ユリが神社を訪ねてきたのは、夕暮れの湿気がまだ残るころだった。
鳥居の向こう、細い参道に影がひとつ立っている。制服の襟が風に揺れ、髪が湿った光を帯びていた。
金栗は既に、ユリが訪ねて来るのは分かっていた。
彼女がここへ来る理由は、ひとつしかないと分かっていた。
沈黙の神の声を聞く者は三人。
直、ユリ、そして金栗。
彼はその序列を理解していた。
直は器、神の沈黙をそのまま体に通す者。
ユリは理解者であり、神の意志を人の言葉に置き換えられる者。
そして自分は、神の僕である。
「金栗さん」
見知った彼女の声よりずっと低かった。彼女は今や金栗の「同志」とも言える存在だが、彼の中では、近所の子供たちの一人だった。まだ言葉も満足に話せないうちから、境内で遊んでいた、無邪気な子供たちのうちの一人だ。
「少しだけ、お時間戴けますか」
金栗はかつてのように彼女を招き入れ、お茶を出した。お茶を淹れている間も、彼女は何かを決意したように、膝の上で手を組んでいた。
「どうぞ」
そう言っても、ユリは湯呑みに手を伸ばさず、真っ直ぐに金栗を見ていた。
「何か、困りごとですか」
金栗がそう言うと、ユリは一瞬、泣きそうな顔をした。
「困っているのは私じゃないです……」
そして、困っているのは、町そのものだ、と言った。
「町そのものが困っているって、どういうことかな」
「いま、金栗さんがやっていること。あれは全部、やめたほうがいいです」
「え? どれのことかな。僕は」
ユリは言い訳を許さなかった。
「分かっています。全部分かっています。でも、続けたら、戻れなくなってしまう。決定的に、変わってしまう」
説教でも脅しでもなかった。それは、切実な願いだった。
だから、金栗は笑った。彼女の言うことは全く正しかったが、彼はその正しい言葉を受け入れるつもりがなかった。しばらく、沈黙があった。
「止めるつもり、ないんですね」
先に口を開いたのはユリだった。
「止める理由がない。分かるでしょう。町は回復している。皆、幸せそうだ」
「幸せそうに見えるだけです」
「本当に幸せなのと、幸せそうに見えるのの違い、君がどうやって判断するの?」
ユリは小さく首を振った。
「話を逸らさないで下さい。分かっていると思います」
金栗は何も言い返さなかった。
「金栗さん」
ユリは慎重に言葉を選んだ。
「この町は、もう少しで、人間が住む場所、という形を保てなくなります。生きている人と、死んだ人のあいだの境が薄くなっている。今と昔、時間の流れも、曖昧になりつつあります」
「曖昧……」
「はい。たとえば、商店街。あそこで金栗さんが歩くたびに、人が増える。店の売上も上がる。でも、その人たちがどこから来て、どこへ帰っているのか、誰も知らないんです」
「そんなの、きちんと調べていないだけじゃないか」
「先週死んだはずの人が歩いていますよ。それも、調べたら本当は生きているっていうことが、ありえますか」
胸の奥に、井戸の水面が波打つような感覚が走る。
ユリは続けた。
「直くんだって、分かっていますよ。でも、直くんは、何も言いません。だって、彼は判断しないから。私しか、言えないんです、こんなことは」
「僕は、神の言った通りのことを、言ったように行っているだけだよ」
どうしても、刺々しい口調になる。
「君はそれを、悪いことだと判断するの?」
「思います」
ユリは即答した。
「悪いことだと思います。だって、奥さんはもう、いないじゃないですか」
ユリの声が震えていた。目は、可哀想なくらい潤んでいた。町の人々が彼に向けたような哀れみではなく、深い悲しみがあった。
「きっと……きっと、いつか、奥さんに、会えるのかもしれません。形になって、現れるのかも。でもそれは、形だけです。心は戻りません。神様が宗久さんのために置いてくれた人形みたいなものです」
それって、生き返ったことになりますか、と、どこまでも純粋な声で彼女は言う。
金栗は微笑もうとしたが、唇が動かなかった。
それでも、いいじゃないか。
そう言いかけた言葉は、声にならなかった。
ユリは立ち上がった。一歩近寄ってきて、膝をついて、両手を床につける。
「お願いです。やめてください。これは私の、天木裕理のお願いです。神様の意志に沿った行動をしている人にこんなお願いができるのは、何も知らない、人間の私だけ。大丈夫です。自分で考えて、自分でやめると決めたことなら、神様は怒りません。今までも、そうでした。間違っていても、赦してくださる。お願い。人間の金栗宗久さん。よく考えて。このまま続けたら……この町の誰も、生きているのか死んでいるのか分からなくなっちゃうよ」
手が震えた。それは、彼女の言葉に感動したからではなかった。逆に——ほんのちょっとも、彼女の言葉に共感できなかった。そのことが、少しショックだった。
ユリは金栗の手を見つめた。
「金栗さん、あなたの手は、もう向こう側にあるんですね」
泣きそうな顔の彼女に対しても、なぜ泣きそうなのか、理解はできても共感ができない。
金栗は笑おうとした。
「ただ妻に会いたいだけなんだよ」
「それは、会うとは言いません。繋ぎ止めているだけです」
井戸の水面の震えを思い出す。そんなわけはないと思った。彼女は、確かにいる。
「この町は、もう音を失いかけています」
ユリの声は静かだった。
「当たり前の音がないんです。全部不自然に、作られたみたいで。神様にとっては、いいことかもしれないけど、私は……」
「ありがとう。心配してくれて」
宗久はやっとそれだけを言った。
ユリの瞳が、大きく揺れた。
「大丈夫だよ、だって、僕も君と同じように、神の沈黙を理解しているからね」
ユリは絶望的な顔をして、ぽつりと「駄目なんだ」と漏らした。
金栗はやはり、微笑むことしかできなかった。
「僕はね、君の言う『形だけ』が、今は必要なんだ。そしてそれは、神の意志にも沿っている。それだけのことなんだ」
ユリは目を伏せ、唇を噛んだ。
そして、小さな声で言った。
「……私、紀佳さん、好きだったなあ。優しくて、可愛くて。昔、髪の毛編んでもらったんです。忘れない……」
金栗紀佳。妻の名前だった。しかし、ユリの口から聞こえるそれは、どこか別人のようで、やはり何も響かなかった。
頭を下げて去るユリの背を、宗久はただ見送った。
境内の空気が、より澄んだような気がした。
最初の異変は、社務所の時計だった。
夜明け前の祈りを終えてふと見ると、短針と長針が同じ位置に重なっていた。
秒針は動かず、ガラスの奥で黒い影のようなものが蠢いている。
おかしいな、とは思ったが、それ以上考えることもなかった。
そしてその日の昼、再び見たとき、針は後ろ向きに動いていた。
カチ、カチ、と一秒ごとに昨日へ戻っていくような音。感覚で分かった。何かが、始まったということが。
町の人々の口からも、奇妙なことが語られ始めた。
夜中に鳩時計が昼を告げる。
火葬場の煙がいつまでも空に消えない。
新聞が昨日のまま届く。
誰も、それに不平を言わなかった。それを「神の起こした奇跡」だと捉えた。皆、穏やかに笑っていた。
商店街では、相変わらず歩くたびに人が増えた。
もう誰も気にも留めないくらい増えた、見知らぬ顔。彼らはよく笑い、買い物をし、どこからともなく現れ、消え、また現れる。
鳥が、金栗の周りに、彼を守るように現れた。
境内に降り積もる鳩の羽が、雪のように見えた。天使の御殿だ、と誰かが言う。
人々は喜んでいる。それでいい、と金栗は自分に言い聞かせた。
ある晩、ふと街灯の下で立ち止まった。
道の向こうに、妻が立っていた。
お気に入りの、くすんだピンク色のワンピース。長い髪を後ろで綺麗にまとめている。
「紀佳」
声をかけると妻は笑い、手を振った。
だが、その手が影になっていた。右手の指が奇妙な形に捻じれている。
目を凝らす。
右目が溶けている。口が鼻の位置にある。
それでも、彼女は妻だった。彼には、そうとしか感じられなかった。
「紀佳」
「宗久さん」
背筋に寒気を覚えた。同時に、妻は笑いながら、街並みの中に溶け込んだ。
妻は——紀佳は、金栗のことを「宗くん」と呼ぶ。
何か別の存在が、妻の形を借りて笑っている。
「違う」
その思いを打ち消そうとした。
「神は、完全だ。神の作る形に間違いはない」
葬儀場が閉まる、という旨のチラシが掲示板に貼ってある。
「葬式に本人が参列しよるんですよ」と老女が嬉しそうに言った。
祈りの成果は、町の至るところに現れている。
飲食店では、食材が尽きることがなくなった。
閉店後の厨房で、誰もいないのに包丁の音が響く。
「神の恵みやね」と店主は言った。
葬儀場がなくとも葬式は続いた。
けれど、人口は減らなかった。
死亡届を出しても、市役所の職員が「おかしいですね、生きているようですよ」と首を傾げた。
死者は商店街を歩いていた。人々は「元気そうで何よりだ」と挨拶した。
神の御業だ、と思う。死を超えて人は生きられる。死を克服している。
神は絶対だ、完全だ、神の意志を汲み、神の言う通り動けば、間違いはないのだ。
町の広報誌には、「奇跡の回復」と題された特集が掲載された。
〈さつき町、史上最高の幸福指数〉
〈転入希望者続出〉
〈笑い声の絶えない町へ〉
記事には、金栗の名前も載っていた。
写真の彼は穏やかに笑っていた。
その写真の右側に、靄のようなものが写り込んでいた。
夜、社務所の電話が鳴る。
受話器を取ると、風の音がした。
妻の声に似ていた。
もうすぐですね、と言われた気がした。
だから「もうすぐとは?」と尋ねた。
返事はなかった。
ただ、受話器の向こうで、井戸の水が溢れる音がした。
「悪いことだと思います」
ユリの言葉が、そのとき、唐突に金栗の脳に浮かんだ。
「神は完全だ」
それは肯定の形をした、疑念の言葉だった。
足元で何かが弾けた。
見ると、鳩の死骸が転がっていた。
さっきまで屋根にいたはずの鳥。
その足が、一本欠けていた。
「神は完全だ」
そう唱える。
神は、間違えることがあるのだろうか。
それが、本当の言葉だった。
その問いは声にならなかった。
町は完璧に整っていた。
誰も悲しまない。
誰も老いない。
それが、どうしても、正しいと思えない。
また一羽、鳥が落ちてきた。
それが神からの答えだった。