最初から読む

 

 私は、困惑しながら話をまとめた。

 まとめながら、「直くん」のことを考えていた。

 というのも、彼らがまるで神の子のように語る直くんのことを、とてもそんなふうには感じなかったからだ。

 直くんのことは分かる。私はこの町——さつき町についてすぐ、彼らしき人を目撃した。

 そもそも、この町に来たのは、とても不本意な形だった。

 

辞令

 令和二年五月二十二日付をもって、

 千家彩音殿を、さつき町地域振興課・特別記録室担当として異動を命ずる。

 なお、本件は地域交流ならびに記録整理業務の一環としての派遣であり、任期は未定とする。

 

 株式会社みつば文具

        人事部長 滝川裕司(印)

 

 

 こんな時期の異動などありえない。そもそも、心当たりがない。

 急いで人事部長の元へ駆け込んだ。これはいったい、どういうわけなのかと。

 面接のときに一度だけ顔を見たことがある人事部長の滝川は、私の権幕にもまったく動揺することなく、

「いいじゃないですか。千家さん、以前は記者をされていたんですよね」

 確かに私は、記者だった。でも、いわゆる大衆誌の記者で、いつも真偽不明の、社会的意義の薄い、どうでもいい取材ばかりしていた。仕事で手を抜いたことはない。しかし、私に記者としての能力が備わっているかと言えば違うと思う。あまり向いていないと思ったから、みつば文具に営業職として中途採用された。営業は記者よりは向いていると思っている。

「記者と、記録係では違うと思いますし……」

「ははは」

 一笑に付すという言葉がぴったりだった。それでも私は、何度も彼に掛け合った。

 私がここまで難色を示したのは、明らかにこれが左遷であるような気がしたからだ。

 千代田区にある本社の営業職からさつき町という関西の田舎の、業務さえはっきりとしない課。客観的に見ても、追い出し部署のような気がする。

「これ、左遷ですか……左遷ですよね」

 思い切ってそう聞くと、滝川は私の声にかぶせるように「とんでもない」と言った。

「左遷どころか栄転だよ。ふつうは行きたくて行きたくて、それでも行けない場所なんだよ」

「でも、どうして私が……」

「会社の意向だよ」

 滝川との対話はそこで諦めた。同じことが繰り返されるだけだからだ。

「また営業に戻れるから」

 そんな言葉に一縷の望みを託して、私は身も心も引きずるようにしてさつき町へ向かった。

 道中もずっと、どうしてこんなことに、と考えるのをやめられなかった。思い当たることは、ないわけではない。私は、かなりおっちょこちょいなのだ。そのおっちょこちょいを遺憾なく発揮してしまったのは、ひと月ほど前の社長主催のパーティーだった。

 なんでも、孫娘が有名進学校に合格したとかで、かなり盛大だった。私はそこで、飲み物をひっくり返したり、名刺交換を失敗したり、ぼうっとして挨拶を怠ったりなど、散々だった。でも、それだけで? 私のキャラクターは、もはや周知されているはずなのに?

 労基に行くことも考えた。しかし、そんなことをして何になるだろう。当然、会社にはいられなくなる。努力してなんとか採用してもらった会社なのだ。待遇も悪くない。それは、おそらく左遷された先でも同じだ。

「むしろ、暇なのにたくさんお金がもらえるかもって思おう」

 そう呟く。自分に言い聞かせているだけだ。

 人の少ない電車だから、誰も振り向いたり、不審な目で見てくる人はいない。そんなことも、安心するというよりは不快感がある。田舎暮らしで楽しいことなんて、想像もつかない。

 しかしさつき町は、市外局番が四桁なのに、さほど田舎ではなかった。

 駅舎こそ古臭い木造で、待合室に電話ボックスや緑色のベンチなんかもあったけれど、それだけだ。駅前からしていくつも飲食店や家電量販店などがあり、風景だけなら大宮や柏など関東圏の人口が多い都市部となんら遜色なかった。

 不便ということはなさそうだが、それでもやはり憂鬱な気分だ。さつき町では、社員寮に住む必要があるという。私の知る社員寮は、とても都会にあるとは思えないような狭く汚らしい建物で、いくら家賃が安いからと言って住んでいるのはごく一部の変わり者だけだ。おそらく、ここだって同じだろう。

 ため息を吐きながら、町の雰囲気にそぐわない、「タクシー」と書いた木製の看板の前に並ぶ。五分ほど待ってみて違和感に気付いた。タクシーが来ないというより、ほとんど車通りがない。道幅に比して交通量があまりにも少ないのだ。

 それでも待つしかない。まだ来ないかと、じっと車道を見つめていると、一台の白い乗用車が近づいてきた。乗用車はタクシーのレーンを進んでくる。もしかしてタクシーかもしれないと目を凝らしてみても、やはりどう見ても乗用車だ。

 乗用車はそのまま私に近づき、目の前で停まる。

 運転席のドアが開き、降りてきたのは私と同年代、つまり三十代半ばくらいの優し気な男性だった。顎にだけ髭を生やしている。

「そこにずっといてもタクシーは来ないよ」

「え、ええと……」

「金栗宗久です」

 彼はこちらに右手を差し出してくる。握手だとはわかる。しかし、警戒心が先立って、その手を握るのを躊躇する。柔和そうだし、好感の持てる見た目だ。しかし——

「怪しい者じゃないよ。嘘は吐いていない。本当にタクシーは滅多に来ないから、待っていても仕方がないんだよ。バスはあるけれど、それも今からでは……この町は帰ってくる人はいても、わざわざ来るような場所ではないからね、それでもどうにかなってしまうんだ」

 予想外に口数の多い男だ。不快には思わない。誠実さの表れだと思う。でも、そんなことよりも、誰もタクシーが来ないなんて教えてくれなかった。さつき町への異動は同僚も先輩も知っていて、「うらやましいな」「いいとこらしいね」なんて無責任に言ったくせに。せめて、滝川からは何かしらの連絡があってもいいはずだ。

「だからね、千家さん」

「はい……?」

 突然名前を呼ばれて体が跳ねる。

「ど、どうして名前、知ってるんですか?」

「ああごめんなさい、それも言っていませんでしたね。そちらの会社の方からあなたを送るように頼まれて」

 会社に入寮の日が伝わっていたとしても、電車の時間などは伝わるはずがない。金栗に感じた「無害そう」という印象がわずかに弱まる。

 それを察したように金栗は笑った。

「はは、もしかして信用ならないのかな、それなら、スマホを出して」

「どうして?」

「変なことなんかしないよ。ここ、人通りも多いし、大丈夫」

 しぶしぶポケットからスマホを出すと、金栗もごそごそとポケットを漁ってから、私の目の前に免許証を掲げた。

「これ、撮って。友人や家族、誰でもいい、信頼できる人にその写真を送ればいい。会社の人でもいいよ。滝川さんとかね。『今から寮までこの人に送ってもらいます』ってね。そうすれば、きっと悪いことはできないでしょう。確かに、女性が男性の車に乗るのは警戒してしまいますよね」

「いえ、その、大丈夫です……ご丁寧な対応ありがとうございます……逆に、過剰に警戒してしまってすみませんでした」

「いえいえ、こちらこそ。というか、事前に迎えがくるって言われていなかったんだね。随分不親切だね」

「あはは、そうですね……ありがとうございます」

 私は少し気まずく思いながら白い乗用車に乗り込んだ。金栗は特に気にしている様子はなく、私を助手席に乗せて車を発進させる。

 走り出してすぐ、

「ここ、千家さんが来たところとけっこう違うでしょう」

「ええと……」

「田舎で、何もないと思うかなーって」

 交通量が少ないのは確かに田舎らしいかもしれないが、それ以外は全くそうは思えない。

「いえ、むしろ、私が住んでいたところよりずっと栄えていますよ」

「そうかあ。そう見えるんですね」

「そうだ。人は、見えるものしか信じない」

 後部座席から金栗以外の声がした。子供の声だと思う。それなのに、なぜか落ち着かないものを感じて、私は心臓をばくばくと言わせながら振り向いた。

「ああ、乗っていたんだね……」

 顔立ちのきれいな少年だった。髪は真っ黒で、少しだけ前髪が伸びている。小学生くらいに見えるが、口を真一文字に結んだ無表情と、黒目がちな目が、大人が少年の姿をしているように見える。

 彼は後部座席に座り、目線は私でも金栗でもなく、フロントガラスに向けていた。

「あの、彼は……」

「直くんだよ。直くん、こちら、千家彩音さんです」

 直くんは何も言わなかった。視線をこちらに向けることもない。

 住人たちから話を聞いた今でも、後部座席でじっと座って挨拶もしない失礼な子供が、なんらかの神秘性を有した子供と同一人物とは思えないのだ。彼は顔がきれいなだけの、フツウの少年に見えた。

 イヤミ交じりに素敵な息子さんですね、と言おうかと考えているうちに、

「こちらでする仕事の内容は聞いてますか?」

 金栗がそう言う。

「いいえ、まだ……」

「それも教えてくれなかったのか。いよいよひどいね。じゃあ、もしかして、みつば文具がさつき町から撤退するという話も聞いてなかったりします?」

「えっ」

 純粋に驚きで声が出る。本当に聞かされていなかった。

「それ、いつ頃ですか」

「プロジェクトとしてね、撤退する前に、町の人の声を集めている。千家さんは町の人から話を聞く業務というわけです」

 撤退の日時は教えてくれなかった。だが、それを聞き返すほど余裕がない。私は完全に混乱していた。来るまでは名前も知らなかったような田舎町。来てみれば思ったより都会ではあったものの、会社が撤退するような場所なのだ。そんな場所ということは、やはり。「左遷」の二文字が頭を埋め尽くす。

「千家さん」

「あっ、はい……」

「こちらで話を聞く相手のところに連れていきますから、基本的に毎日、僕と二人行動になると思います。どうです?」

「どうですと、言われても……」

 答えようがなくて、窓の外に視線を移す。駅前から少し離れたからなのか、店舗は減っており、民家が続く。民家も、パブリックイメージの「田舎」を想起させるものではなく、マンションなど、都会的だ。

 家々が並ぶ前を通る歩道に、ランニングしている集団を発見する。服装もばらばらで、すぐに見えなくなってしまったが、老いも若きもいたような気がした。

「みんなでランニングなんて、健康的ですね。人通りもそこまでごみごみしてないから、気持ちよさそう」

「ああ、そうだよね。悲しいことだよね」

 金栗はぼそりとそう言った。

 何か聞き返す前に、車は停車する。

「ここだよ」

「ここ……ですか」

 かなり驚いた。全面ガラス張りの建物で、一階部分はカフェスペースになっているようだ。清潔な雰囲気の空間で、清潔な雰囲気の男女がゆっくりと過ごしているのが見える。

 ドラマに出てくるオフィスのようだった。

「本当にここ、社員寮ですか?」

「そうですよ。あなたの部屋のキーはこれ。荷物を置いたら、もう一度降りてきてくれますか? ここで待っているから」

「ええ?」

「それも伝わっていないのかな。まったく、滝川さんは。来てすぐで申し訳ないけれど、仕事の説明があるんですよ」

 私は金栗以上に何も伝えてくれなかった弊社にあきれながら、外装と同じく洗練されたデザインの自室に荷物を置き、軽くメイクを直してから一階に降りた。

 横目でフリードリンクが常備されている様子のカフェスペースを見ながら、私はエントランスに向かう。外には金栗と直くんが立っていて、金栗は視線を合わせるように腰を曲げ、直くんはその耳に何か呟いていた。雰囲気のある子だが、やはり、ふつうの親子にしか見えない。

「お待たせしました」

 私が声をかけても、直くんは耳打ちをやめなかった。金栗も私の挨拶には反応せず、彼の話を聞き続けている。子供がいないから分からないが、親というのはこういうものなのかもしれないので、無視されたことは気にしないようにした。

「ああ、ごめんね」

 しばらくして金栗は姿勢を正し、こちらに向き直った。直くんの方を見ると、すぐに背中を向けて去っていく。

「あのー、直くんは」

「大丈夫だよ。それより、仕事の話をしましょう」

 カフェスペースに腰掛け、仕事の話を聞く。フリードリンクは多種多様で、私はアイスティーを、金栗はアイスコーヒーをグラスに注いだ。

 滝川の言っていたことは、あながち的外れでもないと分かる。つまり、本当に記者のようにインタビューをして、それをまとめるという仕事のようだ。

「どんなに突拍子もない話でも、心の中でバカバカしいと感じても、必ず最後まで聞いてください」

「ええ、それはもちろんです」

 なぜそんなことを言うのかよく分からなかった。今までも、確かに話が下手な人間にインタビューしたことはある。話が二転三転し、意味が分からないと思い、独自の解釈でまとめてしまったこともある。しかし、事前にそんなことを言われるなんて。

 そういうわけで、私は次の日から金栗に連れられて、「話を聞くべき住民」に会いに行くことになった。

 

(つづく)