第五話 この町が終わればよいと思ったこと
社員寮の駐車場に降りたとき、最初に目に入ったのは、見慣れた白いワゴンだった。
「あ」
思わず声が出る。
金栗宗久の車だ。やや年季の入ったセダンタイプの乗用車。神社の人なのに、ワゴンじゃないんだ、と思ったのを覚えている。ナンバープレートを見なくても分かる。何度も「ほらほら、乗って乗って」と言われて押し込まれた助手席の匂いまで、妙にはっきり思い出せた。
なんだか懐かしくなって、私は勝手に口角が上がるのを感じた。
金栗さんって、親切だったよなあ。
社員寮にアイスの箱を抱えてやってきて、「差し入れでーす!」と大声を出して、みんなを笑わせていた顔。
宗教者というより近所の気のいいおじさん、みたいなノリ。
取材でへとへとになって帰ってきたら、廊下ですれ違いざまに「千家さん、これからどう?」なんて、酒を飲みに誘われたこともある。「まったく、毎晩飲んでるから寝坊するんでしょ?」と言うと、照れたみたいに頭を掻いていた。
あののらりくらりとした調子で、「車自由に使ってね、返さなくてもいいから」と鍵を渡されたのだ。
能力を隠しているとかもなく、本物の昼行燈。でも、憎めない。
何もしてくれないけれど、会えないと寂しい気持ちになる。
いなくなった理由を、私はあまり真剣には考えないようにしている。考えると胸のどこかが変なふうに冷たくなるからだ。
ポケットからメモを出す。
宗久が残していった、今回の「聞き取り対象者リスト」。
表紙代わりに一枚だけ色付きの紙が重ねてあって、マジックで大きく「順番」と書いてある。中は、几帳面な字で町の人々の名前と簡単なメモが並んでいた。
〈矢田部ミカ。さつき高校二年。さつき高校図書館併設カフェにて。〉
高校生。
話の通じない加納のあとに高校生か、とため息が出る。いい加減、普通の、社会人と話したい。
ページをめくると、その先にもまだ名前が並んでいた。
「だるいなあ」
思わずひとりごとが漏れた。
「金栗さん、ほんとガイド役放棄しないでほしかったなあ……」
ぼやいてから、自分で苦笑する。
放棄というか、急にいなくなっただけなんだけど。
でも、あの人のことだ。どうせどこかで酒でも飲んで、昼まで寝ているに違いない。そう思うと、少し気が楽になった。
私はドアを開け、運転席に乗り込む。
東京では基本的に電車移動だったから、運転に自信はない。スマホでこの車種の運転マニュアルを確認してから、深呼吸をする。幸い、交通量は少ない。ここなら、事故の心配はない。
エンジンをかけると、少し大きめの音を立てて車が目を覚ます。
ダッシュボードの上には、コンビニのレシートと、ミントタブレット。
フロントガラスの隅に、小さな鳥のステッカーが貼ってある。
前に乗ったとき、こんなのあったっけ、と一瞬だけ思う。けれど、すぐにどうでもよくなった。
「さつき高校、図書館……」
ナビはついているが、画面は真っ暗で、電源が入らない。
仕方なく、スマホをナビとして使う。古い機種で、バッテリーの持ちも良くないから、少し不安だ。
車は少し重い音を立てて坂道を下る。
朝の町は、ゴミひとつ落ちていない。
商店街のシャッターが少しずつ上がり、パン屋からは香ばしい匂いが漂っていた。
どの店の前にも、植木鉢や花壇がきちんと並べられていて、どれも元気に花をつけている。少しいい気分になって音楽をかけようかと思うが、音楽アプリとナビが同時に再生できるか分からないし、諦めた。
エンジン音とタイヤがアスファルトを擦る音だけが、車内に満ちていた。
道を横断しようとしている老人がいた。信号が青になる。それなのに渡らない。深く頭を下げるから、もしかして「渡るのに時間がかかりますからご容赦ください」という意味なのかな、とも思う。それで、後続車両もいないし、待ってみる。しかし老人はお辞儀のまま、渡らなかった。
「何してんのこの人」
反対側から中年女性が小走りで渡ってきて、老人に何か話しかけている。
私はそれを横目で見ながら、「ボケているのかもしれないな」と走り抜けた。
「目的地周辺です」
スマホからそう声が聞こえて、安心する。しばらくぶりでも運転に問題がなかった。気分がいい。
正門の前には「さつき町立 さつき高校」と書かれたプレートと、少し古びた石造りの門柱。
高校の隣には、町立図書館。
その手前に、小さなカフェテラスが張り付くように建っている。
こぢんまりした店だが、ガラス張りで中がよく見える。
朝の時間帯らしく、席にはぽつぽつと学生らしき子が座っていた。
その中に、制服姿の女の子がひとり、こちらに背を向けて座っている。
「多分……あの子かな」
私は車を図書館の駐車場に停めた。
エンジンを切ると、急に静けさが押し寄せてくる。
遠くでチャイムのような音が聞こえたけれど、すぐに消えた。
リストをもう一度確認する。
矢田部ミカ。さつき高校二年。
名前の横には、宗久の字で小さく「とても真面目」「少し頑固」とだけ書き添えられている。
「真面目で頑固……思春期の女の子なんてみんなそうでしょ」
外の空気は妙にひんやりとしている。もう記憶の彼方になってしまった自分の高校時代。私は部活なんか入りたくなかったけれど、絶対にどこかには所属しなくてはいけないと言われて、文芸部に入った。見るからに暗い子たちばかりで、話も全く合わなかったから、ほとんど参加しなかった。文化祭のときだけ、仕方なく掌編を書いたっけ。内容も全く覚えていない。そんな私が、記者になって、営業になったのに、また記録をしている。
書き物から逃れられない人生なのかもしれない。
カフェテラスの方から、コーヒーの香りが漂ってくる。
私は肩の力を抜いて、取材用のノートとレコーダーが入ったバッグを持ち直し、矢田部ミカが待つ席へ向かって歩き出した。
図書館の横に、小さなカフェテラスがある。
白いテーブルとパラソル。外用の安っぽいスツール。
それでも、朝の光が差すと妙に雰囲気がよく見えるのが、この町の不思議なところだ。
歩きながら、指定された席を探す。
ほどなくして、ひとりの女子高生が目に入った。やはり、この子だ。
皺のないブレザー、整った形に結ばれたリボン。背筋を伸ばして座っている。
テーブルの上には整然と並んだ文庫、細いペン、そして湯気の立つカップ。
誰が見ても「模範的な生徒」だと思うだろう。
「あの……矢田部美嘉さん?」
声をかけると、彼女はすっと立ち上がり、深くお辞儀をした。
「はい。矢田部美嘉です。記録係の千家彩音さんですよね。わざわざお越しいただいて、ありがとうございます」
まるで社会人のような言葉遣いだ。親がよほど厳しいのだろうか。
私は慌てて頭を下げる。
「こちらこそ、時間取ってもらってすみません。社員寮から車ですぐでした」
「車でいらしたんですね」
「あっはい、金栗宗久さん、分かりますよね、神社の。あの人が、貸してくれたので」
「金栗さんですか……」
茹で卵に線を引いたような美嘉の顔に少し、影が落ちる。
「ええ、金栗さん。あの人、親切ですよね」
「はい……親切ですね」
美嘉は微笑んだ。
しかし、やはりどこか影がある。笑顔は張り付けられたようで、おそらく、内心はちっとも笑っていないのではないかと思う。
「私も、お世話になってきました」
口調だけは柔らかいままだ。
私が「経費で落ちるので、なんでも頼んでください」とメニューを開いて見せると、美嘉は迷うことなくアイスティーを指さした。一番安いメニュー。こんなところまで、大人に型に嵌められた優等生、という感じで、少しだけ、気味が悪い。
「矢田部さん、大人の人みたいですね。さっき、金栗さんにお世話になったって言ってましたけど、むしろ矢田部さんがお世話してた側なんじゃないですか?」
「はい……?」
「ほら、金栗さんって、剽軽っていうか、ああいう感じじゃないですか。悪い人じゃないけど、ルーズ? 少なくとも、しっかりした大人とは言い難いというか」
「……そう、なんですね?」
相槌が妙に軽くて、しかも皮肉っぽい。
気のせいかもしれないけど、少し私を試してるみたいな喋り方だ。
「あの人、急に社員寮にアイス持ってきたことあるんですよ。『今日はアイスの日だから~』って。一キロも! 誰がこんなに食べるんだよって笑っちゃって。結局、溶けちゃったし。えっ、想像つきません?」
「……どうでしょう。人には色々な一面がありますから」
少し癪に障る返答だ。
別に否定されたわけではないのに、「違いますけど?」という空気が漂っている。
それでも、私は大人だ。笑顔を作って、アイスコーヒーとアイスティーを頼む。
「あ、そういえば、金栗さんから聞きましたが、たまに中学校で道徳を教えてた、とか。矢田部さんも、教わったことありますよね」
「ええ、まあ」
「面白い先生でした?」
注文した飲み物はすぐに届いた。
美嘉はグラスにストローを挿してから、ほんの少し唇を持ち上げた。
だけどそれは楽しそうでも、懐かしそうでもない。
「……面白い、と言えるのかどうか。それは、人によると思います」
穏やかな声、柔らかい微笑み。しかし、言葉の棘は隠せていない。
頬がひくついてしまう。
こちらは、別に金栗宗久が授業をしていようと、どのような態度で生徒に接していようと、どうでもいい。興味がない。彼女との共通の知り合いが現状金栗しかおらず、アイスブレイクとして話を振っているだけだ。
目の前の、地味で大人しい高校生に苛立ってしまう。
記者時代のことを思い出す。
嫌な仕事が多かった。
興味のあることは取材させてもらえず、書きたいことも書けなかった。
上司に言われた通りの仕事を、言われた通りにこなしても、文句を言われる。時には、モラルのないことも求められた。
取材対象も、決して好人物ばかりではなかった。
若い女だと舐めてかかる男たち、要点に辿り着くまで永遠とも呼べるくらい長い時間回り道を強いて来る老人、そもそも話を聞ける精神状態にない人間もいた。
頭の奥がむず痒くなる。
そんな人たちを沢山相手にしてきたのに——遥かにマトモであるはずなのに、さつき町の人間たちには、言いようのない不快感を覚える。
苛立ちとも、少しだけ違う。理屈の通じない不気味さ。
頭痛までしてくる。視界の端が、ふっと白く滲む。
『でもさ』
声が聞こえる。
『でもさ、思ったことあるでしょ? 自分が』
レコーダーが点滅する。
『自分が』
子供。綺麗な顔をした子供。私は苛立った。
どうにかこの、こまっしゃくれた顔を、歪ませられないかと。動揺させられないかと。自分はただの子供で、大人に向かって偉そうに口を利ける立場にはないと分からせられないものかと。
子供の目にわずかに宿った熱。それを見て私は面白いと——
「千家さん……?」
ハッと顔を上げる。美嘉が少しだけ身を乗り出して、私の方を見ている。
「千家さん、大丈夫ですか?」
「あ、はい……ごめんなさい、外が眩しかった。少しだけ、目がチカチカして」
誤魔化すように笑う。
声が霧散する。
考えたくないから、意識が勝手に忘れる方向へ押し込む。
「えっと……じゃ、始めちゃっていいですか?」
「はい。構いません」
美嘉は姿勢を正し、視線をまっすぐ私に向ける。
やはり、高校生なのに、同世代の人間と対峙しているような気分になる。
今回は、事前情報がない。ただ、話を聞くだけ。
レコーダーの赤いランプが灯る。
「それでは、矢田部さんについて、教えて下さい」
美嘉は静かに息を吸い、そしてゆっくりと口を開いた。
「私は、良い子でした」