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第六話 信じるものを裏切ったこと

 

 さつき食堂は、拍子抜けするくらい「ふつう」に見えた。

 白い暖簾とところどころ文字の掠れた木製の看板。古めかしい引き戸。

 店内に客は一人だけ。中年の男性が黙ってカウンターでラーメンをすすっている。インタビューのためにアポを取ったから、これが昼最後の客だろう。

「営業中」の札を見て、心の中でため息をついた。

 嫌な店。この表現がぴったりだと思う。

 汚いわけでも、暗いわけでもない。

 古いけれど床はちゃんと掃いてあるし、テーブルも拭かれているし、壁に貼られたメニューも手書きで、それなりに味がある。

 それでも、なんだか座りの悪い感じがした。

 サイズの合っていないイスに無理やり座らされるような、落ち着かなさ。

「そしたらこれは夜に回しましょう」

 カウンターの中から女の人の声がした。声の方を見る。

 エプロン姿で、年の頃は五十代くらい。いかにも「町の食堂のおかみさん」だ。

「お勘定」

「はい」

 カウンターの男の人が食べ終わり、会計をして出ていく。

 引き戸が閉まって、店内が急に静かになった。

「すみません、お待たせしてしまって」

 彼女が近付いてくる。

 濡れた手をエプロンで拭っている。そんなところも、嫌だな、と思ってしまう。

「あの、席、このままでいいでしょうか……」

 妻のほうだけでなく、夫のほうにも話を聞く。だから、スペースは広い方がいいと思って、少しだけ広い隣のテーブルを指さす。

「はい、どうぞ。お好きなところに」

 おかみさんが笑顔で言う。

 私は軽く会釈して、荷物を持って隣のテーブルに移った。少しでも広い場所で、と思ったのもあるが、何より店の奥まで入りたくなかったからだ。

 イスに腰を下ろした瞬間、背中に変な汗がにじむ。

 空調が効いていないわけではないのに、息苦しい。

 テキトウな理由をつけて帰ろうかとすら思う。そもそも、来なければよかったのかと。

 でも来てしまった以上、仕事はしないといけない。

 私はリュックからノートとボイスレコーダーを取り出し、テーブルの上に並べる。

「千家さん、ですよね」

 声の方を向くと、エプロン姿の男性も出てくる。こちらも五十代くらいで、どこか穏やかな顔つきだ。

「はい。記録係の千家彩音です。あの、さつき町の……記録を取るように言われてまして」

 自分で言いながら、「記録って何の」と心の中で呟いてしまう。

 記録係になってから数人の話を聞いてきたが、分からないことばかりだ。会社から要求されている仕事のはずなのに、私が聞き、文字に起こした内容と、会社の関連性があまりにも薄い。私は一体、ずっと……何の話を聞かされている?

 そういう違和感があっても、辞められない。

 会社から送られてきた辞令にはそう書いてあったのだから仕方ない。

 始めた仕事を、勝手に終わらせることはできない。

 おかみさんが軽く頭を下げる。

「田村と申します。食堂の方を……見てのとおり、まあ、細々とやってまして。こちらが主人です」

「田村です。どうも」

 夫もぺこりと頭を下げる。

 二人合わせて、いかにも「地方の牧歌的な夫婦」という雰囲気だ。地方のグルメロケに出てきそうな感じ。優しくて、温かくて。

 でも——やっぱり、気持ちが悪い。

 私は悟られないように愛想笑いを浮かべた。

「今日は、お時間いただいてすみません。ええと……『ご夫婦の話を聞いてきてください』って感じで、神社の金栗さんからメモを渡されていて。ほんと、ふわふわしていて申し訳ないんですが……」

 田村夫妻は、顔を見合わせるわけでもなく、なんとなく同じようなタイミングで頷いて、「そやねえ」「話ねえ」と呟く。二人の視線が、私の元に辿り着いた。

「この店の、話……」

 おかみさんの方がゆっくりと繰り返す。

 おとうさんも、ほとんど同じタイミングで「どこから話そうかねえ」と呟いた。

 私の手の中で、ボイスレコーダーがじんわりと汗ばんでいく。

 録音ボタンに指を置きながら、心のどこかで「押すな」と言っていた。

 それは——どうしてか、分からない。分からないということは、意味がないということだ。漠然とした不安。

 合わない雰囲気の場所なんて、今までだってあった。椅子の配置とか、独特の臭いとか、天井の高さとか、そういう些細なことが気になって、嫌な気分になる。誰が悪いわけでもない。

 仕事に、個人的な不快感は持ち込まない。できるだけ、なるべく。

 私はカチリとスイッチを入れる。小さな赤いランプが灯る。

「はい、それじゃあ……最初からで大丈夫です。お二人のことを……そのまま話してもらえれば」

 おかみさんが短く息を吸った。

 おとうさんも、同じタイミングで喉を鳴らす。

「……一年前くらいから、でしょうか」

「ここに来た頃から話さないといかんでしょうかねえ」

「あの子の話もせんといかんですかねえ」

 あの子。具体的な名前は出てこないのに、その呼び方だけ、やけに重たく耳に残る。

 子供。畏怖の対象のように扱われている子供。大の大人が、なぜこんな態度を取るのか。そう強く思った。気に入らないと思った。

 神様。私はそう呼んだ。

 ムカつく奴とかいたら——

「……大丈夫ですか?」

 夫妻が、不思議そうに私の顔を覗き込んでくる。

 私は慌てて笑った。

「あ、はい。すみません、ちょっと寝不足で……本当に、ごめんなさい。問題ないので。続けてください」

 夫妻はまた、顔を見合わせることもなく、息の合った調子で頷く。夫婦とは、こういうものなのかもしれない。彼らは視線を私から外さないまま、静かに語り始めた。

「あの」「この辺にね」

 声が重なる。

 そんなことが数回重なって、結局、おかみさんの方が話すことにしたようだ。私もその方がありがたい。掠れた男性の声は、レコーダーが拾わないこともある。

 おかみさんは小さく息を吸ってから、話しだした。

「とってもええ子でした。あの子は」

 

 

 あの子が来たんは、ちょうど一年前ぐらいやったと思います。

 うちは昔から、常連さんばっかりの店でね。

 観光客が来るような場所やないし、商店街の端っこで、毎日同じ顔ぶれにご飯を出してる、そんなお店でした。

 あの頃はね、ちょっと体調悪いことも多うて……せやから、新しくバイトの子を入れよか、いう話になったんです。

 それで来てくれたんが——あの子。

 高校二年生で、まだ幼い顔してはんのに、礼儀正しくて、いつも笑てて。すっごくすっごく、かわええ子でした。アイドルちゃんみたいな感じ。

 最初、履歴書見たときにね、写真の笑顔があんまり綺麗やったから、

「ほんまに、こんな子来るやろか」

 って、主人と二人で言うてたんですよ。

 でも、来ました。

 ほんまに、そのまんまの子でした。

「お世話になります。今日から働かせてもらう天木裕理です」

 って、ぺこっと頭下げて。

 あの子の笑顔は、作りもんやのうて……なんやろ、胸の奥が温うなるような、そんな笑い方でした。

 とにかく、かわええ子。しかも、それに全然甘えてない。仕事もよう覚えるし、要領もええ。あっちゅう間に、「仕事できる子」になりました。

 でもね、ただ仕事できる子、ってだけやないんですわ。

 たとえば、

「これ、ここに置いてもよろしいですか?」

 って、しょうもないとこ、気づいてくれるんです。

 お箸の向きとか、コップの位置とか、けっこう、頻繁に変えましたね。

 あと、とにかくお客さんの表情よう見てはる子でした。

「今日は少し顔色悪そうですね、大丈夫ですか?」

 なんて、さりげなく声をかけたりして。それが押し付けがましくもなく、ただ自然に出てくる、そんな感じで。

 私も若い頃はお客さんの顔ばっかり見てたなあ、って懐かしい気持ちになったりしました。まあ、私はあの子と違て、見てるだけで全然、気遣いとかはできませんでしたね。あの子の年でこれ、大したもんですよ。今でもそう思います。

 ただ、少し、変わったところもある子でね。

 店の前を通る人を、ぼんやり見送ってたかと思えば、急に立ち上がって、すっと裏口から飛び出して行くんです。

 それで、

「危ないですよ、右から車来てます」

 なんて声かけて。

 そしたらほんまに車が曲がってきて、

 その人がびっくりして立ち止まる——細かいところはちと違っても、おんなじようなことが、何度もありました。

 みんな、感謝しますよそりゃ。命の恩人やって。褒めて、お金渡そうとしたりして。あの子は「私なんもしてないですよ」と、いつもの謙虚な調子で笑うてましたけど、私は胸が冷たなりました。

 なんで分かるんやろ。

 そう思いませんか。

 もちろん偶然や言うたらそれまでやけど、続くと、ちょっと背筋がぞわぞわするもんです。

 ほかにもね、閉店間際に来て、やたら大きな声で電話してるお客さんに、

「ここいらは静かですよ。声、抑えはった方がいいと思います」

 って、優しく言うたりね。

 ほんでも、当然、そういうお客さんは大きな声なんかやめないやないですか。でも——不思議と、あの子が声かけたら、電話の声も、周りの空気も、静まるんです。

 なんやろなぁ……あの子の言うことには、よう分からんけど力、みたいなんがあったんですわ。

 でもな、こういう力は、ええことばかりではありませんね。

 

(つづく)