美嘉の話が終わった瞬間、テーブルの上の空気が沈んだ。
重いとか怖いとか、そういう感情じゃない。
ただ、意味がなかった。理解不能。着地点なし。混乱だけが残った。
私は思わず声をあげていた。
「……は? いや、だから何の話なの?」
美嘉は、氷が溶けきったアイスティーを静かに揺らしながら、小さく息を吐いた。
笑ったのかと思ったけれど、違う。
「話せって、言われたので」
呆れたような声。
「そうじゃなくて……何か、あるよね? オチというかまとめというか、あなたが何を思ったかというか、そういうものがふつう、あるでしょう」
「そう思うんですね」
淡々と返す声。まるで私の方が間違っているみたいに聞こえる。
私は苛立ちを抑えられなくなる。
「いや、普通あるでしょ。こんな長く話して、ただ悲しい思いしましたじゃなくてさぁっ!」
美嘉はストローの紙を弄びながら、目だけこちらに向けた。
「悲しい思い……? ああ、そういうふうに聞こえたんですね」
その言い方が、ますます私を苛立たせる。でも、同時に理解してしまう。彼女は私を馬鹿にしているわけではない。わざと意味不明なことを言って反応を窺っているわけでもない。本当のことを話している。それで、なぜか、全て諦めている。
私は半ば投げやりに言った。
「……じゃあ、何? あなたはその、この町の、被害者ってことなの?」
「被害……?」
美嘉はゆっくり瞬いてから、かすかに口角を上げた。
「違います。私は加害者ってことです。赦されないらしい」
ゾッとした。
自嘲にも後悔にも怒りにも聞こえない。
報告。
「千家さん」
美嘉は指先でテーブルをとん、と叩いた。
「な、なに……?」
「鳥は来ません。ずっと。餌を置いても、寄ってきません。気配すらありません。でも……だからなんだって思うんです」
私は眉を顰める。
「なにその例え?」
「例えじゃありません。本当のこと。本当に鳥が寄って来ないんです」
また、鳥。郵便局員の青年も、売れない作家も、金栗宗久も、確か、鳥の話をしていた。
「鳥がいないっていうのは、その……神様の」
「知らんわ」
美嘉はふっと息を吐き、少しだけ口調を崩した。
「天罰って言葉、ありますよね。でも、なんか、ズレてるんですよ。人間が罰って思うものと、向こうが罰だと決めるもの……同じじゃない。噛み合わないんです。私たちが怒られたと思う何かは当然のできごとで、救いと思うものが永遠の断絶だったりする」
言葉は分かるのに、意味が理解できない。
なにか大事な前提を知らずに話を聞かされている気分。
それでまた、苛立ちが蘇る。
「結局なに? 自分は罰を受けてますって? やっぱり被害者ぶってるんじゃないの? それがなんなのかは分からないけど」
「ふふ」
美嘉は虚ろな目で笑う。
私はもう我慢できなかった。
「……陰口も、悪口と同じだからっ」
自分の声なのに、聞こえた瞬間ぞっとした。
私はそんなこと思っていなかった。
少なくとも、今その言葉を言う理由なんてどこにもなかった。
でも、口が勝手にそう言った。
美嘉は驚かない。ただ少し、懐かしいものを見るみたいな目をした。
「ええ。そうでしょうね」
「なんなのほんと、あんた」
立ち上がると、椅子がきしんだ。
鞄を掴む私に、美嘉は深々とお辞儀をする。
「今日はありがとうございました。もうすぐですね」
声だけは丁寧で、言っている内容は意味不明。
私は振り返らずカフェを出た。
カフェを出て、苛々して、駐車場の周りをぐるっと回る。しばらく歩いたあとも、胸の奥がざわついていた。
ただただ苛立つだけではなくて、喉に小骨が刺さったみたいな不快感がある。
卵に目鼻をつけたみたいな地味な顔。落ち着き払った高い声。訛りの残る語尾。思わせぶりな沈黙。
全部、全部、腹が立つ。
下品だと分かっていても、舌打ちが止まらない。
「はぁ……なんなの、あれ。勝手に悟ったみたいな顔して。意味わかんないこと言って、『私は特別です~』って顔。中二病かよ、寒」
自分の声が思ったより強く響いて、少しだけ気まずい。
周囲を見渡すが、誰も振り返らない。
その、誰も気にしない感じも腹が立つ。ぐちぐちと、そういう話を聞かされた。誰も気にしない。手のかからない子。知らない。下らない思春期の悩み。
誰も彼も、自分が特別だと思いたがる。
あの子もそう。若くて幼稚だから分かっていない。
何が主役? 下らない。
主役と呼ばれる人だって、所詮は人間。この社会のいち要素でしかなくて、いるもいらないもない。そんなことを考えているのは暇人だけ。ふつうの人は、自己表現とか自分の役割なんてどうでもいい。ただ、働く。働いて生活。
大体。神様がどうこう。
『そうは言ってもさ』
顔を上げる。
何もない。整備工場の旗が揺れているだけ。
『そうは言っても、天罰とか』
「うるさい!」
大声を出して掻き消す。
気持ち悪い。何が天罰だ。
立ち止まる。心臓が強く、意味もなく、跳ねる。意識しないと呼吸ができなくなりそうなほどに。
子供は大嫌い。ああいう、悟ったような生意気な子供は特に嫌い。
働いたこともないくせに訳知り顔で、大嫌い。
そんな子供に——前も、会ったことがある?
どこで?
思い出そうとすると、内側から拒絶するように頭に圧がかかる。
耳鳴りがする。
深呼吸をする。すうはあ、すうはあ、すうはあ。何回か繰り返すと、頭から血が降りていくのを感じる。
「ほんと、ムカつくわ」
そう言って、駐車場に戻る。さっさと帰ろうと思う。帰って、今日は記録をまとめない。明日に回して、美味しいご飯でも食べて、寝る。
苛立ちのまま道路沿いを歩くと、町の住人が数人、歩道でじっと空を見上げていた。
またこれだ。
誰も会話しない。
誰も表情を変えない。
ただ、同じ方向を、同じ姿勢で見つめている。
初めて見たときは、寒気がした。悲鳴を上げて逃げ帰って、布団にくるまりながら、お笑い番組を観た。けれどもう何度も見ている。それに今の私は怒りで満ちている。
「ねえ、邪魔なんだけど? ボーっと突っ立ってんなよ。気持ち悪いな!」
声が思ったより荒れて出た。
住人の一人が、ゆっくりこちらに顔を向けた。
怒るでも、驚くでも、怯えるでもなく。
「すみません」
すまなそうな顔はしていない。私の顔をじっと見る。
何かを確認するような顔。
「それで神様は」
「すみませんっ怒鳴ってしまって」
私は誰かの声をかき消すように言って、駐車場へ向かって足早に歩きだした。
背中に視線が貼り付くような感覚。
「最悪」
声が漏れる。
「最悪、ほんとやだもう、ここ」
苛立ちの代わりに、猛烈な羞恥心が湧いてくる。頬が熱を持つのが分かる。
自分でも理由の分からない羞恥心に押され、私はさらに歩く速度を上げた。
少し落ち着いた頃、自然と指がスマホを開いた。
金栗の書いた丁寧な字。
次は、さつき食堂 田村夫婦。
「よし」
リストも残り少ない。それに、夫婦ということは、それなりに大人で、美嘉のように大人を舐め腐った子供ではない。それだけで、こちらの心情はかなりマシだ。
「気持ちを切り替えなきゃ」
ため息を大げさにつき、私は車の方へ戻った。
「まあいいや。ご飯ついでに話聞こ。腹立つけど……仕事だし」
遠くの空に、黒い影が見えた。カラスかもしれないと思う。
しかし、どれだけ目を凝らして見ても、それは黒い塊のようにしか見えなかった。