それは、放課後のことでした。
学校から帰る道の途中に、神社があります。金栗さんの神社。
子どものころから何度も前を通っていました。でも、私は自分の意志でお参りしたことはありません。
特別な場所だと思ったこともないし、誰かから立ち入りを禁止されていたわけでもありません。実際、私の同級生たち——この町の人はみんな、この神社で遊んだ記憶があるんじゃないかな。
ただ、あの神社、私には……いえ、関係のない話です。すみません。
その日は、ふと門の前で足が止まりました。
本当になんとなく、神社に行ってみよう、と思ったんです。
参道に足を踏み入れた瞬間、空気が変わりました。
人のいない場所特有の静けさ……ではなく、聞こえない音で満ちている静けさでした。
空気が震えているのが分かりました。
耳の奥がジンと熱くなるような感覚。
ただただ、静かで。
息を吸うだけで、体の中の悪い空気が出て行くような感覚。
思い切り息を吸い込んで、吐き出す途中に、境内に視線が吸い寄せられました。
直くん。
直くんのことは知っていました。みんな、知っています、この町の人は。でも、もちろん知り合いというわけじゃなくて。
でも、そのときの私は、なんだか、彼のことを、家族みたいに思って。すごく不思議な感覚です。
ずっと前から家にいて一緒に暮らしていたのに、ただ私がようやく気づいた、みたいな。そんなわけ、ないんですけどね。
彼の周りには、木の葉が散らばっていました。
ただ落ちているんじゃありません。
彼の周りに「在る」んです。
ひらひらと、意思を持っているかのように、彼を中心に舞っては、落ちていく。
綺麗だった。
まるで絵画でした。
全てが、あるべきところにあって、あるべき姿をしている。そういう、整った美しさ。
私は、息をするのも忘れて、見つめました。
私は、全く信じていません。この町に伝わる、『声無き神』のこともです。
でも、その、美しい光景を見て、神様っているんだ、と理解してしまったんです。
そして、思いました。直くんは祈っていたんです。
言葉じゃない。
努力や意思表示じゃない。
ただそこに存在するだけで、世界が応える何か、それが祈りです。
私は感動していました。口から粗い呼吸が漏れます。
震えて、胸が熱くなって、涙が出そうになるほど、興奮していました。
直くんが立ち去ったあとも、私はその場を動けませんでした。
散った葉の跡を見つめていました。
私は鞄を漁って、ノートを取り出して、破っていました。無意識でした。
そして、そこに文字を書きます。
『ありがとうございます』
手は震えていたけれど、できるだけ綺麗に書きました。
そしてそのまま、震える手で、結んで、枝に括り付けました。
括り付けてから、この気持ちは、届くべきだ、と考えている自分に気付きました。
生まれて初めて、誰かに、何かに、私の声が届きますようにと考えていました。
私が、何かを差し出せますように。
私が、この世界に触れられますように。
自然と手を合わせていました。目を瞑って、祈りました。
いつまでそうしていたか分かりません。急に、びゅう、と大きな音がして、風が吹きました。
目を開けて、「あっ」と声を上げてしまいました。
だって、さっき結んだはずのノートの切れ端が、少し先の地面に落ちていたんです。
悲しくなりましたが、結び目がゆるかったのかもしれない。そう思って、紙が落ちている場所に足を踏み出しました。
これ、きっと千家さんにも分かると思うんですが、彼が出て来るときは、ぞわりとします。この表現だと、怪談みたいですか? でも、本当のことです。人の気配じゃないんですよ。
それで振り向くと、直くんが立っていました。
彼は本当に特別な目をしています。初めて見たときは、きっと私、なんて綺麗な男の子だろうと思ったんでしょうけど、そんなことではありません。静かで、どこを見ているのか分からない、でも全て見透かすような目。世界中で、あんな目の人は見たことがありません。
その目が、紙切れを見ました。
次の瞬間、踏みました。
ぐしゃ、という音。『ありがとう』という書き文字は土に塗れ、読めなくなりました。
「どう、して……」
絞り出すように声が出ました。
「いらないから」
直くんが言ったのはそれだけでした。
説明はありませんでした。
いらないから。
ただ、事実として。
世界のルールとして。
私という存在に対して、初めて下された評価として。
いらない。
その瞬間、私を堰き止めていたものが、決壊しました。
気付いてしまいました。
いえ——知っていたけど、見ないようにしていたことです。
私は端役じゃありません。
ああ、そうか。
私はずっと、いらない人間だったんだって。
家でも、学校でも、社会でも。
誰かの代わりに機能はするけれど、私じゃなきゃいけない理由なんて、ひとつもなかった。
私がいるから、誰かが強くダメージを受けることはないけれど、それは私がいなくても、どうにかなるもの。
私がいなくても、誰かの人生の物語は、ちゃんと進行していく。
端役なんかじゃなくて、いてもいなくても脚本には影響を与えない存在。
それに気付いたところで、世界という舞台に立つことはできない。一生。
そして、私は確信しました。
私が世界に触れることなんてないんです。
世界も、神も、祈りも、私を必要としていなかったんです。
私に向けられるものは、何もないんです。
泣きませんでした。
暗い気持ちにもなりません。
ただ、強く思いました。
口には出しません。だって、ここの神様は、声が無いんですよ。であれば、私も声を出さないのが礼儀です。
こんな町、終わればいい!
本当に、その時から世界の見え方が少し変わりました。
学校はいつも通りですよ。
先生は出欠を取り、授業をして、小テストを配って。
友達——ではないクラスメイトたちも、必要なときには話しかけてきました。
『プリント回して』とか、『消しゴム貸して』とか。
家に帰れば、兄は相変わらず怒られていて、私は相変わらず「問題のない子」でした。
全部、同じでした。
ただひとつ違ったのは、私だけ、少し離れた場所からそれを見ている感覚になったことです。
教室にいるのに、天井から眺めているような。
家の食卓に座っているのに、テレビの中の食卓を見ているみたいな。
自分の声が、自分のものじゃないみたいに響くこともありました。
不思議だな、と思いました。
でも、怖くはありませんでした。
だって、元々私はいてもいなくても変わらないので。みんなの立つ舞台の中にいなかったから。
本当に離れただけだ、と考えれば、そんなにおかしな話でもありません。
それよりも、ずっと怖いものがあるでしょう。
直くんです。
そして、直くんの向こう側にいる何かです。
私は怯えていました。
あんな綺麗な光景見なければよかったわ。だって、「神様はいてる」って分かってしまってんもん。分かってしまったから、もうそれは、恐ろしいだけやわ。
あんなこと、思わなければよかったんかなあ、ゆう気持ちと、でも、思ってしまっただけやしなあとゆう気持ちと……半々くらい。お風呂に入るとき、トイレにいるとき、夜眠る寸前なんかにも、思い出したわ。神様はいてるって。
はあ……すみません。ある日、本屋に寄りました。
舞台から外されてしまっても、やっぱり勉強はあるので。数学の問題集の新しい版が出ているか見たくて。
参考書の棚の前でページをめくっていると、視界の端が急に暗くなった気がしました。
だから、避けようがなかった。
顔を上げると、直くんがおった。
普通の子どもの姿をしています。
でも、普通やないんです。
「この町が終わってほしいと願った?」
挨拶もなく、名前も呼ばず、いきなり言いました。
声は小さくて、淡々としていて。責められているようには聞こえませんでした。でも、足元から、ぞわぞわしたものが這いあがってくるようで、呼吸がうまくできなかった。
いつもやっているように、微笑もうとしました。誰からも嫌われない、気にもされない笑顔。いつもみたいに、形だけでも落ち着いたふりをして話そうと思いました。
でも、口から出たのは違う言葉でした。
「私が願ったからって、何も変わらないでしょう」
自分でも驚くくらい、刺々しい声。
直くんは、瞬きひとつせずに続けました。
「上は知っている。あなたの願いを聞いている。それから、忘れない」
上ですよ。直くんが上というのは、それは神様のことです。神様が聞いていたということです。私の祈りは届いたということです。
ああ、どうなってしまうんだろうと思いました。
でも、でも、でも、私おかしいんやと思います。
黙っていると、胸の奥から別の感情が湧き上がってきました。
怖くなかった。ただただ。
ムカついた。
気づいたら、口が勝手に動いていました。
「そもそも、あんたがいけないんよ」
自分でも、こんな言い方をするとは思っていませんでした。
丁寧語も何もない。ずっと我慢していた言葉がせり上がってきた感覚です。
止まらなくなって、そのまま続けました。
「私、『ありがとうございます』って書いたやないの。きちんと結んで、ここにいてくれてありがとうって。それなのに、あんたが踏んだ。ぐちゃぐちゃにして、『いらない』って言うた。せやから、私やっていらんわって思ったの。こんな町いらんわ」
声が大きくなっていたと思います。
本屋の奥で、誰かがこちらを一瞬だけ見ましたが、すぐに視線を逸らしました。
世界と私の間には、やっぱり膜が一枚あるようで、誰も本気でこちらを見てはきません。
直くんだけが、まっすぐに見ていました。
彼は、すぐに否定しませんでした。
少しだけ間を置いてから、静かに言いました。
「いらないと言ったわけじゃない。踏みつけたわけでもない。投げ出されていたものの上を、通っただけ」
血管が切れそうでした。
その言い回しが、腹の底から許せませんでした。
「そんなん、言い方の問題やないの」
醜い声。私の本当の声。
「どっちだって同じやん。結果は同じ。私の気持ちは、あんたにとってそこいらに落ちてるゴミやったってことでしょ」
直くんは肯定もしないし、否定もしませんでした。
じっと見るんです。じいっと。あの目で。
ああ、本当にそのときは、何もない目でした。
上が聞いたということはそういうことなんでしょう。
評価の対象にもなっていないものを見る目でした。
やがて、彼は少しだけ目を伏せてから、こう言いました。
「あなたの願いで、変わったこともある」
「何よ」
そんなこと、聞きたくないのに、聞いてしまいました。
直くんは答えました。
「あなたの周りに、鳥は来ない。これからも」