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さつき町のみなさんへ

お元気ですか。私は元気です。

いろいろな人にお世話になっています。

今から、みなさんにお願いがあります。

毎日、ちゃんといっしょにいる人の手を握ってあげてください。

なにか心配なことがあったら、ちゃんと声に出して話してください。

家の中に時計は置かないほうがいいと思います。

テレビに出てくる時計だけで充分です。

小さな違和感を見逃さないでください。

眠ったときと起きたときで、なにかが少しだけ違っていたりしませんか。

もし、そういうことがあれば、その場にいる人の肩をそっと叩いて、名前を呼んであげてください。

意味がわからないことばかり言ってしまってごめんなさい。

私はもう、なにもできないけれど、みなさんが無事でありますように、毎日祈っています。

ありがとうございました。

天木裕理

 

 恨み言ひとつ、書いてなかった。ただただ、人を気遣う言葉だけ。意味の分からんところもあったけれど、優しい言葉ばっかり……意味の分からん言葉やって、私らのためのもんでしょう。申し訳なかった。

 顔を上げると、直くんはまだ怒っていました。

「彼女は、何も望んでいない」

 目を血走らせて言うんです。

「裕理は、あなたたちを責めていない」

 そこで少しだけ、言葉を切って。そして、はっきりと言いました。

「僕は、不義理は、忘れない」

 心臓を握られたみたいでした。

「彼女は、あなたたちを守っていた。そのことを、知らなくていいとは、僕は思わない」

 恥ずかしくて、恥ずかしくて。意味は分からなくても、本当に恥ずかしくて。何もできなかったのではなく、しなかった。何も言えなかったのではなく、言わなかった。だから、ただいつもどおり——うつむくしかありませんでした。

「上は、何も言っていない」

 店の扉が開き、カラン、と鈴が鳴る。

 足音は遠ざかり、夜の音に溶けました。

 

 

 おかみさんの語りが終わると、店の中に静寂が落ちた。

 私は一度、深く息を吸ってから口を開く。

「それで……直くんが来て、手紙を渡していった。その後は、どうなったんですか」

 おかみさんは、柔らかく微笑んだ。

「どうなったと思います?」

 どこまでも静かな声。私は一瞬、言葉を失う。こういう反応は、あの忌々しい女子高生にもされた。でも、違う。彼女は、どこまでも穏やかな顔をしている。

「いえ……だから、それを聞いてるんですが」

「時間、ありますやろ」

 唐突に、おとうさんが声を出した。

「え?」

「時計見たら、今が分かる。せやけど最近はな、あんまり分からんのですわ」

 彼は、壁の時計を見上げる。

「一分が五分になったり、昨日が明日になったり。でも、不便はありません。要るんは、『今がここや』いう気持ちだけで」

「あの……」

「私はね」

 おかみさんが言う。

「毎日ようけお客さんと会うんです。何年も、何十年もね」

 話についていけない、と感じる。しかし、口を挟む間がない。

「ここ、よう流行ってますさかい。知らん顔ばっかり並びはる」

 穏やかな笑顔のまま。

「でもね。私の知ってる顔は、一人も来はりませんのや」

 ぞくり、と背中を冷たいものが撫でた。

 旦那さんはまだ時計の話をしている。

「そのうち、昨日と今日が同じ場所に座るようになりましてな。ずっとここにおる気ぃするんですわ。ええことです」

 おかみさんは、お客の話をしている。

「みなさん楽しそうに食べてはるけど、どこから来はったんやろうって。聞いても、うまく思い出せはらへん。でも、ええんですよ。ここは賑やかで」

 決して交わらなかった。

 私は、喉がひどく渇いていることに気づく。テーブルの湯呑みに目を落とす。

「あっ」

 詰まったような悲鳴が漏れ出た。気付いてしまったのだ。

 三口は飲んだはずなのに表面は最初と同じ高さのままだ。

 氷も減っていない。

 顔を上げる。

 壁に並ぶ四つの時計は、それぞれ違う時刻を指していた。

 私は立ち上がった。

 足元がふらつく。

「と、時計、が……」

 おとうさんが笑う。

「今、ですわ」

 おかみさんも笑う。

「今だけが、ちゃんとしてますの」

 唐突に、全てのことがしっくりくる。理解する。

 この夫婦は、同じ場所で話しているのに、同じ世界にいない。

 互いを見ていない。

 互いに触れていない。

 夫婦だから、分かり合っているのとは違う。

 断絶されている。誰よりも近くにいるのに、何も見えていない。

「私、もう、帰……」

 夫婦の輪郭が、ゆらり、と揺れた。

 空気の層が剥がれた、と思った。空気に、人間の形のシールが貼りつけてあって、それが、剥がれている。

 おかみさんの声が聞こえる。

「怖がらんでくださいね」

 おとうさんが笑っている。

「これは、不老不死ちゃうかと、前向きに考えて」

 声は重ならない。

 床が波打っているように見える。

 夫婦の身体は、椅子と同じ色に溶け始めていた。

 境界が消える。

 顔も、手も足も、にゅるにゅると混ざり合って。

 いなくなった。溶けた。消えた。

 湯呑みだけが残されている。

 私は喉の奥で悲鳴を飲み込む。

 こぼしてもまた、水の表面が、元の高さに戻っている。

 足が勝手に動いた。全身が震え、視界がにじむ。扉に指が触れる。思い切り押す。私は店から転がり出るようにして外に出た。

 足が震えて、うまく地面を掴めていない。

 呼吸がうまくできない。肺の奥で薄い紙が折り曲がるみたいに、空気が引っかかる。

 それでも駐車場に向かわなきゃ、と思った。

 夜風が吹いていた。

 ついさっきまで昼だったはずだ。

 影が濃くて、街灯の光が頼りない。

 車のドアノブに手を伸ばそうとして、指先が滑る。バッグの中を探るが、キーが見つからない。

「なんで……」

 情けない声が勝手に漏れる。

 やっと硬いものに指が触れた。掴んで引き抜く。キーだった。

 安心した瞬間、膝が抜けるような感覚があった。

 私はそのままシートに滑り込み、強張った手つきでエンジンをかける。

 ライトが暗い道路を切り裂いた。

 ふと、時計を見る。深夜一時四十二分。

「いやいやいやいや」

 私は笑った。そうでもしないと、耐えられなかった。

 だって、ここに来たのは昼間だった。ランチ終わりの静かな時間帯。

「歌う、歌う、歌います」

 誰に言うでもなく呟いて、スマホから流行歌を選び、思い切り声を張り上げる。

「世界がー終わるうーならばああああ」

 歌えば怖くない。

「このまんまあでええええええええいいよねええええええええええええええええ」

 馬鹿みたいに大きな声で歌えば、何もかも、掻き消せる。

 アクセルを踏み込み、夜道を突き進む。

「何もおおおお何も見ないでええええええええ」

 歌う。

「笑っていよおおおお何も見ないでええええええええ」

 喉が痛い。

 でも止めたら終わりな気がした。

「笑ってえええええええええあっ」

 急ブレーキ。タイヤが悲鳴を上げる。

 全身が粟立つという感覚が分かる。すぐに分かる。何がいるか。

 視界の真ん中。

 直くんが立っていた。

 白いシャツが、ヘッドライトを受けて目に眩しい。

 ぞわっとするんですよ。その通りだ。彼がいると、おかしな気分になる。おかしくなりそうだ。

 空洞みたいな、眼。

「な、何やってんの! はあ!? バカじゃないの!」

 怒鳴り散らす声が出た。

 怖いからだった。

 怖すぎて、怒鳴るしかなかった。

「危ないでしょ! 車道の真ん中に立つなよ! 死ぬよ!? ていうか私が死ぬでしょ!? なんなのこの町! 何なのあんた‼」

 自分で言っていて意味が分からない。

 涙が勝手に滲む。息が荒い。

 ぞわっとするんですよ。ぞわっとするんですよ。ぞわっとするんですよ。体の震えが止まらない。車から降りる。

 直くんは静かな声で言う。

「あなたは、話を聞いている」

 夜風が流れる。

「はあ? なに? なんだって!?」

 私は叫ぶ。

「話なんか聞いてない!」

 直くんは、少しだけ首を傾げた。

「町の人の話を、聞いてるんでしょう」

「いや、私、私は記録係。だから、記録して」

「僕だ」

 胸元で、紙が擦れる音がした。

 震える指で拾い上げる。

 リスト。金栗の綺麗な字で書いてある。話を聞く町民のリスト。

 最後の行。

 佐伯直。

「僕だ」

 私は息を呑んだ。

 歌も、世界も、全部どこかへ消えた。

「あなたは、話を聞く。最後は、僕の番だ」

 次に何が始まるのか、考える余裕はなかった。彼がどう動くのか。それは、考える必要がない。全ては決まっている。

 彼は自分の話をする。

 そして、逃げ場はどこにもない。

 

(つづく)