭がおかしくなるのも当然だ。安心していい。大丈夫。もうやることは決まっている。当たり前にできる。

 電車を待つ。

 乗る。

 町を出る。

 ホームのベンチに座った。ベンチの背板が冷たく、湿っている。夜露だろう。線路の向こう側には雑草が伸び、黒い影が揺れている。遠くで犬が吠えた。あるいは、犬みたいな人間の声かもしれない。

 発車案内の電光掲示板は、暗いままだった。壊れているのか、節電なのか。駅のスピーカーも沈黙している。駅舎の蛍光灯だけが、じい、と虫の羽音みたいな音を立てて白く光っている。

 電車が来る気配はない。早く来てほしい。来るはずだ。

 線路の先を見つめた。暗闇の中に、光が一つでも現れたら、それで終わる。そういう話だ。そういう仕組みだ。

 ブオン、と音がする。

 私は、社員寮のベッドに座っていた。

 手が、毛布の端を掴んでいる。膝にはセカンドバッグ。机の上には、開きっぱなしのノートとレコーダー。窓の外は、同じ夜。

「は……」

 声が出た。間抜けな声。

 瞬きしても景色は変わらない。冷たい蛍光灯の色。安っぽい壁紙。自分の服のまま。靴下も穿いたまま。走って息切れして、汗ばんでいる感覚も残っている。

 立ち上がり、部屋のドアを開け、廊下に出た。廊下は静かで、どこからも生活音がしない。夜中だから当たり前だ。そういうものだ。

「誰とも会わない」

 誰に言うでもなく呟いて、駅へ向かった。

 走らない。落ち着く。変なところばかり意識しない。風景は風景として捉える。誰も話しかけて来ない、誰もこちらを見ていない。見ていたとしても、特別な意図はない。何も起こらない。私は疲れている。疲れているから、変なことが起こっているように感じる。

 道は暗い。街灯はあるが、光が薄い。足元の影が長く伸びて、彩音の歩調に合わせて揺れる。商店街は閉まっている。シャッターの前に自転車が一台、倒れたままになっている。さっきは直してあった——いや、さっきなんてない。倒れている。それだけ。

 駅に着く。

 駅舎のガラスに自分の顔が映った。青白く、目が据わっている。怒っているように見える。これにも意味はない。疲れているだけだ。

 切符売り場の前に立った。ICカードを使わない。切符を買う。後で精算する。券売機は古いタイプで、ボタンがべこべこしている。運賃表のパネルには、行き先の駅名が並んでいる。町を出るための駅名も確かにある。数字もある。

 千円札を入れた。札が飲み込まれ、機械がうなった。

 目的地のボタンを押す。一番近い乗り継ぎ駅。

 ボタンの表面に、薄い透明な膜が張ったみたいに、指が滑る。押した感触がない。力を入れても、へこまない。

「壊れてる?」

 隣のボタンも押してみる。押せない。全部押せない。指先が痛い。痛くて冷たい。

 改札へ向かった。自動改札は、青いランプが点いている。ICカードを使う。残額が少なくても通れるはずだ。もしひっかかってしまっても、駅員に言えば——いや、駅員などいない。

 バーが閉まる。

 パタン、と玩具みたいに軽い音。

 怒りが先に出るのが、自分でも分かる。こんな時に怒るのはおかしいかもしれない。でも。

「ちょっと、ふざけないで」

 誰に向かって言っているのか分からないまま、彩音は後ろを振り向いた。

 駅舎の壁に、掲示板がある。

 さっき見た紙が、同じ場所に貼ってある。

「夏祭り(中止)」の紙だけが、なぜか湿って波打っている。

 その紙の波打ちが、だんだん、誰かの口元に張り付いた笑みのように見えてくる。

 自分の部屋のベッドに座っていた。

 セカンドバッグ。ノート。レコーダー。

 同じ配置。

 同じ夜。

「何……」

 ベッドから立ち上がり、机に手をついた。机の角が手のひらに食い込む。

 これは夢だ。

 疲れている。

 寝不足。

 変な話を聞いた。

 頭がおかしい住民といたから、こちらも頭がおかしくなった。

 でも、汗の匂いがする。靴下に草もついている。息も荒い。

 駅へ向かった。今度はスマホで時刻表を確認しようとしたが、電波が不安定でページが開かない。画面の読み込みアイコンだけが、くるくる回り続ける。

 駅に着く。

 ホームへ上がる階段の途中、駅舎の中から声が聞こえた。

「あ、そうそう。もう遅いねん。だから回すからね」

 女の声。聞き覚えがある。社員寮のカフェテリアで聞いたような、中年女性の声。

 誰でもいい。立ち止まらない。そんな価値はない。

「遅いって何よ」

「遅いねんて」

 二人いる。気になる。耳障りだ。声の主は見えない。窓口のシャッターは閉まっている。待合室のベンチにも誰もいない。なのに、声だけがある。

「雑草やからね、ほんとに。誰か抜かなあかん」

「雑草て」

「雑草やで」

 笑い声。長い。見たくない。関わりたくない。

 足音を殺して、ホームへ上がろうとした。

 そして、自分の部屋。

 さすがに笑った。かはは、と声が出る。乾いた、ひきつった笑い。

「何、これは」

 夢だ。

 疲れている。

 ストレス。

 脳が現実を繋ぎ間違えている。

 だから、もう一回。確認。実験。

 部屋のドアを開ける前に、机の上のペンを一本手に取った。青いボールペン。キャップに小さな傷。確実に、今ここにあるもの。そのペンで、自分の手の甲に小さく点を打った。インクの点。これが残っていれば、夢じゃない。変なことが起こった場合、きっとこれは残らない。きっと。多分。絶対。

 廊下へ出る。

 階段を下りる。

 外へ出る。

 駅へ向かう。

 道中、妙なものは見ない。住民と目を合わせない。ひたすら足元だけを見る。

 駅に着く。

 ホームに上がる。

 ベンチに座る。

 今度こそ、待つ。

 時刻表の紙を読む。

 端がちょっと破れている。

 駅名の一つが、インクが滲んで読めない。

 電車は来ない。

 まだ来ない。すぐ来る。

 構内放送が突然鳴った。

「まもなく」

 そこで途切れる。

 スピーカーが、ざざざ、と砂を噛むようなノイズを吐く。続きの言葉がない。まもなく、何が来るのか。何が始まるのか。何が終わるのか。

 苛立ちが戻ってくる。苛立ちの方が、安心する。自分が自分でいられる。

「まもなくって何。ちゃんと最後まで言えよ」

 誰も答えない。

 線路の先の闇が、わずかに濃く見える。目の錯覚だ。疲れている。

 立ち上がって、ホームの端へ近づいた。白線の内側に立つ。線路を覗き込む。

 砂利の一粒一粒が見えるほど、駅の灯りは明るいのに、線路の先だけが黒い。黒すぎる。

 自分の部屋。

 手の甲を見る。青い点がある。

 消えていない。

 どうして?

 どうしてこうなる?

 夢なら、もっと支離滅裂になるはずだ。

 疲れているなら、意識が飛ぶだけのはずだ。

 なのに、駅に「行った」感触だけはある。

 もう一度駅へ向かった。五回目。

 改札の前で、深呼吸した。落ち着け。焦るな。焦ると変なことが起きる。焦らなければ、普通に通れる。

 改札の横に、ICカードの読み取り機がある。彩音は持っている。普段使っている交通系のカード。

 タッチする。

 ピッ、と鳴った。

 通れる。

 一歩踏み出した。

 バーは開いている。

 足が前に出る。

 駅の匂いがする。鉄と埃の匂い。

 背中が少し軽くなる。

 改札の奥の掲示板が目に入った。

〈忘れ物のお知らせ〉

 ・青い傘

 ・自転車の鍵、シロクマのキーホルダー付き

 ・花の刺繍が入った手袋

 その下に、見慣れない紙が一枚。

 真っ白な紙。文字だけが、ぽつんと書いてある。

 おかえりなさい

 立ち止まった。誰に向けた言葉なのか分からない。でも、分かる。腹の奥がきしんだ。

 後ろを振り向く。

 駅舎のガラスに、自分の姿が映っている。

 その背後に、誰かが立っているように見えた。

 自分の部屋にいた。

 ベッドの上。セカンドバッグ。ノート。レコーダー。

 同じ夜。

 同じ静けさ。

 息を吐いた。吐いた息が、薄く白くなる。寒くない。なんで。どうしてこうなる。

 手の甲の青い点を見つめる。

 消えない。

 笑おうとして、失敗する。

「帰れないの?」

 口に出した言葉だけが、部屋の中に落ちた。

 

(つづく)