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 金栗宗久の妻は、穏やかな人だった。

 控えめで、明るく、笑うときにはいつも手を口に添えた。

 その笑い方が好きで、彼は結婚してからも、毎朝顔を見るたびにほっとしていた。

 妻は町の商店街でよく買い物をした。鮮魚店で小鯛を選び、果物屋では熟した桃を指で軽く押して確かめた。金栗は時々、その背中を遠くから見ていた。まるで季節の中に人が溶け込んでいるようだった。

 あの日のことは不意打ちのようだった。

 最初は、腰が痛いと言っていた。

「冷えたのかもしれない」と笑っていたが、午後には熱が上がり、夜にはほとんど起き上がれなくなっていたそうだ。

 金栗はそのとき、電話の応対に追われていた。神社の祭事を前に、氏子総代や観光課との調整が立て込んでいた。

「今日はゆっくり休んで」——その一言で、すべてを済ませてしまった。

 翌朝、妻は意識を失ったまま病院に運ばれ、そのまま二度と目を覚まさなかった。

 診断名を聞いても、何も頭に入らなかった。肝臓の疾患、とだけ言われたが、どんな病気だったのか、いまでも正確な言葉を思い出せない。

 たった一日で、世界の音が全部変わった。

 通夜のあと、金栗は神社に戻った。

 社務所の床はまだ陽の熱を持っていた。冷房を切り忘れていたせいだろう。机の上の榊が萎れていた。

 誰もいない社殿に、線香のような匂いが漂っていた。妻が使っていた香だった。

 金栗は賽銭箱の前に立ち、手を合わせた。けれど、その夜、祈りの言葉は一つも出てこなかった。

 沈黙の奥に、神がいる。そう信じてきた。

 けれど、その沈黙があまりに深く、冷たいものだと初めて知った。

 翌朝、金栗は再び社に上がり、祭具をひとつひとつ磨いた。

 磨きながら、妻の声を探した。名を呼んでも返事はない。だが、朝の風の動きの中に、一瞬、妻の気配が混じるような気がした。

 風が吹き抜けるたびに、耳の奥で「ここよ」と囁かれるような錯覚が起こった。

 夜はその錯覚が、ずっと強くなった。確かで、静かだった。だから、彼の中では、それは錯覚ではなく、現象だった。

 それから金栗は、夜ごと祈るようになった。

 祈りというより、問いかけだった。

 どうすればよかったのか。何を見落としていたのか。

 そして、その問いの最後にはかならず「どうか、教えてください」と付け足した。

 何も起こらない夜が続いた。

 一か月後の夜だった、空が光ったのは。

 音はなかった。ただ、真夜中の社殿が一瞬だけ昼のように明るくなった。

 雷でも、稲妻でもない。

 喉の奥が震え、身体の奥を通して何かが届いた。

 その瞬間、宗久は悟った。

 ——これこそが、声なき神の声だ。

 彼の祈りはより熱のこもったものになった。

 ただの祈りではない。呼びかけであり、交信であり、懇願だった。

 最初の数日は、何も返って来なかった。

 しかし、ある夜、胸が詰まるような痛みに襲われ、その直後に町の裏通りの映像が頭の中に流れた。錆びた水道管、漏れ出る水。

 翌朝、その場所で配管が破裂した。

 それは偶然ではなかった。

 その後も、誰かの体調や家屋の不調を先に察知するようになった。

 金栗は、沈黙の中に宿る意志をはっきりと感じ始めた。

 町の人たちは、最初は戸惑った。

「奥さんが亡くなってからおかしくなった」そう言って、距離を置いた。

 しかし、状況はすぐに変化した。神主である、という立場も町の人々の「信頼」を加速させたのかもしれない。

「彼は、神の意志を理解し、実行している」

 いつしか、不気味である、という声よりも、信頼できる、という声が大きくなった。

 しかし、金栗にとって大事なのは町ではなかった。

 妻を、呼び戻すこと。それだけだった。

 最初の儀式は、商店街を歩くことから始まった。

 妻が最後に訪れた順番と同じ道を辿る。

 肉屋の前で立ち止まり、魚屋の店先を覗き、果物屋の棚の陰に顔を寄せる。

 彼はどの店でも何も買わなかった。

 ただ、「ここに、彼女がいました」と静かに告げるだけだった。

 店主たちは不安げに視線を交わした。

「金栗さん、痛々しいわねえ。気でも触れたんかねえ」「夜になると毎日通るんよ」

 けれど、金栗が通った後は、不思議と客が増えた。

 そのうち「ご利益がある」と言い出す者が出てきた。

 朝祈るのはやめた。氏子からの反対もあったが、押し通した。

 彼は感覚的に理解していた。夜が明けると、妻の匂いが遠ざかっていく。

 では、夜が明ける前に祈ればどうなるのか。

 午前四時前。

 社殿の灯籠の火を一本ずつ吹き消す。

 かつて妻が掃除を手伝っていた場所は、もう闇に沈んでいる。

 鈴を鳴らさず、柏手も打たない。

 ただ両の掌を胸の前で合わせ、目を閉じた。

 境内の空気は濃い。虫の声もない。

 時間が止まったようだった。

 闇の中で、確かに何かが近づいてくるのを感じた。

 耳の奥で、微かな呼吸音がする。

 妻のものに似ていた。

 それは声ではない。

 空気の振動が、皮膚の下を這う。

 社殿の奥から風が吹いた。

 風は境内を回り込み、後ろ髪を揺らす。

 その瞬間、彼の胸の奥で雷のような衝動が走った。

 音はない。

 ただ、夜と朝のあいだの薄明に、何かが目を覚ました。

「君なのか」

 声はほとんど息だった。

 その答えに、風がひときわ強くなる。

 境内の砂が舞い上がり、灯籠の石肌を撫でる。

 目を開けると、空はまだ暗く、遠くの山だけがぼんやりと青白い。

 町の家々はすべて眠っている。

 ただ、社務所の窓だけが微かに光っていた。

 確信に変わった。

 神は夜にいる。

 光が訪れる前にだけ、沈黙の神はこの世と通じる。

 昼の祈りは届かない。

 その後も彼は、毎夜同じことをした。

 夜明けの一刻前に火を消し、鳥の声が戻るころには家へ帰る。

 妻の雰囲気を確かに感じながら、声を使わずに神と語り合っていた。

「何か、分かるもんがあるんやろねえ」

 氏子たちは呆れながらもそう言った。明らかに、神社の雰囲気は静謐で、神聖なものとなっていたからだ。

 金栗はただ、微笑んだ。事実、どのような会話をしたか——そのようなことは、言語化ができない。できないからこそ、神なのだ。

 他の人間に聞こえるはずもない。沈黙という「声」を聴いているのは、自分だけなのだから。

 井戸でも、彼は儀式を行った。『#神サマ見てるよ』にも出てきた、あの井戸。

 彼の妻が幼いころ、よく覗き込んで遊んでいた神社裏の古井戸。

 夜ごと水を汲み、注ぎ、また汲み上げて注ぎ直す。

 そのたびに水面がわずかに光る。

 そこに妻の影を見る気がして、手を伸ばした。

 井戸に映る自分の顔が、次第に別人のように見えてきた。

 笑っているようでもあり、泣いているようでもあった。

 

 金栗の行動は、日を追うごとに形を持ち始めた。

 人々は既に、受け入れていた。

「金栗さんが歩くと風が変わる」「昨日もあの人が通ったから子どもが熱を出さずに済んだ」

 しかし、不思議なことに、人々に受け入れられるほど、空虚な気持ちが募った。

 妻の声は戻らず、夢の中でも現れない。雰囲気だ。風だ。匂いだ。

 神はそれでいい。しかし、妻は人間ではないか。

 金栗はより一層、儀式に力を入れた。

 ある晩、井戸に注いだ水面が小さく波打ち、どこかで笑い声が聞こえた。

 はっと顔を上げた。頬の横に、暖かい空気が触れた。それは、人の体温だった。

 彼は目を閉じて呟いた。

「もうすぐ、帰ってくる」

 その感覚は間違っていなかったかもしれない。

 その夜を境に、町の雰囲気は一変した。

 夜道を歩く人影が増え、眠っていた商店の灯りが次々と点いた。

 昼夜を問わず、人の笑い声が聞こえる。

 どこから聞こえているのか、誰がやっているのか、分からない。商店で物を買う人も売る人もいない。皆寝ている。しかし、人がいて、笑いあっている。祭りの日のように、道に人が大勢集まっている。誰の顔もよく分からない。どこへ向かって歩いているのかも。しかし、賑わっているという事実だけがあった。

 金栗はそれを気にしなかった。

 これは、寂れた町の回復で、間違いなく、神の恩寵の証だった。

 妻のための祈りは、既に神の代弁となり、世界そのものを整えつつある。

 声無き神は応えている。

 その信念だけが、彼を支えていた。

 

(つづく)