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 車が通り過ぎる音がした。普通の音。普通の生活。普通の夜。

 自分の身体だけが、何度も駅にいて、何度も戻されて、その回数ぶんだけ確かに摩耗している。

 時計を見る。針は動いている。

 普通だ。

 普通に見える。

 普通に見えるだけだ。

 ベッドから立ち上がる。

 もう一回——とは思わなかった。

 その代わり、喉の奥で、言い訳が勝手に準備を始める。

 疲れている。

 寝れば直る。

 明日になれば、電車は来る。

 今日は、変な日だっただけ。

 吐く息が白い。息に色は無い。床が沈む。部屋の床は、硬い。沈むはずがない。

 カーテンを閉めた。ほとんど同時にスマホが鳴る。

 画面に表示された名前を見て、喉がひりつく。

 滝川。本社・人事部長。

 こんな時間にかかってくるはずがない。だが、今は「はず」なんて意味を持たない。

 通話ボタンを押す。

「はい、千家です」

 受話口の向こうで、整った声がした。

「千家さん。遅い時間に申し訳ない」

 低く、よく通る声。私の「異動したくない」という言葉をすげなく拒否した、あの声。

「現地でのヒアリングは順調ですか。報告書はきちんと作れていますか」

 事務的な確認。それだけで、涙が出るほど安堵する。

「はい、あの……一通り、話は聞き終わりました。ただ、少し体調が」

「そうですか。終わったんですね。体調は心配ですね。無理はせず、ゆっくり休んでください」

「あっ、ありがとうございます。それで」

「帰任の件ですが」

 滝川の声が、わずかに硬くなる。

「そろそろ帰りたいんじゃないですか」

「はい……正直に言えば、帰ろうとしたんですけど……ちょっと、おかしなことがあって。駅に行っても、戻ってしまうというか……」

 苦笑を混ぜる。冗談めかす。まともな話ができるのだから、まともなふうに話したい。

 滝川は、少し間を置いた。

「そうでしょうね」

 声音が、微妙に変わる。

「そうでしょうね、って。どういう」

「千家さん」

 名を呼ぶ調子が、穏やかすぎる。

「君はもう、帰任できない」

 指先が冷える。

 は、と聞き返す声が、すかすかとした空気になって喉から通り過ぎる。

「配置転換は不可逆だ。これは、制度上の話です」

 制度。普通の言葉だ。頭のおかしい神だのなんだのの話ではない。けれど、どうしてこんなに、不穏に聞こえるのか。

「現地配属された時点で、君はあちら側の人間ですから」

「あちら側って、何の話ですか」

「組織というのはね、観測と記録で成り立つんです。君は観測した。記録した。そうですよね」

 声は落ち着いている。

「観測した対象は、観測者を含む。これは基本です」

 どこかで聞いたような理屈。整然と聞こえる。

「君はあの町を観測した。同時に、あの町も君を観測した」

 背筋に、じわりと汗が滲む。

「観測は対等だ。片側だけが見ることはできない」

「何を言ってるんです」

「帰任というのは、観測からの離脱だ。だが、君は既に系の一部だ」

 系。いつから物理学の話になった?

「君はもう、見られている。聞かれている。そこに戻った時点で、君は閉じた」

 机を掴む。

「い、意味が分からないっ。分からないです。意味不明です。滝川さん、ちゃんと説明してください、人間の言葉で」

 受話口の向こうで、微かな笑いが混じる。

「説明は済んでいます」

 声が、少しだけ遠くなる。「じゃあこう言えば分かりますかね」と優しく滝川は言う。

「上は下だ。下は上だ。外は内だ。内は外だ」

 事務的な語調。「分かりますか?」と聞いてくる。分からない。

「異動は昇進だ。昇進は隔離だ。隔離は保護だ。保護は監視だ」

 言葉が、積み上がる。

「君は守られている。だから、出られない」

 嫌悪感が、喉にこみ上げる。

「守るって……誰から……」

「君自身からです」

 滝川は即答する。呆れたように。

「君は自分の罪を定義しようとしている。しかし、定義は許可制なんですよ」

 意味が、掴めない。「掴めないことはないでしょう」と滝川が言葉を被せる。

「罪は上が決める。赦しも上が決める。君は決められない」

「私、そんな……」

「決められないから、ここにいる」

 呼吸が浅くなる。

「帰れない、というのは、制度上の帰結だ」

 制度。一体なんの制度だ。会社の話? それとも——

「制度は反転する。外は内になる。昼は夜になる。帰任は在任になる」

 滝川が笑い声を漏らす。慈悲深いような、優しい音が、ひずむ。

「もう戻れない、うもないれども」

 逆さ言葉。

 こんなのおかしい。

「何を」

「るすみおかけと、てっしるこばかると」

 音が反転し、砕ける。

「目を閉じたって君を見てる」

 滝川の声ではない。

 男でも女でもない。

 低くも高くもない。

「やめてください」

 おかしい。ありえない。だってあれは、作ったもの。創作。売れない小説家が苦し紛れに作っただけ。その罪は裁かれた。罰は下った。それで終わったはず。こんなところで聴くものではない。

「さかさ言葉は面白い。意味が反転するのは、面白い」

 面白くない。

「こちらはあちら。あちらはこちら。帰れない、いなれかえ」

 部屋の空気が冷える。冷えているから息が白い。

「帰任は帰らない。任帰は帰ら任」

「滝……が、わ……」

「いなれらで、うもきみは」

 通話が切れた。

 耳にスマホを当てたまま動けない。

 切れてよかった、という安堵がない。なぜこんな状態で、放りだされたのか。

 なんで、どうして、なんで、どうして、なんで。疑問ばかり浮かぶ。答えが返って来ない。

 かけなおす。コール音のあと、無機質なアナウンス。

「おかけになった番号は、現在使われておりません」

 さっきまで、話していたはずなのに。

 部屋は静かだ。

 制度上の帰結。

 観測の閉鎖。

 帰任は在任。

 帰れない。

 私は——まず会社の代表番号にかけた。

 さっきまで滝川と話していた番号と同じ並びを、正確に辿る。

「おかけになった番号は、現在使われておりません」

 機械的な女声。無機質で、抑揚がない。

 代表番号が、使われていない?

 次に、両親にかける。

 呼び出し音は鳴る。だが、誰も出ない。留守番電話にもならない。ただ、呼び出し音が永遠に続く。切る。もう一度かける。今度は、一回も鳴らずに、すぐに切れる。

 LINEを開く。

 家族のグループは残っている。最後のやり取りは、三日前。

「体調気をつけてね」

 母のメッセージ。既読がついている。

「今ちょっと変なことが起きてて」

 送信する。数秒後、メッセージ自体が消える。

 手あたり次第、同じことをする。

 大学時代の友人。元同僚。どこで知り合ったのかも覚えていない人たちにまで。

 通じない。通知音だけ。メッセージが送れても、既読にならない。

 そんなことを繰り返す。

 大学のサークルのグループにだけ、何人かの「既読」がつく。

 指が温かくなる。でも、それは一瞬だけ。

 ——2023年あけましておめでとう!

 門松のスタンプ。西暦も季節も何もかも間違っている。

 メールボックスを確認する。

 ダイレクトメールはいくつも届いている。

 通販サイトからの広告。クレジットカード会社からの明細。

 日付が狂っている。

 去年の支払い履歴。まだ発売されていないはずの新刊の宣伝。

 ポップアップ広告を押して、ニュースアプリを開く。

 トップに出てくるのは、三年前の台風情報。

 スクロールで並ぶ、明日の株価予測と五十年後の人口推移。

 時系列が、直線にならない。過去と未来が、同じ位置に並んでいる。

 スマートフォンを机に置いた。

 壊れているのかもしれない。電波が悪いのかもしれない。私が変なところをタップして、変なサイトにアクセスしているのかもしれない。変なウイルスに感染したのかもしれない。乗っ取られたのかもしれない。

 コンビニまで歩く。ネットではない、生の情報がほしい。

 レジ横の雑誌を横目で確認すると、日付は合っている。

 カフェオレと、カスタードパイをかごに入れる。

 店員は普通に応対する。

「袋いりますか?」

「いりません」

 今は何年何月何時何分か、は聞かなかった。それは、私の、唯一残った生活を、破壊するような気がするからだ。

 生活はできる。何の問題もなく。

 やり取りは成立する。

 町で生活することは、できる。

 でも、人との関係を継続すること——それが、できない。

 顔見知りになりそうな瞬間がある。挨拶を交わす。天気の話をする。この町の雰囲気や、行ったお店、芸能人の話、そんなものをする。

 でも、連続性がない。話したはずの人が翌日初対面のように接してきたり、あるいは話したことのない人が親の職業を知っていたりする。話している最中、相手の目を見ることもある。でも、どこか遠くを見ている。

 壁に向かって話しているようだ、と思うこともある。でも、きっとそれより残酷だ。返答がないわけではないのだ。

 私は笑う。

 頑張って、面白いと思う話をする。記者時代に集めた不思議な風習の話や、ちょっと黒い噂話。とにかく、知っていることを、全部話す。

 盛り上がることもある。「彩音ちゃん」と呼ばれたりする。でも、それは、その場だけ。

 友人にも、知人にすらならない。

 毎日職場にメールを送る。みつば文具お問い合わせフォームにも送る。送信はできる。

 自動応答だけが返ってくる。

 折り返しご連絡いたします。

 折り返しなんか、来ないくせに。

 日々を繰り返す。

 朝起きて、顔を洗い、町を歩く。

 記録ノートを持ち歩く。

 誰も頼んでいないのに、話を聞く。

 書き留める。

 読む。

 閉じる。

 泣かない。

 叫ばない。

 ただ、考える。

 なんで?

 どうして?

 何が条件だった?

 観測?

 記録?

 滝川の声が、時々よみがえる。

 いなれかえ。

「いなれかえ」

 声に出しても意味は、ない。

 

(つづく)